境内案内

①本殿

②拝殿

③宝殿

④天皇皇后両陛下行幸啓記念碑

⑤古札納所

⑥遺品資料室

⑦参拝控室

⑧儀式殿・祖霊社

⑨スカウトハウス

⑩狛犬(阿阿)

⑪参籠棟

⑫特攻勇士之像

⑬母の像

⑭祓石

⑮歩兵第51聯隊慰霊碑

⑯歩兵第133聯隊慰霊碑

⑰歩兵第151聯隊慰霊碑

⑱祓所(車お祓い所)

⑲社務所(神札御守授与・祈祷、御朱印受付)

⑳参集殿玄関

㉑自動販売機

㉒お手洗い

㉓酒樽

㉔手水舎

㉕英霊の言乃葉

㉖鳥居

㉗百度石

㉘三重県遺族会館

㉙社号標

㉚近衛兵第一聯隊碑

 



 

①本殿

伊勢神宮外宮の「東宝殿」を第59回式年遷宮時に賜り移築され、昭和32年に造営復興されました。


②拝殿


②宝殿


 

④天皇皇后両陛下行幸啓(昭和50年10月27日)記念碑

 


 

⑤古札納所

古い御神札や御守りをお納めいただけます。

 


 

⑧儀式殿・祖霊社

儀式殿は、伊勢神宮の第59回式年遷宮の際に建て替えられた外宮「四丈殿」を賜り移築された建物です。

令和3年9月に儀式殿内に祖霊社が御創祀されました。

 

祖霊社について


 ⑬母の像

 

強くきびしく

  やさしかった母

おかげで 今

  私たちがある

お母さん

 ありがとう


 ⑭祓石

 

 


⑮歩兵第五十一聯隊慰霊碑

 

表:慰霊 歩兵第五十一聯隊

 

裏:聯隊は明治三十八年創建、樺太等に出兵、爾後神都鎭護の大任を以て、三重縣久居市に駐屯す。然るに大正十四年五月、軍縮により廢止せらる。

昭和十三年七月、日華事變の擴大に伴ひ再建、三重、京都、奈良で編成を完結、第十五師團の隷下に入り同年八月渡支、南京東南地區に分駐し、治安警備並に各作戰に參加、赫々たる武勲を収む。

大東亞急を告ぐるや、昭和十八年八月ビルマに轉進、インパール作に加はり眞に特攻精神を發揮す。昭和二十年八月十五日大命により終。此の間軍旗の下盡忠報国祖國繁栄を祈念しつゝ國家の人柱となられた友は實に四千有餘柱に及ぶ。

茲に護國の神となられた英霊の名を誌し供華臺に納め魂の碑となす

昭和五十一年四月

歩兵第五十一聯隊(祭第七三七〇部隊)生存者一同

 


⑯歩兵第百三十三聯隊慰霊碑

 

表:歩兵百三十三聯隊 戦没者慰霊碑

 

裏:慰霊碑銘

 歩兵第百三十三聯隊(嵐第六二一四部隊)は支那事変に際し昭和十三年五月久居町の屯營において編成 第百十六師團に属して同六月中國に出征し第十三軍に隷す 当初浙江省杭州府附近にいで安徽省銅陵県附近を戡定駐屯し楊子江警備に任じつつ江南江北に轉戦幾十度に及ぶ 特に十三年秋 武漢攻略戦には遠く漢陽に進撃し 十四年冬 敵十数個師による冬季大攻戦を迎えては之を陣前に撃摧 十五年四月春季皖南作戦には挺進して霊峰九華山の天嶮を突破 敵主力を補捉 榮の感状に輝き 十七年夏 浙贛作戦には浙江省衢州城外西北陣地帯を一擧に席捲 軍の衢州攻陥に轉じ常德殲滅作戦に参加 輻輳する水濠を連続突破して湖南省常德県城攻略に任じ力戦死鬪七晝夜 遂に之を完全占領し再度の感状に浴す

 十九年夏 大陸の精鋭三十六萬 湘桂打通に動くや勇躍ます汨水を血流と化してその堅陣を突破し湘潭を奪い湘郷に敵を圧し更に長駆衡陽県城攻略の主攻に任ず 蓋衡陽攻略は湘桂作戦成否の焦点たり 七月一日クロ高地攻撃の初動より八月七日敵主陣地岳屏西方エビ高地を奪取して守備軍の死命を制するまで終始全軍の先陣に立ち白兵をもって奪取せる堅壘十数個 遂に敵牙城を抜く 感状三度燦として偉勲を讃う

 爾後第二十軍に属して寶慶附近を警備し 二十年春 湘西作戦起るや勇進して芷江敵航空基地全面に迫りたるも五月命により反轉 寶慶附近陣地に死守玉碎を期しつつ 八月 終戦の大詔を拝するに至る

 聯隊の戦陣に在ること八年に及び この間 鋒鏑疫癘に斃れたる戦友四千五百余柱を数う  新生日本既に三十年 ここに慰霊碑を建て 祖國の安危に挺身 民族の榮光に殉じたる戦没戦友の遺烈を偲び 在天の英霊永しえに安らかならんことを祈る

昭和五十一年四月

一三三会建之


⑰歩兵第151聯隊慰霊碑

 

表:歩兵第百五十一聯隊戦没者慰霊碑

三重県知事 田川亮三謹書

 

裏:慰霊碑銘

 歩兵第百五十一聯隊(安第一〇〇二二部隊)は 昭和十六年九月三重県久居町に新設され 昭和十八年十一月動員下令 昭和十九年三月ビルマ国へ出動した

 聯隊主力はインド国インパール攻略戦に 第一大隊は北ビルマ戦線に五月より参加した

 時あたかもビルマは雨期に入り 山中にて食糧その他の補給も無く 栄養失調と過労により身体は衰弱し マラリヤ 下痢等に悩みながらも勇戦奮闘した 十一月よりオークトウ マンダレー タウンタ付近の戦闘に参加し 優秀な装備の敵と交戦 戦場は惨烈苛酷をきわめた その後各地を転戦し 昭和二十年六月より雨期の泥沼の如きシツタン河口に於て 必死の攻防戦を展開中 八月終戦の大詔を拝するに至った

 風土の異なる遠き辺境に於いて 戦陣にあること一年五か月 この間連合軍 悪疫との戦に斃れたる戦友は二千九百余柱を数える 誠に痛恨の極みである

 ここに慰霊碑を建立し 祖国に殉じたる戦友の遺烈を偲び その功績を顕彰する 在天の英霊願わくは永久に安らかならんことを

昭和五十五年十月

歩兵第百五十一聯隊戦友会建之


⑳参集殿玄関