慰霊祭祭文
-津市以外-
三重縣護國神社で行う慰霊祭では、参列者の代表が祭文を奏上する次第ある場合があります。
その一部をご紹介します。
祭文は「祭文」から始まるのが通例ですが、「祭詞」や「祭辞」、「追悼文」、「追悼の辞」、「慰霊のことば」等という文言から始まるもの、いきなり本文から始まるものがあります。尚、祭文の原文を尊重していますが、文意を損なう明らかな誤字については一部訂正しました。
【歩兵第三十三聯隊慰霊祭】
三重乃護國神社乃神域に桜花乃如く潔よく護國乃鬼と散り給える歩兵第三十三聯隊第一大隊第一機関銃中隊の戰友二十餘名の御靈の御前に第三十三回の戰友会を開催し心を込めた慰霊祭を斎行(いつきまつる)に當り御靈の御前に謹み畏み申し上げます。顧りみますれば第一機関銃中隊は満州亊変に端を発し昭和九年四月七日満州駐剳の爲編成され満州へ後復員後昭和十二年八月二十四日支那亊変により動員下令天津附近に上陸以来昭和二十年八月終戰に到る迠八年有余の星霜を経て北支中支、比島に於て数々の作戰に参加し赫々たる武勲を立てた郷土部隊の精鋭であり、特に北支東辛荘の緒戰、南京作戰の無錫付近徐州会戰、武漢作戰の大別山の戰鬪、襄東会戰等に参加、此の間我中隊の戰死者十四柱戰病死者四柱の尊い生命を失ったのであります。次で大東亜戰爭に突入して比島に派遣せられバターン作戰引続きレイテ作戰に参加された方々は戰局利あらず軍旗を奉焼し聯隊長以下玉砕せられ戰爭の悲惨を物語って居ります。今当時を回想(おもえば)戰友の面影が苛烈なる戰斗状況の中に浮び上って参ります。戰後四十九年國民のたゆまぬ再建への努力と二百数十万英靈の御加護により我国は経済的には奇跡的な繁栄を遂げ世界第一位の富裕國にのし上り、先進国の中でも重きをなすに至りました亊は御同慶に堪えません。東西冷戰終結後の世界情勢はまことに不透明混迷を続けて居り、日米その他の国との経済摩擦も深刻化しており今後外交の困難が予想されました。国内では連続的に不祥亊が露見し政治不信は髙まり経済不況も益々深刻なものがあります。今や内外共に多難な秋に際し戰爭に生き残り今以て健在であります我々は御祭神方の啓導を畏み日本精神を発揮し、国家社会の先駆者たらんと心掛け日本の眞姿顕現に努め以て神靈(みたま)を安んじ奉ると共に聊かなりとも国家社会の進運に寄与し、延いては二十一世紀への繁栄と安寧を祈念すべきであると存じます。戰友会も今期に於て解散を決定致しますが、今後は元氣な者声を掛けあって懇親会は続けて参ります。本日御遺族方をお招きし各地より戦友参列し眞心を捧げて慰霊祭をとり行いました次第であります。冀くば英靈の方々我等が微衷を諒とせられん亊を。
平成六年四月十七日
歩兵第三十三聯隊第一大隊第一機関銃中隊
戰友會々長 山本 安次郎
【歩兵第五十一聯隊慰霊祭】
祭詞
歩兵第五十一聯隊に所属して戦没された方々の慰霊祭が、かつての戦友であつた人々によつて執り行なわれるに当つて謹んで神鎮まります英霊に申し上げます。
皆さまは私共の郷土部隊であつた歩兵第五十一聯隊が再び編成されたとき、この部隊に加わり、或いは再び下賜された軍旗に縁の深い久居の留守隊から出征されたのでありまして、県民ひとしく聯隊の武勲と皆様の武運とを祈念していたところであります。
御出征以来、華中方面において永く警備と作戦に従事せられていたのでありましたが、戦況の悪化に伴い、南方の急を救うべくビルマに転出せられ、かの極めて困難であつたインパール作戦とその後の撤退作戦に参加せられたのであります。
この作戦は絶対優㔟な敵に対し、特にその制空下において悪疫に悩まされ、補給も受けず嶮山大河の障害を突破しての悪戦苦斗の連続でありまして、皆様の多くは、この間に敵弾に傷つき病魔に冒され、あたら春秋に富む身を異境の地の土と化せられたのであります。
御無念御不運のほど、また御遺族様の御悲嘆如何ばかりでありましたでしょうか、誠に誠に御同情に堪えない次第であります。
どうしてお慰めしてよいか術もないのでありますが、御血潮をもつて染められましたインド及びビルマは戦後それぞれ独立することができ、かつてわが国の悲願であつた東亜解放の一端が実現することができました。
また、わが日本も独立国家として国際社会に復帰でき、近来国力の発展、国民生活の向上等、めざましいものがあり、相次ぐ災害をうけた本県も漸く復興し、御遺族様の生活も一応御安心して頂ける域に達しました。
これひとえに皆様の尊い犠牲の御賜であると共に、英霊のお導きによるものでありまして、これを御報告することができるのが、せめてものお慰めではないかと存じます。
今後、私共一層力を併せ、国力の向上と社会の発展を図り、御遺族様が御多幸になるよう努力いたしたい覚悟であります。
皆様、何卒御安堵のうえ、御静かに神鎮まりますよう御祈り申し上げます。
昭和三十六年四月二十三日
三重県知事 田中 覚
祭辞
若葉も萌えてかげろう立ち春たけなわの本日ここに第十五師團歩兵第五十一連隊祭部隊の将兵の方々の慰霊式典が戰火にまみれ困難を共にせられた戦友の方々の手によりねんごろに挙行せられるにあたり謹んで祭辞を申し上げます。
皆様は昭和十三年八月支那亊変の拡大に伴い上海上陸以来中支の警備にあたり戰火は広く第二次大戦となるに及びビルマ地域に転進、とき昭和十九年一月なかば、爾来昭和二十年八月終戦の大詔を拝するまであしかけ三年の歳月を熱気ただようビルマ作戦一すじに終始せられなかんづく最も悲壮な戦斗が行われたインパール攻撃には歩兵第六十連隊と呼応し、全㔟力を集中してこの戦斗にあたられたのでありますが、物量をたのむ強力なる敵砲兵と空軍ならびに戦車の反撃と加うるに圧倒的優㔟をほこる敵火力の威力に抗し得ず折田一雄大佐以下三重県をはじめ大阪府、京都府、奈良県および滋賀県出身将兵約五千柱の方々が消煙の中に散華せられたのであります。私はいま式典にのぞみ遠く故国をしのび必勝を胸にしめ祖国の礎となられた皆様の胸中を偲びますとき、そのご無念のほどはいかばかりかと存ぜられ、うたた断腸の想いでございます。
戰は我に利あらず終戦以来二十年国㔟も文化に経済に驚異的な発展をとげアジアの先進国として今日の平和と繫栄を享受出来るのはこれひとえに祖国のため一身をもかえりみず勇躍聖戦に參加され尊い生命を国のため捧げられ日本民族の礎石となられた皆様方ご英霊の尊い犠牲の賜とお加護によるものと存じ、改めて感謝の意を表する次第であります。
しかしながらアジアの現状をみますとき平和は遠きの感深くベトナムにおいては血みどろの戦いが日夜続けられ、いつはつるとも知れず戦火は除々に拡大されつつあります。この秋にあたり戰火の直接脅威をうけるのはアジア諸国であり、その解決は平和を確立し維持しなければならないアジアであるとの見解にもとづき平和会議が日本又は皆様が戦没されたゆかりの地ビルマにおいて開催される動きがあることを昨今の新聞は報道しています。
願わくば再び戰爭の惨禍を繰返えすことなく世界恒久平和の樹立に向って全民族を通じ努力することがせめてものご英霊にお報いする一助ではないかと存ずるのであります。
さて本日お集りの戰友の方々、思えば長いすぎし日の激戦に筆舌に尽しがたい辛酸をともにされながらも祖国のために傷つき倒れ、或は病魔におかされ戦没されたなき英霊と久方ぶりに面会され、さぞかし大変お喜びのことと存じます。草葉のかげの戰友と苦しかりし数々の又楽しい思出をこもごも心ゆくばかり語り会はれると共に戦友のご冥福を祈りください。
また、ご遺族の方々も戰友のいつも変らない友情によって営まれるこの慰霊の式典をそれぞれの自宅で或は職場で感謝の気持をかみしめながら心から感激されていることと存じます。
どうか今はなき戰友のご遺族の方々をはげまし慰めこのあたたかい友情が末長く続けられる様、特にお願いする次第であります。
最後に在天の英霊のご冥福とご遺族並びに戰友の方々のご多幸をお祈りするとともに私も微力ではございますが郷土の平和と繁栄に全力を傾注することをお誓い申し上げて私の祭辞といたします。
昭和四十一年四月二十四日
三重県知事 田中 覚
慰霊の詞
本日こゝに歩五十一会の主催により元第十五師団歩兵第五十一聯隊戰没者の合同慰霊祭が嚴かに執り行なわれるに当り三重県議会を代表し謹んで慰霊の詞を申し上げます。
こゝに在天の霊となられて安らかに鎮まります英霊はかつて祖国のために身を挺して奉公のまことを尽くされ遂に幽明境を異にし尊い護国のいしずえとなられました。皆様を亡くされた御家族をはじめ戰友郷党の方々は痛恨悲嘆にくれられそのうえ敗戰の苦渋を喫した我が国において御遺族の日常生活には幾多の困難があったのでありますが御遺族の皆様には肉親を国家に捧げられた遺族であるという髙い誇りと謙虚なお気持ちをもって黙々として堪えがたい難苦にも打ちかって荊の道を生き拔いてこられました。
この御遺族の方々の御心情をお察しいたしますとき何とお慰めしてよいかその言葉も見出せなかったのであります。
すでに終戰後二十有余年の歳月が流れ敗戰の苦しみを味わった国民も心の落ち着きを取りもどし全国民の不撓不屈の努力によりわが国も新しく生れ変って平和と民主主義のもとに今日の目ざましい発展を遂げることができたのであります。これもひとえに祖国のために尊い生命を捧げられました霊(みたま)の限りない御加護のたまものであると堅く信じて疑わない次第であります。
私たちは今後共一層の力を尽くして御遺族の援護に努め世界平和と人類の福祉に貢献することが護国の英霊の御遺志にむくいる唯一の道であると堅く信ずるものであります。願わくはこのうえとも一層のご加護を賜わると共に霊(みたま)の御冥福を心からお祈りして慰霊の詞といたします。
昭和四十一年四月二十四日
三重県議会議長
神谷 長一
祭文
本日は三重県護国神社に於て春の慰霊祭に当り遺族代表として謹んで追悼の詞(まこと)を捧げます。
御来賓の皆様始め戦友各位、ご遺族の皆様、多数のご参列下さいましてかくも盛大に慰霊祭をとり行っていたヾきますこと、ご英霊と共に遺族として厚くお礼申し上げます。
昨年十一月インパール慰霊巡拝団に参加させていたヾき、あの苦難の戦斗をされ戦死されました。
その塲所、又は、近くまで、今回は慰霊に行くこと出来ました。本当にありがたく感無量でございました。あのアラカン山脈、その山々を越え、後方よりの補給もない、苦難苦斗の戦斗を、ひたすらインパールまで前進又前進よくぞこヽまで進撃されましたもの、武運つたなく撤退の余儀なくなり、さぞ御無念だったろうと、今も尚胸がいたみます。今回ご参加されました、戦友の皆様の中にはご本人が戦斗をされました、その山に登りその陣地跡にて慰霊させていたヾくことが出来ました。地下でねむるご英霊を思いたヾたヾ涙にむせぶばかりにてどうかみたまの安かなれとひたすらお祈り申し上て参りました。弟髙倉啓一は昭和十九年七月八日マニプール王國チエップにて戦死いたしました。今回はありがたいことにインパールで五泊も出来、念願のご英霊の鎮ます、山々にも登り、心いくまで慰霊をして参りました。慰霊の道中副団長古田中様のご案内ご説明にてチエップに一番近い地点で、慰霊をさせていたヾき、本当にありがとうございました。これで永年の心のくぎりがつきました。今日の日本の繁栄は尊いご英霊の皆様のご加護の賜と感謝を申上げます。
最後にご英霊のみたまの安かなれとお祈り申し上げ、慰霊の言葉といたします。
平成四年四月十二日
遺族代表
髙倉 啓一命
髙倉 保
祭詞
本日ここ三重県護国神社において宮司様はじめ神職の方々の御奉仕により現存戦友相集い歩兵第五十一聯隊戦没英霊の慰霊祭を執り行うに当り謹んで祭詞を捧げます。
歩兵第五十一聯隊は第一次世界大戦後の軍備縮少の国際協定の爲に大正十四年に廃止されましたが昭和十二年七月日支事変が発生しその拡大するに及び、昭和十三年四月再建され、歩兵第六十聯隊、歩兵第六十七聯隊と共に第十五師団の隷下に入りました。
同年八月中支那に渡り南京東南地区に駐屯して地区内外の警備治安の維持に任じつつ幾多の作戦討伐に参加して赫々たる戦果を挙げて参りました。
次いで昭和十六年十二月大東亜共栄圏の確立を信條として勃発した大東亜戦爭のため、昭和十八年の秋より南方に転じビルマ方面軍の指揮下に入りインパール作戦に参加、その北側高地の要衡に進出しましたが優勢なる敵部隊の反叀に遭遇し、悪戦苦闘且つ後方よりの彈薬糧秣の補給、意の如くならず加えて雨期に入り後退転進の止むなきに至り、遂に残念にも敗戦となりました。
今次の事変及び戦爭において皇国の安泰と繁栄を願って尊い身命を捧げられたご英霊は五千百余柱にも及びました。
さて戦後は五十有余が経過しましたが我が国においては諸霊のご教訓に従い戦爭を放棄し平和裡に経済の発展に努めて参りました。
東亜諸民族も欧米諸国の植民地政策の桎梏より解放され又米ソ冷戦の解消と共産主義の弱体化により民族の自立独立なりました。
今後はご英霊の御加護により世界の平和に協力し祖国日本の物心両面に亘る繁栄と御遺族様のご多幸を賜りますよう祈念申し上げます。
終りに臨み、御英霊のご冥福を心よりお祈り申し上げ祭詞と致します。
平成九年四月十三日
三重五一会
会長 久田 正夫
【歩兵第百三十三聯隊慰霊祭】
祭詞
本日ご遺族各位のご参集を煩わし慰霊の祭典を挙行致されるに当りまして英霊各位に蕪辞を捧げ度いと存じます。
先に大東亜戦争勃発致しますや各位勇躍征途に上られ或いは炎熱瘴癘の地に活躍或いは熾烈なる弾雨下に奮戦せられ幾多有為の才を抱いて国難に殉ぜられました。其の当時の各位の壮容を追憶しますとき感慨更に深いものが有ります。然るに事初志に相反し敗戦の悲運を招き進軍の目的を貫徹し得ず国民を苦難に陥れましたことは痛恨の極みで有りまして深く責任を感ずるものであります。
然しながら終戦以来二十有余年我が国力特に経済は未曽有の発展を遂げ国防の施設も逐日整備せられ列国注視の的となる程になりました。又眼を外に転じますとき曽ての被圧迫民族は今尚紛争の渦中に有るものも少くないとは申せ幾多独立国家を建設し発展の途上に有ります事は心強い次第であります。
之等は我が国民の並々ならぬ努力とは申せ又以て各位が一身を犠牲にせられ国事に殉ぜられました恩恵に根源すると信ずるのであります。
在天の英霊希くば御心を安んぜられ此の上とも国家国民に御庇護御鞭撻を賜わらんことを懇願致し祭詞と致します。
昭和四十五年四月十二日
元歩兵第百三十三聯隊長
石谷 甚三郎
祭文
本日、桜花爛漫たるこの護国神社に、元歩兵第百三十三連隊の戰友並に陣歿せられた英靈の御遺族相会して、大慰霊祭がとり行われるにあたって、英靈のみたまに謹んで祭文を捧げます。
昭和十三年五月、この連隊が編成されてから終戰によって解隊せられるまでの期間は、僅かに七年余りでありましたが、連隊は出征以来中支の各所に転戰してよく健鬪し、あの短期間に三度感状を授與せられた程の抜群の武功を立てヽおります。
これは、英靈の皆様始め当時の戰友一同が、今はなきあの軍旗の下に、常に鉄石の団結を保ち、死生苦樂を共にしつヽ、滅私奉公に徹して敢鬪せられたことを端的に語るものであります。
またこのことは、目下防衞庁で公に発行せられつヽある大東亜戰史にも逐次記録される予定でありまして、一昨年発行せられた「湖南の会戰」という史書には、湘桂作戰における連隊の勇戰奮鬪の実績が、他の諸部隊に比し一段と詳細に記載されて、この青史に燦然と光彩を放っております。
皆様の御遺勲は、末永く後世に伝わるようになりましたことを、こゝに御報告申し上げます。
しかしながら、皆様は、累次の激戰にまた長途の難行軍において、敵弾に斃れ或は病魔の犯すところなって護国の神となられ、本日こゝに幽明境を異にしてお会いしたことは、誠に感慨無量なものがあります。
また、あらゆる困苦と欠乏を克服しつヽ、濁流渦まく水郷地帯に、或は炎熱の下赤禿の髙地帯で弾雨をくヾり硝煙に見えつかくれつして突進されたあの神々しい御英姿を偲んでは、萬感胸に迫り、追慕の情切々たるものがあります。
然るに、殉国の英靈とお祀りする靖国神社が、終戰後占領軍の強制によって、国による御守護を禁ぜられて宗教法人となって以来、天皇陛下の公式の御親拜もできないまヽ今日に至っておりますことは、誠に遺憾であり、また申し訳ないことヽ存じております。昨今、靖国神社国家護持復活の気運は漸く髙まりつヽありまして、われわれは、一日も早くこれが実現を祈念しておる次第であります。
終戰後、苦難の道を辿ったわが国も、平和のうちに二十数年を経過し、今や、産業、文化等各般に亙ってすばらしい発展を遂げ、また皆様の御遺族並に生存戰友も各々その処を得て、国家社会のために貢献せられつゝあります。これはひとえに、英靈の皆様の尊い御庇護によるものと感謝感激しておる処であります。
願わくば靖国の神々、なにとぞ安らかに鎮まりまして、このうえとも御遺族の御多幸と国家の繁栄、世界の恒久平和のために御加護を垂れ給はりますことを、茲に謹んでお祈り申し上げます。
昭和四十五年四月十二日
元歩兵第百三十三連隊長
正五位勲三等 黒瀬 平一
祭文
薫風神苑になびき若みどり一きわ慰霊の碑に映ゆるとき、元歩兵第百三十三聯隊に所属し悲しくも大陸において散華せし戦友諸兄のみ霊の前に、再びご遺族のご参列を得て謹み哀悼の誠を捧げます。
憶へば昭和十三年六月上海上陸以来終戦まで七年有余、その間聯隊は感状に輝く皈南・常德衡陽攻略戦を始め、数々の激戦において、常に兵団の中核としてよくその重責を完遂し、わが軍旗翻るところ、随所に赫々たる戦跡を残したのであります。
然し、これらの輝かしき戦歴のかげにはみ霊たちのかけがえのない犠牲のあったことを忘れてはならないのであります。私共のみ霊たちに対する思慕敬愛の念は聊も揺ぐ事なく、歳と共に益々募るばかりにて、今静かに瞼を閉せば、あの傷ましい訣別の情景が、彷彿として蘇ってくるのであります。
忘れもせぬあの時砲煙弾雨を冒し、ましらの如く突進のさ中、胸板深く射抜かれ鉄帽を打ち砕かれ、或は砲弾・地雷・手榴弾の炸裂をまともにうけ、或は雄叫びあげて敵陣に突入したあの一瞬ドッと倒れたみ霊たちが、無念の思を込めて掴んだ異国の大地はあまりにも冷たくはなかったのでしょうか。抱えあげたこの腕に母を呼ぶ声を聞きました。妻や子に何かを訴えようとする声も聞きました。そして呼べども呼べども答なき別れとなった戦友も或は傷つき病んで野戦病院の片隅で、一人淋しく散ってゆかれた数多くの戦友もあり、その数四千五百余柱。み国の為とは申しながらかくも無情な訣別があるでしょうか。
戦争故に、かくも空しい別れを強いられた私共の悲しみは、今尚哀切胸を打ち誠に堪え難く、それにもましてご遺族のご心中如何ばかりかと、お慰めの言葉にも苦しむものであります。
然しご照覧あれ
ご遺族の方々には、本日かくもお元気にご参拝下さいました。そして老いたりとも一三三魂未だ脈々として五体に漲る戦友たちも、み霊たちの在りし日の面影を偲びつゝ声なきみ声に耳を傾けているのであります。
み霊たちの尊き犠牲によってかち得た平和と繁栄も昨今再び髙まる世界的緊張の中にあって、全く予断を許さヾる状況にあります。然し私共は如何なる事があろうとも、日本が再び戦争の惨禍を繰返すことは、即ちみ霊たちの崇髙なるご遺訓を踏みにじるものであり、あくまでもこれを拒み平和の維持繁栄を求め続けることを堅く誓い、み霊たちの永久に安らけく神鎮まりまして、ご遺族並びに私共に無辺のご加護を賜わらんことを、謹みて祈願するものであります。
昭和五十六年四月十九日
一三三会々長
桑田 一雄
祭文
護国の杜の奥深く鎮まります歩兵第百三十三聯隊第十一中隊弐百九拾四柱の英霊に謹みて申し上げます。
我が聯隊、中隊が大陸に出征いたしましてから、既に四十有余年の歳月を経ました。あの激しい八年に及ぶ戦場の日々の間に、あなた方は揚子江の各地に於て、はたまた湖南湖北の各地に於て命の侭に勇敢に斗い、或いは傷つき或は病に冒され尊い一命を捧げて国運に殉ぜられました。戦後の日本は敗戦の非運に屈することなく新生の意気を以て国際社会の中に雄々しく立上り、今や戦前を遙かに凌ぐ實力を世界に認められるまでになりました。私共も今この繁栄の日本に生きて太平を享受しておりますが、この幸福の根底に、当時国家永遠の生命を信じ若い命を国家民族に捧げられたあなた方の犠牲があったことを忘れることができません。私共戦友は一三三会に協力し、聯隊史の編纂、慰霊碑の建立等のほか毎年慰霊祭を行って参りましたが、久しく念願しつヽも果せなかった現地慰霊の行事も、三回に亘り實施し、今尚御遺骨の眠る山河に合掌して参りました。
本日は戦友、遺族各地から相集いあなた方生前の英姿を偲びその殉国の壮烈な御遺志を改めて憶い起し日本の平和と安定の為に、国民の一人として微力を尽くす覚悟を新たにすると共に御霊の永く神鎮まりまして国家民族の隆昌を御加護下さいますよう御祈り申し上げます。
昭和五十九年五月二十七日
歩兵第百三十三聯隊第十一中隊
戦友代表 関谷 隆夫
追悼のことば
桜はパッと咲きパッと散る。この思い出多い時、一三三会の皆様によって戦没者追悼式が、御来賓の皆様多数御臨席のもと厳かにとり行なわれますことは遺族一同感謝にたえません。有難うございます。私達は過ぐる大戦で国の為、尊い命を捧げられた英霊の妻として同じ運命を背負い親子、姉、娘にもまさるえにしに結ばれて、四十有余年お互いに助け合って過ごしてまいりました。
終戦当時の苦しみを思い起こせば込み上げて来る悲しみ、淋しさに堪えがたい思いでございます。
走馬燈のように、次々と想い浮かんでまいります。敗戦後の混乱した社会の中で年老いた両親、幼い子供達を抱えて言葉では言い尽くせない苦難の長い長い年月でした。‘‘さつまいも”や‘‘雑炊”ですら腹一杯食べさせることの出来なかった時代に昼は男の代わり重労働・夜は夜なべ仕事に休む暇もなく働きつづけ、ある時は、きびしい父親となり、ある時は優しい母親として、一人二役で一家を支えて懸命に努力してまいりました。夫婦揃って働いておられる近所の方々を羨しく眺め、お国の為とはいえ私達だけ、どうしてこんなに苦労をしなければならないのかと、家族にかくれて、ひそかに涙にくれた暁も数えることは出来ません。佛前の位牌に向かってやるせない愚痴をこぼし、生きる勇気すら失いかけた時もあった私達でした。でもそんな時必ず目前に貴男のお姿が現われました。ハッと我にかえり、泣いたり、愚痴をこぼすことの出来る自分に気付き、あらためて喜び幸せを感じるのでした。
パッと散華されました戦没者の御加護を偲びます時、唯々感謝いっぱいです。再びこのような悲しみをくり返さない為にも、皆様の御冥福を心からお祈りいたし御英霊に恥じない子供を社会に送り出し平和への決意を新たにいたしました。そのお影で今日の平和と繁栄が築き上げられ今や我が国は世界の先進国として輝かしい前進を続けております。しかし、この平和と繁栄こそは戦没者の尊い礎の上に築かれていることを私達は決して忘れてはいません。私達は深い悲しみの中にも英霊の妻であることを心から誇りに思い深い感激にひたっております。今は幸いっぱいです。
今、静かにありし日の皆様の面影を偲びながら私達一人一人が更に覚悟を新たにして厳しい内外の試練に耐え、皆様が何よりも願われた我が国の平和と自由を守り通し、英霊の顕彰と、国家護持の実現、進んでは、世界平和の為、力を尽くすことを、心からお誓い申し上げます。
戦没者の皆様どうか安らかにお眠り下さい。
平成元年四月十八日
遺族代表 宇佐美 はなよ
追悼の詞
梅の香薫る如月の佳き日ここに伊勢の護国神社の大前に畏みて申し上げます。
過ぎし太平洋戦争に参加され遠き中支那の地において戦いにたおれ或いは病に侵され護国の英霊となられた私達教育隊の戦友三十三名の方々を追悼し、慰霊の誠を捧げるものであります。
顧みますれば、私達は昭和十八年十一月一日久居の中部第三十八部隊へ現役兵として入営、同十二月七日歩兵第百三十三連隊に転属、嵐第六二一四部隊教育隊として編成され、中支那の銅陵及び葛店において厳しい訓練の日々を過ごしました。銅陵では、渡支して初めての正月、元旦から豪雨、営庭は泥沼と化し、飯上げもままならず苦労した事、一週間か十日に一個あがった唯一の甘味品「大通まんじゅう」の甘く旨かった、一月十四日就寝中に出動命令下り、泥濘の道十三里余りを顎も出さず行軍した事、葛店では、満開の菜の花畑で演習中雉が突然舞いあがり驚かされたり、周家祠分哨勤務の夜間立哨中巡察將校の動向を知らせるごとくに鳴く犬の聲に緊張した事、又連隊長の鶴の一聲で、今まで悪かった松林隊の給与が一ぺんに改善された事、思い出は数々あります。
昭和十九年四月七日教育隊解散により夫々中隊に復帰いたしましたが、約十日後命により大半の者は軍の学校へ分遣され、残留された皆様は折から企図された湘桂作戦に参加され日夜苛烈なる戦闘、泥濘膝を没する悪路を或いは道無き道を踏み進み、山を越え、谷に下り、河を渡り、強行進撃されるも食料、弾薬乏しく、艱難辛苦、悪戦苦闘あらゆる辛酸を嘗められ、休む間も無く衡陽作戦、宝慶作戦と続き、明けて二十年四月芷江作戦にも奮闘されました。かような幾多の激戦を重ねられ、常に憂国の至誠は滅私奉公、尽忠報国を胸に活躍され赫々たる武勲を挙げられた皆様は、大学、髙専卆業の前途有望の方々であるのに相次いで尊い身体を祖国に捧げられました。
誠に痛恨の極みであります。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
本日ここに集まりました私達二十名は生きて再び故郷の土を踏む事が出来ました。生き残った者の責務として、亡き皆様の御霊を慰め申さねばとかねがね思っておりました。連隊の慰霊祭は毎年四月に厳かに行われておりますが、教育隊独自のものは未だ行われず本当に心苦しく存じておりました。この度機会を得まして亡き皆様とお会いする事が出来万感胸に迫る思いであります。今当時を回想いたしますと、皆様の面影が髣髴と浮び上がって参ります。
何卆安らかにお鎮まり下さいますよう念ずる次第であります。
光陰矢の如し戦後四十五年を迎えた今日、祖国日本は敗戦の廃墟より立ち上がり、経済大国として繁栄するに至りました。これ偏に英霊の皆様のご加護によるものと感謝いたしております。
今後は戦争のない世界と恒久の平和を祈念し、民族の発展に寄与する事を英霊の皆様にお誓い申し上げます。
在天の英霊諸氏安らかに神鎮まり給へ
平成二年二月二十五日
元歩兵第百三十三連隊教育隊生存者一同
追悼の詞
明治維新以来幾度かの國難に際し、挺身その難に殉じ國の御盾となりて散華せられたつわもの達を神と崇め、斉き奉りり此処伊勢の國、護國神社の大前に於て、元歩兵第一三三聯隊銅陵教育隊戦友一同相集い、第五回慰霊祭を斉行するに当り、元教官米井大尉殿、板谷中尉殿をはじめ陣歿せられました御霊に謹しみ畏こみ申し上げます。
戦陣常に死生一如、曽ては中國の銅陵及び葛店に於て苦楽を共にした私共戦友と心ならずも幽明境を異にし本日こゝに籬を越え相見え、萬感交々言葉なく只断腸の想いが胸中を去来するばかりであります。
顧みますれば、私たちは今から丁度五十年前の昭和十八年十一月一日中部第三十八部隊へ勇躍入営致しました。戦局逼迫に伴い学業を半年繰上げ大学、高専を強制的に卒業させられた前途有望の若者ばかりでありました。
靜かにまぶたを閉じ思いを巡らせれば、銅陵教育隊の傍にそびえる銅官山を朝な夕なに眺めては故郷の山々を思い出し、葛店での訓練には背丈程ある菜の花畑や青く延びた麦畑を駆けまわり、伊勢平野と錯覚したりした遠い昔日の思い出が在りし日の面影と共に彷彿として浮んで参ります。五十年前の十一月一日は良く晴れた朝だったと記憶しております。あれから五十年の歳月は流れ激動の昭和の御代も平成と代わりました。貴方がたの無念さを想う時古今未曽有の痛恨亊に悔んでも尚余りあり深く哀悼の意を表する次第であります。
昨今の世界情勢は極めて複雑且つ流動的で平穏でなく、或る国は頑迷にて狂信的な指導者により覇権爭奪に明け暮れ、将又民族の対立、或は宗教斗爭にゆらぐ国など各地に紛爭は絶えません。世界人類の平和は前途尚遼遠まことに憂慮すべきものがあります。今年八月四十九回目の終戦記念日に細川總理大臣は靖國神社へ公式参拝を行わずさきの大戦を侵略戦爭と発言されました。終戦当時小学校の低学年だった熊本の殿様の御曽子だった總理は、あの艱難辛苦の実状には無知でなかったか、又その後の復員状況や引揚者の苦しかった心理状態など一切ご存知ないし、又勉強もしておられないと思わざるを得ません。本当に嘆かわしい亊であります。
我が國は第二次世界大戦を好きこのんで始めた亊はなく、欧米諸国から圧迫を受け日本列島は連合国によって海上封鎖され國の存亡にかゝわる亊態に直面していたのであります。國民は國策に從い一途に國の為一致団結し心身を捧げてお國の為に戦ったのであります。
亡くなられた英霊は天皇陛下の御為祖國の為にと信じて散られたのであります。
かくして貴方がたが払われた血の代償は千古不滅の確固たる不動の礎となって今や日本は世界に類を見ない経済大國に繁栄致しました。これ偏に英霊の皆様のご加護によるものと感謝致しておる次第であります。
私共戦友一同は、この繁栄に僑ることなく今日あるのも偏にあなたがたの尊い犠牲の賜と深く感銘致し、再びあってはならない戦爭の悲惨さと空しさを子々孫々に至るまで銘記し、併せてその遺訓と功を永く後世に伝える覚悟であります。
庶幾は在天の英霊
我等が上にご加護を垂れさせ給い、永久に紅葉映える伊勢の御社に安らかにお鎮り下さい。
平成五年十一月一日
元歩兵第一三三聯隊
銅陵教育隊戦友会一同
祭文
護国の杜の奥深く鎮まります歩兵第百三十三聯隊第十一中隊二百九十四柱の英霊に謹みて申し上げます。
昭和十三年、聯隊が大陸に出征以来、揚子江南の地から湖南の各地を転戦して八年間、中隊は常に部隊の先頭に立って奮戦し、あなた方は、あの激しい戦場で私情を捨てて只管国の為に勇戦敢斗せられ、或いは傷つき、病に冒され、遂に尊い生命を祖国の為に捧げられました。私共が今日あるのは、あなた方のお蔭であることを片ときも忘れることなく、心より感謝いたしております。
戦後、焼土と化した祖国の復興には皆んなが一丸となって頑張り、特にご遺族の方々は、極限の苦しみを克服され、そして今日の平和で豊かな国を築くことができました。戦後、聯隊の戦友会が結成され、約三十年に亘り、各種慰霊行事を行い、その間、大陸の現地も訪れて、山野に眠る亡き戦友への祈りを捧げました。中隊も復員間もない昭和二十六年、神宮でご遺族と慰霊祭典を行い、その後、中隊戦友会をつくり、今日に至りましたが、高齢化が進んで参りましたので、今後は私共は元気な限り、個々にこの神域を尋ね、往時のあなた方の永遠に変わらぬ若々しい英姿を偲びたいと希います。
戦後、五十年を経て、内外の情㔟も大きく変わり、一大転換期を迎えております。国内では戦後の政治教育等のひずみが随所に噴出して末期的症状を呈していることは、洵に遺憾の極みでございます。
終わりに御霊の永く神鎮まりまして、国家民族のために、正しく御導きと、御加護賜りますよう御祈り申し上げます。
平成十年十月二十六日
元歩兵第百三十三聯隊
第十一中隊戦友会
祭文
緑り濃き護国の杜奥深く鎮まります、歩兵第百三十三聯隊四仟五百三十六柱のご英霊の皆様方に謹んで申し上げます。
思えば昭和十三年我が聯隊が大陸に出征して以来、八年に及ぶあの戦場の激しい日々の間に、先に征かれたあなた方は揚子江南岸地区から、湖北、湖南の各地を転戦し、常に勇戦敢闘され、或いは傷つき、病に冒され、遂に尊い生命を祖国のために捧げられました。私共が今日平穏な日々を送ることが出来るのも、あなた方の尊い献身のお蔭であることを、いっ時も忘れたことはありません。心より深く感謝申し上げ合掌して止みません。
思いもよらず私達は命運を得て無事帰還はしたものの、時には敗戦の汚名を一身に受け白眼視されたことも屡々でした。『国破れて山河在り、城春にして草木深し』杜甫の銘句を想起しつつも廃墟の復興をと、米軍占領下の厳しい状況を克服し、懸命に立ち上り英霊の心を心とし、ご遺族の皆様も忍び難きを忍び、耐え難きに耐え、国民一丸となって、今日の平和で豊かな経済大国日本を築き上げ、再び世界の列強に期することができました。
元歩兵第百三十三聯隊に所属し、同じ軍旗の下で戦闘に参加した戦友達により一三三会を結成し、以来二十五有余年に亘り、聯隊史編纂、慰霊碑建立、各種慰霊行事などを行い、昭和五十六年より三度、大陸の現地訪問、衡陽の廻雁峯に時計台を寄付し、大陸の山野に眠る亡き戦友への想いを新たに致した次第でありました。
然しながら、戦友達の高齢化も進み、既に平成三年を以て解散に至りました。が未だに亡き戦友の想いは断てず、その後も毎年五月二十五日、この神域に参集し、往時の、あなた方の永遠に変わらぬ若々しい英姿を偲び、慰霊奉賛の祭典を催しております。
戦後五十六年の星霜を経て、国内外の情勢も変遷し、国内では戦後教育のひずみで、日本の貴重な伝統文化が崩壊しつつあります。私共は、将来を想う時誠に憂慮に耐えないのであります。私共は、これに屈する事なく、あなた方が曽って目指された美しい郷土の環境と、伝統の美徳を守り、日本国の繁栄に余生を尽し、次の時代を担う若者達に伝えて行く覚悟でございます。
終わりに、英霊の永久に神鎮まりまして、国家民族の為に、正しい御導きと、御加護とを賜りますよう、心よりお祈り申し上げ、祭文といたします。
平成十三年五月二十五日
元歩兵第百三十三聯隊
戦友代表 青木 昌道
祭文
護国の杜の奥深く鎮まります歩兵第百三十三聯隊四阡五百余柱の英霊に謹みて申し上げます。
昭和十三年我が聯隊が、大陸に出征以来、八年に及び揚子江南、湖北、湖南の各地を転戦して勇戦敢斗せられ、その間、傷つき、或いは病に冒されて、遂に尊い生命を祖国の為に捧げられました。私共が今、幸せな日々をおくれますのは、あなた方の尊い犠牲のお蔭であり、片時も忘れることなく、心より感謝申し上げております。
元歩兵第百三十三聯隊の軍旗の下で共に斗った戦友によって一三三会を結成し、二十五有余年に亘り、聯隊史編纂、慰霊碑建立、各種慰霊行事などを行い、又、三度大陸の現地訪問、衡陽市に時計台を寄贈して大陸の山野に眠る亡き戦友への想いを新たに致しました。
戦後、既に六十年余の歳月が流れて、国内外の諸情勢も大きく変わり、又、私共の身辺でも反社会的な由々しき事態も起きておりますが、私達は光輝ある日本の伝統文化と、豊かで美しい郷土を身を以て守り抜く気概を次代の若者に引継ぐ責任を感じております。
終わりに、御霊の末永く神鎮まりまして国家民族の為に、御導きと御加護賜りますよう御祈り申し上げます。
平成十九年五月二十五日
元歩兵第百三十三聯隊
戦友代表
【歩兵第百五十一聯隊戰歿者慰霊碑除幕式並びに慰霊祭】
祭詞
秋風に昔を偲ばせるこの季節、今日のこの佳き日、戦友の皆様の御尽力により、歩兵第百五十一聯隊戰歿者慰霊碑の除幕式並びに慰霊祭がこゝ三重県護国神社の聖域に於いてかくも盛大にかつ厳かに挙行されますにあたり、遺族を代表し、関係者各位の皆様に心からの御礼を申し上げますとともに、御英霊の皆様に謹んで祭詞を申し上げます。
光陰矢の如く、あの痛ましい現実は三十有余年の年月が夢、幻のごとく、かき消そうとしています。
御英霊の皆様、貴殿方は只只、祖国日本の平和と繁栄を念じ、愛しい妻・子、父母をあとにして、あるいは北へ、あるいは南の地獄の戦場に派遣され、夜を日に継ぐ強行軍に寸暇もなく、空腹と悪病に悩まされながら、勇猛果敢に奮戦され、ついに再び祖国日本の土を踏むことなく、雄々しくも哀しく散華されたのであります。
時は移り、世は変るにつれて、人の心の裏から忘れ去られようとしているこの痛ましい出来事は、貴殿方と共に飢えに耐え、病魔をおして、共に生死の境をさまよって、奇しくも生還された戦友の皆様と後に残された私達遺族の胸の裏には、今もって強烈に焼きついて残り、永久に消えることは無いのであります。しかしながら、御英霊の皆様、御安心下さい。今、貴殿方の祖国日本は幸にも、その犠牲によって不死鳥の如くよみがえり、今日、世界にその名を覇せ、人々は平和日本を満喫しています。
この上は、私達遺族戦友相携えて、例い世相がどのように移ろおうとも御英霊諸氏の心を心として平和日本、否、世界平和のため猛進し、永久に皆様の御霊を御奉り申し上げることをお誓い申し上げます。どうか、私達の行く末、お力強い御加護を賜わりますように。
乞い願くば、御英霊の皆様、何卒心安らかにお鎮まりくださることを祈念し、遺族を代表し、祭詞といたします。
昭和五十五年十月十九日
歩兵第百五十一聯隊
遺族代表
員弁郡東員町
水谷 直
祭文
本日ここに元ビルマ派遣歩兵第百五十一聯隊の二千九百余名の御英霊をお迎えし、戦友相集い慰霊祭を執行するに当り謹んで追悼の詞を捧げます。
惟えば大東亜戦爭の戦局日増しに悪化した昭和十九年三月聯隊は故郷の山河を後に軍旗を奉じ、征途万里遠くビルマの地に駒を進め、聯隊主力はさらにインド国に進攻、英印軍と第一大隊は北ビルマに進み、最新装備の優勢なる連合軍との戦いに参加しました。
時あたかも当地方は雨期に入り山中にて食糧その他の補給もなく栄養失調と過労により身体は衰弱し悪性マラリア、アメーバー赤痢、脚気等に悩みながらも勇戦奮斗しました。
十一月よりはオークトウ、マンダレー、タウンタ付近の戦斗に参加し優秀な装備の敵と交戦、戦場は惨烈苛酷をきわめました。その後、ビルマ各地を転戦し昭和二十年六月より雨期の泥沼の如きミツタン河口に於て必死の攻防戦を展開中、八月終戦の大詔を拝し、悲淚にむせびつ、軍旗を奉焼し敵の軍門に降りました。
風土の異なる遠き辺境に於て戦陣にあること一年五ヵ月、この間連合軍と悪疫との戦に斃れたる戦友は実に二千九百余柱を数え誠に痛恨の極みであります。
九死に一生を得た私達は屈辱と苦難の年間の収容所生活の後、ビルマの各地に戦友のみたまを残して荒廃の祖国に帰ってきました。
あれから四十年が経過しましたが今日では我国は世界が驚嘆するほどに繁栄いたしました。これも我が国が今日あるを祈念して戦没したご英霊の犠牲によるものであり、感謝いたしております。本日こヽになつかしい衞戍の地に御英霊をお迎えして慰霊祭を執行できますことは感慨無量であります。
私達は二度と過ちを犯すことなく平和のため努力することをお誓いするものであります。
何卒祖国の隆盛とご遺族の上にご加護あらんことを念じ、二千九百余の御英霊のご冥福を戦友一同心からお祈りいたしまして、追悼の詞といたします。
昭和六十年六月十六日
三八ビルマ会々長 川合俊次
【三・三会慰霊祭】
祭文
三・三会戦友三十一柱の英霊に謹みて申し上げます。
顧みますに昭和十九年三月十二日歩兵第三十八部隊入隊後基礎教育を受け一期の検閲を受ける余裕もなく殆んど中支、南方、台湾、ボルネオ、比島に出征いたしましてから既に四十有余年の歳月を経ましたがあの激しい戦場の日々の間にあなた方は各地において勇敢に斗い或いは傷き、或いは病に冒され尊い一命を捧げて国運に殉ぜられました。
戦後の日本は敗戦の非運に屈することなく、新生の意気を以て国際社会の中に雄々しく立上り今や戦前を遙かに凌ぐ実力を世界に認められるまでになりました。
私共も今この繁栄の日本に生きて太平を享受しておりますがこの幸福の根底に当時国家永遠の生命を信じ尊い命を国家に捧げられたあなた方の犠牲があったことを忘れることができません。
本日は戦友有志各地から相集いあなた方の生前の英姿を偲びその殉国の壮烈な御遺志を改めて憶い起し日本平和と安定のために国民の一人として微力を尽くす覚悟を新たにすると共に御靈の永く神鎮まりまして国家の隆昌を御加護下さいますようお祈り申し上げます。
昭和五十九年六月二十三日
歩兵第三十八部隊 三浦隊
戦友代表 三浦 正
【ソロモン会慰霊祭】
祭詞
時是昭和五十九年十月十四日ソロモン会開催に当り、元剛第四四部隊戰友並に家族の有志者一同三重護国神社の御前に相集い、亡き戰友諸士の慰霊祭を挙行するに際し、会長として聊か懷旧弔慰の辞を捧げたいと存じます。
顧みるに我が部隊は、昭和十六年七月関特演防空部隊として北万孫呉に創設国境警備に任じ、次で同十七年十一月急遽南方派遣軍の隷下に転じましたが、戰況の不利激化に伴い、可惜多数の戰死者戰病死者を出し、而も奮戰敢斗の効空しく、遂に終戰に堕するに至りましたことは、真に悲憤とゆうも愚かであり、図らずも九死に一生を得て帰還した我等戰友として、転た断腸の思いでありまして戰没諸士は勿論、其の御遺族に対しまして、定めし御痛恨の極みならんと忖度致しますと共に、長期に亘り苦樂を倶にした、生前諸士の御壮容、御言動を想起し、万感交々胸に迫り感慨の淚新たに惨然として禁じ得ず、しかも今や幽明相隔ち、如何に叫ぶとも、懷しき声咳にすら接することは出来ません。真に哀しき限りであります。然し乍ら、我が国は複雜な世界情勢にも拘らず、終戰を契機として、新たに平和民主国家として、再出発し、其の飛躍的復興発展は目覚しく、世界列国の等しく驚嘆するところでありまして、他面我等戰友並に御遺族は、今や物心両面共に概ね安定し、彼岸に光明を認め得るに至ったことは是偏えに英霊御加護の賜物でありまして、又其の偉勲芳名はとこしなえに護国の神として永く竹帛に垂れ給い、御遺族も亦子々孫々に之を顕彰せられるでありましょう。英霊諸氏の御冥福を念願する次第であります。
在天百二十六柱の英霊、冀くは、彷彿として來り享け給らんことを。
昭和五十九年十月十四日
元剛第四四六二部隊長
ソロモン会ゝ長 杉山 清
【雄飛三重県人会慰霊祭】
追悼の辞
昭和三十九年六月十四日こヽに飛行予科練習生三重県出身の忠魂を迎へて慰霊の祭典が営まれるにあたり、謹んで追悼の辞を捧げます。
同志諸君は支那事変に或は大東亜戦争に参戦し、祖国のためよく困苦欠乏に耐へ共に奮戦力斗されましたが、いたましくも戦没されたことを憶へば痛恨哀惜の情切なるものがあります。
嗚呼諸士の勇姿は護国の華として既に散り去ったとは申しながら故郷の霊園に瞑るその忠魂毅魄は永へに国を護り、その偉勲は赫々として一世を蔽い千載の亀鑑とすべきものであります。
我々は諸士の遺志を継いで平和の郷土建設に尽す所存であります。
こヽに雄飛三重県人会第一回総会に当り恭しく追悼の意を表し、只管御瞑福をお祈り申し上げます。
昭和三十九年六月十四日
雄飛三重県人会
代表 大矢 覺
【予科練雄飛会三重県支部慰霊祭】
慰霊の辞
予科練雄飛会三重県本支部平成十九年の慰霊祭を催行させて頂くに当り、支部長岩城弘が参列者一同に代りまして謹んで慰霊の詞を奉ります。
戦後も正に六十年、我国の歴史の上に此の様な永い年月を平和と未曽有の繁栄をもたらした時代があったでしょうか。
之も皆先の大戦に於て祖国の為に一命を捧げられた方々の賜物であります。
此処三重県護国神社に神として鎮まります海軍乙種飛行予科練習生出身一〇四柱の方々に対しまして「俺達も共に逝くのだ」と誓い合い乍ら、死場所を得ることなく終戦を迎えました我々は祖国の再建と皆様の慰霊を至上の責務と致しまして今日まで励んで参りました。
慰霊祭も回を重ねて本日で四十四回となりました。
この先我々のなき後はと思った時、一抹の寂しさを禁じ得ませんでした。
思い立って今回我々の象徴であった山桜を二本、社頭へ植えました。
年を重ねて末永く、毎年春が来れば花を咲かせて御霊をお慰めすることでしょう。
本日此処に代表して粗辞を述べ、御報告と御靈の安らかならんこと御祈念申し上ぐるものであります。
平成十九年五月二十七日
【三重少飛会慰霊祭】
慰霊の詞
謹みて今は亡き吾等の友三重県出身元陸軍少年飛行兵の諸英霊に申し上げます。
顧みますと昨年の今日三重少飛会が結成せられ本日茲に第二回の慰霊祭を施行する運びとなり本県各地からかつての戦友等が元氣な姿でいまあなた方の霊前に集っております。
想へば昭和九年二月第一期の操縦技術生徒が全國の各地から選拔せられ夫々の学校に入校以来十有二年の短い歴史の中に第二十期まで約三万名の同窓生が情熱のすべてを捧げ支那事変から大東亜戦爭の間大陸の空に南溟の果にはたまた北辺の孤島に勇戦激斗し赫々たる武功を樹て日本航空部隊在るところ必ず少飛出身者その中に在りて神技の操縦、完璧の整備、卓越せる通信手腕等その功績は髙くあまねく人々に膾炙せられておりましたが嗚呼あなたは遂に還らぬ人となられました。
只管祖國の繁栄と同胞の平和を念じつヽ莞爾として悠久の大義に殉じられたものであります。
あなた方とはいづれ靖國の御社で遇うことを約した吾々ではありましたが運命のなせる業とは申せいま茲に生きていることの心の負荷は極めて重く吾々の内腑を貫くものであります。
呼べど声なく還らぬ吾が友万世不老紅顔で元氣なあなた方のお姿がまざまざと浮んで来るのであります。
茲に額づく私共は戦后約二十八年の歳月にかゝわりなく鍛へに鍛へられた少年の日にあなた方と共に過した充実感とあなた方が示された不滅の勲は少飛魂となっていま私共の五体にみなぎり脉搏となり鼓動となって限りなき誇りに充ち力強い足音となってよみがへりあなた方の御意志を貫徹すべく団結の誓いも固く堂々平和への楽しみを押し進めております。
幽明境を異にする在天の神鷲よ御遺族の上にこよなき御加護あらんことをお祈りすると共に私共の誠の心を容れしめ給へ。
限り無く深く祖國を愛した吾等の友よ。
どうか安らかにお眠り下さい。
昭和四十八年四月二十九日
三重少飛会々長 木村 義一
追悼の詞
本日こゝに三重県翔飛会の第十一回慰霊祭が挙行されるにあたり謹んで出身者英霊に対し少飛会を代表して追悼の詞を捧げます。戦後三十余年今あなた方の前にぬかづいている出身者は社会に家庭にそれぞれ立派な生活を営んでおりますが、今こうして在県の出身者が一堂に会し少飛時代の想い出にひたれるのも戦雲の彼方、悠久の大義に散ったあなた方のお護りがあればこそと存ずる次第です。
この平和を何時までも護り続けるため、私達出身者一同それぞれの分野で微力を尽す覚悟でございますので、どうか故郷の空から私達を見守って下さい。
あなた方のご冥福を心からお祈り申し上げるとともにご遺族の上にもご加護のあらんことを祈り慰霊の詞といたします。
昭和五十七年十月十一日
少飛会 会長 清水 秀治
【三重県翔飛会慰霊祭】
祭文
秋色日増しに深まりゆく今日、三重県護国神社の神前において、平成十二年度の慰霊祭を行なうに当り、謹んで追悼の辞を申し上げます。
此処に集える三重翔飛会会員は等しく五十五年前、弾雨の戦場に将又紺碧の海原において戦死或いは殉職され、無念黄泉に去られた兵(つわもの)達の御霊に謹んで追悼の慰霊祭を営むものであります。
つらつら思いまするにこの半世紀の歳月は瞬く間に過ぎ去りましたが、未曽有の敗戦を機に我が国の変貌にも甚だしいものがありました。
全くの廃墟の中より偶々朝鮮戦爭という動乱の外的要因に扶けられたとは申せ、「耐え難きを耐え忍び難きを忍ぶ」との詔書を心の支えとして国内の社会活動、経済活動に渾身の力を発揮し、名実共に復興の実を挙げました。その結果、荒廃の祖国は世界の大国に肩を並べる迄になりました。このことは、亡き兄等に胸を張って言上し得ることであります。又眼を外に転ずれば大東亜戦爭に敗れはしましたが、西暦一,五〇〇年よりの「大航海時代」から始まり、十九世紀末までの西欧植民地時代の約四〇〇年の白人による植民地主義の慣行に徹底的な打撃を加えたのであります。
大東亜戦爭によりアジアのみならず世界を支配してきた西欧の「植民地帝国の十九世紀的構造」が完全に破壊されたことにより、漸く有色民族の人権が認められ、白人と対等に自己主張ができるようになりました。
インドのダクリシュナン大統領は、「インドが今日独立できたのは日本のお陰であり、それは独りインドだけでなくベトナムであれ、カンボジヤであれ、インドネシアであれ、旧植民地であった諸国は日本人が払った大きな犠牲に感謝」を示されると共に追悼の意を示されました。このことは亡き兄等に無駄な死ではなく偉大な勲を残されたと申し述べることが出来るのであります。しかし乍ら昨今の我が国は、政治、経済、教育のあらゆる面において乱脈を極め、現状は道徳なき社会とまで言われ重大な危機に直面しております。
バブル景気と言われた異状な物質成長を遂げましたが物の豊かさを奢り心の尊さを忘れ国民総てが祖国日本の尊厳を意識せず、自虐的な風潮が跋扈し物心共々米国に追從するが如きは兄等に言上するも恥かしい極みであります。尊い兄等の犠牲によるご遺志を受け、祖国の再建の為に生き永らえた我々ではありましたが、今日の現状はまことに慚愧に堪えぬところであります。
私どもは既に老境に入っておりますが、この光輝ある日本の伝統を受け継ぎ児孫に伝えるべく棹尾の力を奮い日本の再興に邁進することをお誓い申し上げます。
さて、生前兄等をこよなく愛し、又お慕いしておられましたお遺族の身に想いを致すとき「靖国神社の公式参拝」問題が依然として、政教分離を建前に不透明な措置になっておりますが、国の為に亡くなった人を神として靖国神社に祭ることは、一,八六九年戊辰戦爭以来の我が国の文化であって、一部の外国の内政干渉を恐れてご遺族に不快な心情を与えている国の姿勢は一日も早く改めなければなりません。戦いの歴史は一世紀位でその正否を論ずることは出来ません。しかし大東亜戦爭が聖戦であったことは、きっと近い將来に証明されるでしょう。
願わくば兄等のみ霊の永久に神鎭らんことをお祈り申し上げ鎭魂の辞と謹んで奏上致します。
平成十二年十月二十九日
三重県翔飛会
会長 土田 昭二
祭文
菊の香薫る今日、ここ三重県護国神社のご神前に、ご遺族を始めご来賓各位のご臨席を賜り、かつて共に学び、共に戦った、翔飛会々員相集い、第三十一回三重県出身陸軍少年飛行兵戦没者七十余柱の合同慰霊祭を挙行するに当たり謹んでご英霊に申し上げます。
厳しく激しかった支那事変、ノモンハン事件から総力を結集した大東亜戦争へと戦火は拡大したものの、昭和二十年八月十五日運命の終戦の日を迎え、以来早くも五十七年が経過しました。
当時を思い起こすとき、あの熾烈を極めた戦いの日々、大陸で、また南海で、あるいは北方で、愛する国を、そして愛する人々を守るため、近代戦の花形である航空部隊の中核として、大空に羽ばたいた若武者の敢闘ぶりと偉大な功績は国運を賭した戦いの中で燦然と輝いております。
現代のわが国は、繁栄の陰にかくれて不況の波が忍び寄って来ており、それと共に政治の面でも、庶民の感覚からすればかなりずれたような問題が相次ぎ、どこか政治家が遊離しているような感なきにしもあらずという状態ではないかと憂うものであります。
また一方、世界的には昨年九月十一日の米国での同時多発テロの許し難き惨事の結果、一つ誤ると報復がさらなる報復を呼ぶ最悪の事態を予想するようなことも一部で話題となっておるようですが、さきの大戦から学び取った多くの教訓を心に刻み、今こそ世界平和に対する日本の役割を十分自覚し、進路を見誤ることのないようご英霊のご加護とお導きを祈るものであります。
ここに謹みてご英霊のご冥福をお祈り申し上げ、ご遺族皆様のご健勝とご隆昌を祈念し、祭文といたします。
平成十四年十月二十七日
三重翔飛会
会長 十六期 打田 史郎
祭文
秋たけなわの本日、此処に御来賓各位、御遺族のご臨席を賜り翔飛会一同集いて、第三十二回陸軍少年飛行兵、三重県出身戦没者慰霊祭を挙行するに当たり、謹んで英霊に追悼の言葉を申し上げます。大空に少年の夢を託し尽忠報国、祖国愛に燃えて少年飛行兵となり、昭和九年誕生した一期生から終戦に至るまで陸軍航空の中核として、大空に翔たき幾多の武勲を挙げ、身命を祖国に捧げて見事に散華されました、その偉大な功績は燦然と輝いております。
戦後五十八年を経て平和と繁栄の中、世界第二位の経済大国と云われるのも、皆あなた方英霊の賜と身のひきしまる思いであります。
現在、政、財、官界にいろいろなひづみを感じますが、過去の大戦、戦後の復興の貴重な経験、教訓を生かし、真の世界平和を維持し国際社会の名誉ある地位を占める事が、英霊の功績に応えることと信じ努力する事をお誓いするものであります。
ここに在天の英霊に対し心から崇敬の誠を捧げ、安らかな眠りにつかれ、ご遺族のご多幸を祈り申し上げます。
平成十五年十月二十六日
祭主 三重翔飛会
会長 打田 史郎
祭辞
菊の香薫今日、英魂鎮まります、三重県護国神社の御神前に、御遺族を始め御来賓各位の御来席を仰ぎ、三重翔飛会員相集い第三十三回慰霊祭を斎行するにあたり、七十余名の御英霊のみまえに謹んで追悼の辞を申し上げます。
顧みますれば、祖国の運命を賭けた先の大戦に、大空に少年の夢を託し、若い身命を捧げることが崇高な行為と信じ、陸軍航空の中核となるべく朝な夕な厳しい訓練を重ね、操縦、通信、整備のそれぞれの三技を磨き、航空決戦の叫ばれる大空に、大陸に、滄海に、絶海の島々に猛き兵(つわもの)として勇戦敢闘され、国の大義に殉ぜられました。
戦雲急を告げる戦争末期には、本土防衛のため日本民族の栄光と祖国の繁栄を願い、断ちがたき肉親の恩愛の情を断ち、国難に殉じ散華されました。
生きたくして生き難く死にたくして死に難い、生死の狭間に立たれたその胸中を推し量る時、断腸の思いがいたします。
戦後五十九年、御英霊の尊き犠牲と殉国の至情を礎として築かれた祖国日本は、長い平和と繁栄を享受して参りました。
これも偏に御英霊の御加護の賜と感謝申し上げます。
近年は外交上の問題として靖国神社問題が取り上げられ、一部に御英霊、ご遺族不在の、心なき屋上屋を架す議論もあります。
憚り続けた戦後半世紀を経過した今日、言葉だけ美しく、渇切った心、当たり前のことが当たり前にできない国に戻れない日本です。
しかし祖国を歓呼の声で送られ、靖国神社の花の下での再会を合い言葉に、万朶の桜の花吹雪と散った兵の慰霊、鎮魂の場所は、靖国神社以外に想定できないことは、大方の国民感情として定着しています。
ここに少飛先輩の赫々たる御功績を、賛仰し、その勇魂、武勲、偉業は歴史の行間に埋没すること無く一人でも多くの人に届くよう戦争を知らない次の世代へ継承し、平和国家建設のため、ともに培った少飛魂を持って老兵に鞭して生ある限り努力して参ることをお誓い致します。
願わくばこの平和で明媚な故国の山河を蒼空より見守り、御遺族を始め私達と健全な世界平和のため永遠の御加護とお導きを賜りますことを祈念申し上げ、在天の御英霊のご冥福と、ご遺族皆様のご健勝とご隆盛をお祈りして鎮魂の詞といたします。
平成十六年十月三十一日
三重翔飛会
会長 十七期 東 和正
【西部ニューギニヤ平岡隊戦友会慰霊祭】
慰霊の辞
風かおる五月、木の香りもかぐわしく漂ふ新しき宮社にて、大東亜戦爭にて西部ニューギニヤその他各地で亡なられた英霊の慰霊祭をとり行いますに当り謹んで霊前に申上げます。
大東亜戦爭たけなわの昭和十八年九月に召集を受け南の果、炎熱のはげしき西部ニューギニヤへ上陸し親元を離れ妻子を残して祖国の爲め、子孫のためと命をかけて戦って散華された戦友の事が四十有余年の間一日たり共、腦裡より離れる日はありません。痛恨の極みでございます。
然し乍ら苛烈を極めたる最前線のニューギニヤは全く輸送は杜絶え、優㔟なる敵軍包囲の中、空からは飛行機にて海からは艦砲射撃を浴び生死をさ迷ふなか物資の補給は杜絶え我々は草木ネズミトカゲと手当り次第口に入れると言ふ悲惨なる状況の下で病魔に犯されても藥とてなく淋しく戦友の手を握りしめ乍ら亡なられた戦友を思出すにつけ胸がはりさけんばかりです。はた又一家の支柱を捧げられ、又我子を送り出し、困苦と欠乏に耐え乍ら家業にいそしみ御遺族の待ち侘びた吾子我夫が無事で帰還される日を今日か明日かと祈り乍ら待って居られたにも拘らず現実は空しく戦死の公報ともの言はぬ白木の箱の帰還でした。
御遺族の心中をお察し申上げると共に御霊のお祀りを挙行いたしお慰めの言葉を申上げる事こそ我々戦友の使命と存じます。
終戦の其の日から戦後の百鬼横行の混乱時代に家業を継ぎ乍ら女手一つで御子様を御立派に成育され今迠の母上の御苦労をねぎらい今では人も羨やむ程の孝養をつくされ幸福な日々を送って居られます。
終戦の三十八年の歳月が流れた今日忘れ勝ちな戦爭のきず後の悲惨さを身を以って体験し味った我々は戦爭のみぢめさを世の人々に訴え戦爭なき眞の平和日本を建設すべく一片の努力する事こそ英霊の皆様を御慰みする唯一の道であると信じ一段の努力を捧げる事をお誓い申上げます。
有志の方々の御芳志により新しく立派に御造営されし宮社、三重護国神社の拜殿に御遺族戦友、相集い宮司様より懇なる祝詞奏上して戴き厳粛裡に慰霊祭をとり行なわれました。
英霊の皆様心安らかに眠られん事を御遺族、戦友一同御祈り申上げます。
昭和五十八年五月十二日
西部ニューギニヤ平岡隊戦友会
三重支部 宮﨑 富之
【三重県偕行会慰霊祭】
祭文
爽やかな五月晴の今日、三重県偕行会員相集い県護国神社の御前で慰霊の祭典を挙行し、殉国の英霊に心から尊崇と感謝の念をこめて追悼の誠を捧げます。
英霊の皆様は明治維新当初から日本の興隆と繁栄のため身命を捧げて勇躍任に赴き、決し敢斗陸に海に又空に赫々たる武勲をたてられました。其の忠勇義烈献身殉国の勲は燦然として光輝を放ち永遠に青史を照します。今日の平和と繁栄は実に英霊の御功績と御加護の賜と感銘し、ただただ尊崇感謝の念禁じ得ません。
凡そ国家社会のため一身を捧げて只管奉公の誠を尽すことは人として最も崇高偉大な行為であり、その滅私奉公の精神こそ国家の安全平和を維持する根本であります。英霊に対する顕彰祭祀は世界何れの国に於ても最高の儀礼を以て行っていることは故なしとしません。大東亜戦爭後、連合軍は日本弱体化政策の一環として靖国神社に対し、国家の名を以てする祭祀を禁じました。
今、独立後三十年を経過しましたが、尚ほ靖国神社に対する公式参拝さへ実現しておりません。これ全て国民精神の腐敗堕落によるものであり、英霊に対し不敬背信此の上ないものと存じ眞に申訳なく慚愧に堪えません。私共素より微力でありますが、力を合せ靖国神社、護国神社が国民崇敬感謝の中心となって称えらえる様努力することを誓います。
英霊願くは御照覧御加護をたれ給はんことを茲に赤誠を披瀝して御冥福をお祈りし、追悼の辞と致します。
昭和五十六年五月十日
三重県偕行会 会長
梼原 秀見
【三重県海交会慰霊祭】
慰霊のことば
山野に新緑が映えさわやかな薫風の漂う今日県下六萬三百余柱のみたまが祀られている護国神社において慰霊祭を斎行するに当り三重県海交会を代表し謹んで慰霊の誠を捧げます。
かつて「ソビエト」が不凍港を求めて満州朝鮮半島を制圧して南進する行爲に対し之を阻止し抵抗したのが日露戦爭であり満州事変でありました。
又半世紀前の太平洋戦争では戦況有利と見るや日ソ不可侵条約を一方的に破棄し連合軍に加戦し僅か七日間参戦したのみで樺太千島列島を占有し而もこの地域の同胞六十萬人を不当に抑留しシベリヤやロシア本土の開発のため強制労働を強いて寒さと飢と疲労のため六萬人の邦人が犠牲なりました。
一方東南アジアの国々は欧米諸国の植民地となり原住民は奴隷扱いの非人道的な仕うちに「ミジメ」な生活を余儀なくされ豊富な資源まで独占されようとする情況でありました。
わが国もABCD包囲網によって資源の締出しによる経済封鎖をうけ之を打かいすべく外交折衝を重ねていたが効なく已むなく自衛とアジアの共存共栄の爲立ち上りこれが太平洋戦爭へと展開したのでありました。戦没されました諸霊は国事国難の打破と世界人類の平等な繁栄を願い国のお召しにより勇躍征途につかれ勇戦奮斗されましたが武運つたなく散華されたのであります。
酷寒肌をさす北辺の地で灼熱身を焦す南海の涯に大陸の奥地にとそれぞれが任務をおび飢餓と疲労を克服し乍ら交戦され国家の礎となられた事は痛恨の極みであり無念の境地であったとお察し致します。私共も激戦苦斗を体験した友としてやるせない心境であった事は申すまでもありません。
しかしながら諸霊の尊い礎によって昭和二十年八月戦爭が終結し荒廃した国土も見事に復興し世界に冠たる経済大国を形成しあれ以来半世紀にわたり平和国家を維持しております。
本日は護国神社の神職様巫女様のご奉仕と国会議員を代表して自由民主党三重県連会長様自衛隊三重地方連絡部部長山本充典一等陸佐のご参列をいたヾき慰霊顕彰を執り行っております。
願くは英霊のみなさん安らかにおやすみ下さい。私共会員も七十才をこえる高令となりましたが生命限り皆さんの慰霊と郷土三重の繁栄世界の平和に貢献する事をお誓いし慰霊の辞と致します。
平成十年五月二十六日
三重県海交会
会長 前田 義一
慰霊の言葉
新緑香るさわやかな五月晴の今日、三重県海交会員が県下各地から護国神社社頭に集い、慰霊祭を斎行致します事は誠に感がい深いものがあります。
護国神社には明治初期からの國難に際し、日本国の平和と繁栄を願い生命を顧みず戦い殉国された六萬参百余人のみたまが祀られております。
我々も若干二十才前後の青少年兵として從軍しましたが武運つたなく散華された多くの戦友達の在りし日を憶う時萬感胸にせまるものがあります。
昭和二十年八月、さきの大戦の終結から六十年の歳月が経ちました。又日露戦爭時のバルチック艦隊を迎撃し勝利した日本海海戦から百年の節目の年をむかへました。
わが三重県海交会は此の年この時に当り、戦没者の慰霊供養につとめ更に恒久平和の誓いを確認の爲、総会を開催し会員相互の親睦を深め、蒲郡に宿泊、明日伊勢湾上に開港した中部国際空港を見学研修して視野を深め今後の活動の「かて」とすべく企画致しました。
又全国海交連合会では一週間前の五月十二日十三日の両日各都道府県の代表が東京市ヶ谷に集結総会を開催し討議し、各都道府県共前向きにとりくむ事を誓い閉会しました。わが三重県においては毎年春は四月二十一日二十二日、秋は十月二十一日二十二日例大祭を催行し、遺族様並に関係者多数参列。
七月は二十三日から二十五日までの三日間境内一ぱいに提灯を掲灯しみたま祭りのイベントも盛大に行われております。
個々には戦没された祭神の命日に祭典を施行し、神社の原宮司様はじめ神職様、職員様の奉仕によって慰霊行事万般に亘りとり組まれている事を「英霊に答える会」の一員として此の機会にご紹介申し上げ慰霊のことばといたします。
最後にご祭神の皆さん安らかにお休み下さい。
平成十七年五月十九日
三重県海交会 会長 前田 義一
【元満州独立守備歩兵第二十七大隊全国合同慰霊祭】
祭文
山川草木山紫水明の伊勢皇大神宮鎭座の地、三重県津市護国神社の社頭に於て元独立守備歩兵第二十七大隊第十五回全国合同慰霊祭を厳かに元戦友達が相集い、茲に部隊創設以来戦死歿将兵と復員後郷土の復興に努力せられて不幸にも病魔に侵され幽明境を異にした戦友の御霊をお慰めするため英霊の御前に額づき生存者を代表して謹しみて追悼の誠を捧げ奉ります。
異国の地に赴き、祖国の興隆と同胞の安泰を念じ一身をも顧みず春花秋月めでることなく遂に酷寒炎暑の戦陣に倒れ草むす屍、国の御楯として散華されましたことは深い悲しみであり、誠に痛恨の極み感慨無量であります。願わくば御霊よ、三重護国の宮社の御前に相集いて戦友一同の鎭魂の儀と御冥福の祈りを受け給うことを乞願うものであります。
曩に於ては満州事変勃発するや我が関東軍独立守備隊は果断神速之を戦慄激破し艱苦を凌ぎ厳寒に堪え、各地に烽起する匪賊を掃蕩し克く警備の任を全う致しました。顧みれば昭和十一年四月北満の地に独立守備歩兵第二十七大隊を編成し、昭和十二年六月一面坡周辺に於て南満州鉄道の警備又昭和十四年七月ノモンハン事変昭和十六年五月北支冀東作戦参加等、我が部隊先輩将兵の生贄も甚大でありました。同年関東軍特別大演習の下命あり満州全土とソ満国境に於ては非常事態と一触即発の緊迫した情勢となり、同年十二月八日遂に太平洋戦争の火蓋が切られ、第二次世界大戦と相成り、日本軍の怒涛の進撃が続いて戦局は我が軍の手中に有利に進展するも日本軍の戦域の拡大輸送困難と食糧兵器医薬物資の欠乏等悪戦苦闘愈々危急にして日本国土の侵襲ありて日増に悪化し、昭和二十年八月六日広島市に世界最初の原爆が投下され、幾万人の犠牲と市街廃墟と化し被害膨大にして敗戦えと繋り、戦況我に利あらず栄枯盛衰遂に昭和二十年八月十五日玉音放送を以て我が国が連合国側にポツダム宣言を受諾したことを日本国民に告げられ戦争終結と相成り、筆舌に尽し難き多くの犠牲と多難を極めた戦いの日が終り、我が子を失い最愛の夫、唯一人の父を亡くされし肉親は無事帰還を一日千秋の思いで待ちわびた御遺族の胸中をお察ししますとき万感胸にせまるものがあり、悲しみは生涯忘れることは出来ません。悲惨を極めた戦争が終って半世紀の歳月が流れ、戦後国土は数年間絶望と混乱の状態から御遺族の皆様方は臥薪嘗胆必死に生き拔き耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで国家大局に向け挙国一体共存共栄を計り、戦後我が国は平和国家として素晴らしい発展を遂げております。而し乍ら今や生存者一同も高齢となり波乱万丈の人生も幾星霜過し大戦の戦死歿者と戦後の物故者十万億土の御霊の誠を永遠に顕彰し、再び悲しみの歴史を繰り返さぬよう継承していかなければなりません。昭和の年号も平成と変わり、皇太子殿下の御結婚の儀が執り行われます。皇室の益々の御安泰を国民挙って御奉祝申上げ、今後も我が国は国際経済社会の国家として益々平和憲法の下、一層の発展と人類が希求する平和を恒久的に確保し、美しい地球を守り新しい時代に生きる最大の使命であると堅く信ずるものであります。尊い命を国に捧げられた諸英霊に対して以上申し上げたことをお誓い致し安らかにお眠り下さることと併せて御遺族の皆様方の御多幸御安泰を心から祈念申し上げ私の追悼の辞と致します。
平成五年六月三日
元満州独立守備歩兵第二十七大隊
第十五回全国合同慰霊祭
生存者代表 安田 與民
【鉄道第十五聯隊慰霊祭】
祭文
敷島の大和心を人問わば
朝日に匂う山桜花
(本居宣長)
松坂出身の國学者本居宣長の一首であります。
其の山桜もはや散り新緑萌える伊勢路の三重護國神社に於て鉄道第十五聯隊の英霊の御前に御遺族、戦友相集い第二十一回慰霊祭を執り行うに当り謹んで祭文を捧げます。
顧みれば我々鉄道第十五聯隊は昭和十九年四月千葉県津田沼において編成され大陸鉄道打通作戦のため博多及び門司を出港し安徽省蚌埠に進駐しました。
一方現役兵は日夜空襲の激しさを増す昭和十九年九月に門司に集結し朝鮮半島を北上天津・南京を経て揚子江を遡行して漢口に上陸し野鉄配下に於て第一期の集合教育を終え昭和二十年二月各中隊に配属されました。その結果各隊は格段の兵力の強化を得る事が出来ましたが特に南支の第一大隊への追及の苦難は並大抵のものではありませんでした。
然るに昭和二十年八月十五日勅令のもと終戦を迎えるの止むなきに至りました。
終戦後復員までは思いを新たに中国政府に協力し鉄道の復旧と輸送に当り民生の安定に大いに貢献しました事は忘れ得ない事実であります。
終戦後五十有余年今静かに当時を回想するとき戦争の辛さ空しさそして悲しさの一つひとつが昨日の事のように浮んで来て忘れる事は出来ません。
不幸にして中支南支の空の下万感涙を呑んで散華され懐かしい祖国の土を踏むことの出来なかった皆様の事を想うとき私どもはたヾたヾ胸迫りて申し上げる言葉もございません。
現在の祖国繁栄の礎を築かれ又私達の身代りとなられた亡き戦友の皆さん安らかに御眠り下さい。私達は生命のある限りいつまでも諸兄の英姿を偲び追悼してやみません。
本日こヽに御遺族の皆様と戦友相参じ御霊安かれと護國神社神前にて御冥福を祈念いたします。
又祖国に帰り日本再建のため国家社会貢献されつヽ当戦友会の発展に積極的に寄與されましたが不幸にして鬼籍に入られました戦友の御霊に対して心から感謝いたしますと共に御冥福をお祈り申し上げます。
どうか私どもの追慕の念と敬虔なる祈りをお受け下さい。
こヽに祭文を捧げ追悼の詞といたします。
平成十二年五月二十二日
鉄道第十五聯隊戦友会
会長 古川 保範
【河井隊慰霊祭】
祭文
三重県護国神社の社頭に深く頭を垂れ、河井隊の勇士を思い浮べて祭文を奏上致します。
過ぐるあの日から四十八年護国の御霊となった当時の状況は今にして思えば想像のよすがもありませんがこの御霊の前に心静かに立ち、みたまして安らかに眠る皆さんのありし日を偲ぶとき切々として胸に迫り感慨無量のものがあります。
祭神となられた英霊には南十字星輝く中部太平洋のサイパン島及びルソン島で一意軍人勅諭のもと日夜を分たず而も雨霰と降る弾の中、草木をかじって餓をしのぎ、お国の為、唯一筋に戦って参られましたが惜しくも敵弾に倒れ、或は不幸にしてマラリヤに罹られた次第、洵に痛恨悲哀の感がするのであります。
こゝに身命を賭して辛惨を嘗め異国の地にて望郷の念断ちがたくその願い叶えられずに祭神となられた英霊に対し、声なき対面ではありますが私は戦場を訪れ慰霊することに致しました。
昭和五十三年七月ルソン島カバナツアンを訪れたとき英霊となられた河井中隊長のありし日の勇姿が髣髴として蘇るとともに南瞑の地に身命を賭して戦った多くの戦友の嗚咽を聞きました。
七月三十日銃火器を持たない丸裸の日本兵約三万が「東京を救え」の合言葉の中、血の山河をもって防戦に努めること百日間金城湯池バレテ峠の頂上に立ち日本軍慰霊の木標前で焼香、般若心経を誦じました。
三十一日河井隊から藤原隊に転属しアリタオで祭神となられた方々に塔婆並びに内地からの土産を供えて読経、続いて地獄のキアンガン火力百倍の米軍に肉変じて鉄となり挑んで屈せざること四十三日間池田部落と二子山に想いをよせ祭神となられた方々を次から次へと回想して涙とともに心経を唱えました。
また昭和五十二年三月玉砕の島サイパンを訪れ護国の鬼となった河井隊二百余名が島の中央部タポチョウの南斜面誉部隊の陣地に佇み敵撃滅の火と燃えて神となられた勇士の面影を偲び続いて七生報国を合言葉として夜襲を重ねたが戦い利あらずマッピの山に「海征かば水漬くかばね山征かば草むすかばね」の歌を歌い終って老将自決残る日本軍は万才突撃を敢行また婦女子は生きて虜囚の辱しめを受けずと万才岬で身を投げた様を想起して涙が禁じ得なかったのであります。
殉国の諸霊よ、生き永らえば良き家庭の夫となり一家の柱として全くかけがえのない有為の若者であったのに今は勇躍故郷出発の英姿はなく諸霊の温容に接することはできません。
こゝに謹んで南の空遠くあの山あの河あの谷あの海で骨を埋めた皆さん、いつまでも霊安かれとお祈り申し上げて祭文といたします。
平成三年六月二十六日
清水 徳郎
【野田生徒監慰霊祭】
野田生徒監殿の丗三回忌に際し思いを新たにその御仁徳を慕い集って参りました。
熊幼四十六期一訓五十名は既に、不惑を越える年となりましたが全員元気で活躍して居ります。
昭和十七年四月熊幼に入校した頃には生徒監殿は先輩の四十三期を送り出された後で現在の私共よりは若かったはずです。
然し、一人の円熟した武人としての人格を思う時、徒らに馬齢を加えるのみで汗顔の至りであります。
顧れば当時十二、三歳の希望に満ちた少年が親のもとを離れ、初めて軍服を着せられ、接した軍人が野田生徒監殿でした。
「眼は心の窓」と言われますが鍛え抜かれた軍人としての厳しさの中に慈愛の光をたたえられたあの眼ざしが今も、なお瞼に焼き付けられて居ります。
清水台で一年半の間、生徒監殿から朝な夕な受けました将校生徒としての最初の薫陶が、今日の私共の人間形成に重大な影響を与えたるは疑いありません。
四月一日入校の時の最初の訓示は「おれについて来い。道は近きにあり。」でした。私のような庶民の子も、何時の間には自然に将校生徒になって行ったように思います。
当時の日記のあちこちに「淡白でない。」「素直であれ。」「至誠一筋。」「平凡であれ。」と朱書で御注意を受けた遺筆が今も残って居ります。
或は教練の時間では不動の姿勢、敬禮を不思議なくらい厳格に、一人一人、手を取って何度何度も教えられました。又休暇で私が帰校する度に「お母さんは元気か。」とニコニコして尋ねられた事もなつかしく思い出されます。
父が早く亡くなり母の手で育てられた私に父親代りの慈愛のこもったお言葉がどんなに身に沁みた事か。今も忘れられません。
生徒監殿の端正な御姿はビルマ転任の時の最後の写真となって残り天成の教育者であった面影を彷彿とさせるものがあります。
幾星霜をへだてた今日、ありし日の生徒監殿の御威徳を偲び生涯の心の糧として今後の人生を歩みたいと思います。
生徒監殿どうか奥様はじめ御家族の方々を、又私共をお守りお導き下さい。
昭和五十二年十一月五日
熊幼四十六期一訓代表
小野 真照
【三重県警察職員合同慰霊祭】
祭辞
本日ここに第十五回三重県警察職員合同慰霊祭が執り行われるに当り一五五万県民を代表して謹しんで祭辞を申し上げます。
近時警察官の職務は都市化の進展に伴なう社会情勢の急激な変化に対応するためその責務はいよいよ重且つ大となりつつありますが何と申しましても治安を維持し県民の生命と財産を守ることは警察官の最大の使命であります。
わが三重県の警察官が歴代本部長の統率の下、日夜を分たず使命の遂行に当り、時としては一身の危険をも顧りみず、凶刃凶弾の中を立向い、或いは交通取締、災害救助の第一線にあって敢然としてその職責完遂に邁進される等、崇髙な犠牲的精神の発露は日頃県民がよく認めるところであり、まことに感謝に堪えないところであります。
本県における殉職警察官及び警察職員は明治以来既に五六柱を数えますが尊い犠牲となられましたこれらの方々はそれぞれ県民の盾となり、治安の礎となって散って行かれた人達であり、そのご功績は全県警察の亀鑑としてとこしえに輝き讃えられるものと信じます。しかしながら顧りみて故人を偲ぶとき私共は哀惜の情、切々として禁じ得ないものがあります。
ここにご霊前にぬかづき謹んでご冥福をお祈りするとともに一家の柱とたのむ夫、よき父を或いは最愛のご子息を突如奪われた悲しみや苦境にもめげず、警察官の家族としてよく耐え故人のご遺志を貫いてこられた遺族の方々には対し改めてお慰めのことばを申し上げ、衷心より敬意を表したいと存じます。
願わくば在天の御霊よ、あなた方があなた方の遺業をつぎ、誓いを新たにして日夜挺身する本県警察官に対し、守り神として任務遂行の上にご加護あらんことを祈念し、祭辞といたします。
昭和四十七年十一月二十日
三重県知事職務代理者
三重県副知事 後藤 士男
【昭和十五年陳川同窓会慰霊祭】
祭文
本日ここに、ご遺族、恩師をお招きし、物故同期の慰霊祭を執行するにあたり、つつしんで在天の御霊に申し上げます。
昭和十五年三月、私どもが県立津中学校を卆業しましてから、今年で満三十年を迎えました。当時は、日華事変が勃発し、その翌年には、太平洋戦争に突入いたしまして、私どもの青春はいや応なく戦火に明け暮れることとなったのであります。この間、大陸に、太洋に、祖国の悠久を信じつゝ、帰らぬ人となられた友が多く、また戦後、志半ばにして、倒れた友もあり、物故同期生は五十柱を数えるにいたりました。
今、こうして、護国神社の御前に、静かに眼を閉じますと三十年の昔とはいえ、經ヶ峯に沈む夕陽に紅顔を輝かせながら、分列行進を行なった若い姿、三條の白線と六稜の校章の帽子を頭にいたゞき、たどたどしくリーダーの横文字を追った若い瞳、あの頃、この時の顔が昨日のように想い出されてなりません。戦後二十五年、我が国の経済成長は世界の驚異となり、今年は万国博まで開かれる現実を眺めますと、まことに感慨一入深いものがあります。
私どももまた、年令不惑を超えまして、それぞれの分野で責任ある仕亊を分担しておりますが、これもひとえに同級生諸兄の御霊のご加護によるものと信じます。ここに卆業三十周年を記念して、ご遺族、恩師ともどもみたまをおなぐさめする式典を執行する次第であります。
我が国の前途には幾多の問題を抱えておりますが、私どもはそれぞれの持場でさらに精進、努力を重ね、いささかなりとも我が国の発展に寄与することによって、みなさんのご遺志を継ぎたいと考えるものであります。
願わくば在天の御霊、私どもの微意をお汲みとり下さいまして、安らかにお眠り下さい。
昭和四十五年六月二十一日
昭和十五年陳川同窓会
代表 岡村 初博
【津陸友の会慰霊祭】
祭文
新緑香るこの季節、三重縣護國神社の聖域に於きまして、元津陸軍病院の戦友会津陸友の会の一同相集い、ご遺族の方を御招きして、戦死、戦病死並びに復員後他界されました先輩、同僚、百十余名の慰霊祭を相営み謹んで追悼の誠を捧げます。
顧れば、先の第二次大戦終結以来已に、六十余年の星霜が、流れましたが、その間、我が国は、各国に率先して、世界の平和復興に尽力し、その実績を挙げて来ました。是一重に、諸氏御霊の功績に他ならぬものと存じます。
戦後、苦難の時代、祖国復興のため奮闘して来られた方々も高齢となり、体力の劣化と共に、年一年と他界されることは、自然の移り変りで止む得ぬことゝ存じます。
こヽに、祖国益々の繁栄と御遺族皆様方の御健康を祈念し諸氏御霊の冥福を御祈致しまして祭文と致します。
平成十九年五月十四日
元津陸軍病院戦友会
津陸友の会 会長 森 三郎
【三重特幹会慰霊祭】
本日こゝ三重県護国神社のご本殿に額づき、ご来賓ご遺族、元陸軍軍人特別幹部候補生相集い、三重特幹会戦没者二十三柱の慰霊祭を挙行するに当たり謹んでご英霊に申し上げます。
今次の戦爭終結以来六十周年を迎え憶えば大戦も末期に戦局も一段と熾烈の度を加えて危急存亡の秋に至り我等十代の若人が国土を守る為陸軍特別幹部候補生を志願、昭和十九年春それぞれの教育隊に入隊し若い血潮を只々祖国日本の必勝を信じ、僅か一ヶ年余の期間とはいへ厳しい訓練に学業にはたまた制裁と、それらが走馬灯の様に脳裏をかすめます。教育期間を終へ主に南溟沖縄方面と各地の前線に配属され、武運つたなく国難に殉じ散華されました。
誠に痛恨の極みであり悠久の大義に生き平和の礎となられた御霊に深く頭を垂れて心からの御冥福をお祈り申し上げます。
十代の青春を陸軍軍人特別幹部候補生として各地に散った御霊の心情に想いを致すとき哀惜断腸の念沸々として切なるものがあります。
国破れて山河あり星霜移り変り、今や我が国は世界に類を見ない永い平和と繁栄が続き世界の平和に大きく貢献するまでに成長いたしました。これ偏に護国の御社に鎭りますご英霊のご加護の賜でありご遺族の方々の悲しみと苦難を乘り越えてこられたご努力に外ありません。こゝ改めてご英霊のご偉勲に思いを馳せ哀悼の誠を捧げ再び悲しみの歴史を繰り返すこと無き決意を新たに、平和と幸せに溢れる社会の建設に尚一層努力を傾けることを神前にお誓い申し上げ祭文と致します。
皇紀二千六百六拾五年
平成十七年四月二十六日
元陸軍特別幹部候補生
三重特幹会
会長 伊藤 武
【三重県消防殉職者慰霊祭】
祭詞
本日こゝに三重県下消防殉職者の慰靈祭をとり行うに当り、謹んでみたまに申し上げます。諸氏は、生前一身をかえりみず、よく消防の精神に徹して或は、火災出動に際し、火煙の中に毅然として放水の筒先を握りつゝ倒れられ或は、炎熱酷寒のさ中に過激な訓練の犠牲となられ或は、台風に際して暴風雨の下、水防活動中に事故に遭遇せられる等、そのときと処は異なるも何れもその職に殉ぜられた方々ばかりであります。就中、昭和三十四年の史上空前といわれた伊勢湾台風に当り、壮烈な最後をとげ、文字通り水防の鬼と化せられた方々の思出は今尚私共の記憶に新たなるところであります。
諸氏逝いて既に幾星霜、今親しく靈前にみたまを拜し、往年の事績を追想するとき、涙新たに哀悼の念を禁じ得ないものがあります。かけがえのない尊い一家の柱石を失われたにもかゝわらず、社会の荒浪をよく乘り越えて来られました御遺族の御心中を拜察するとき、何ともお慰めの言葉もございません。こゝにその御労苦に対し、深く敬意を表する次第であります。
現下、消防の使命愈々重且大を加うるのとき、諸氏が身をもって示された至誠はわれら消防人の亀鑑として、とこしえに本県消防史上を飾り、その業績と令名は万古に朽ちず残るものと信じます。こゝに招魂の儀式に列し、我等消防人一層発憤興起して地域住民の期待にこたえんことを深く期するものであります。
願くば、とこしえにわが消防界を加護せられんことを祈念し、祭文といたします。
昭和三十九年三月十三日
三重県消防殉職者慰霊祭
祭主 三重県消防協会長 田中 覚
祭詞
梅花におふ今日、三重縣消防殉職者二十三柱の合同慰霊祭を執行せられるに当り、縣下市町村長會を代表して謹んで御霊の前に申上ます。
御霊となられた皆様方には前途春秋に富む青年として郷土より将來を嘱望せられた方々でありますが、何れも地元の消防団員として犠牲的精神に徹し、消防その他の災害の防止に当り、身の危険をも省り見ず、尊い職責に精励せられましたが、不幸にも悲しむべき不慮の災禍によつて職に殉せられ忽然として幽明境を異にせられ、公共の礎石となられました。
ひとしく災害防止の重大なる任務に奉仕する身としては、かねて覚悟を有することヽ申しながら志し半にして其の職に殉せられ、更には御遺族の悲しみを思ふにつけ、痛恨の極みであります、
然しながら、皆様の業績は永遠に郷土消防史上にその名をとヾめ、あとに續く縣下消防団員の志気を振いたヽせるに違いありません。
消防の制度に色々変遷はありましたが、変らないのわ尊い郷土愛にもゆる犠牲的な消防精神であります。自治体消防発足以来すで滿十五年を経過し、縣下消防々災の業務も着々と堅実な歩みをつヽけておりますが、文化の進展と共に愈々範囲も拡大し、災害の実情、更に悲惨の様相を呈して参りました。此の時に当り、消防活動の重要性が一層痛感せられるに到りました。
皆様のこの尊い犠牲を無為に終らしめることなく、これを私等の教訓として、また亀鑑として縣下の消防が更に心を新に粉骨の努力を重られることヽ信じます。
願わくば、皆様の英霊、天上にあつて見守られ、安らかに鎭りませんことを。
昭和三十九年三月十三日
三重縣市長会長
水谷 昇
【桑名市遺族会慰霊祭】
祭文
あの悲惨な大戦が終結してから早や六十年の歳月がすぎました。
かえり見ますれば、父の出征以来私達遺族が歩んできた道は真に厳しく辛いものでした。悲しみに耐え、戦後の廃墟と混乱の中で、母と共に歯をくいしばって、あらゆる苦難を乗り越えて生き抜いてまいりました。幸いにも無事成長し、家庭を持ち、子供と孫も授かり、平和な家庭を築いてきました。この様な平和な生活こそ英霊の皆様が望み夢見て、戦っておられた事と思います。しかしその夢をかなえる事なく、故郷を遠く離れた戦地で死ななければならなかった無念な思いを考えますと誠に辛く悲しい思いでいっぱいです。
今やわが国は世界有数の経済大国となり平和国家として福祉国家をめざして発展しております。市場には物があふれ車は一家に二台三台持つような生活になっております。この様な平和で裕福な生活は多くの英霊の皆様の尊い犠牲の上に有る事を決して忘れてはなりません。
私達遺族の経験した苦しい辛い思いを子供や孫にさせないよう、あの戦争の悲惨さを風化させる事なく後世に伝え戦争の無い平和な世の中が続くよう努力する事が英霊の皆様の尊い犠牲に報いる唯一のことであるとおもいます。
昨年、三重県ではあの悲惨な戦争を後世に語り継ぐため、三重県戦争資料館というホームページを開設されました。これに合せて三重県遺族会においても三重平和祈念館というホームページを開き、遺族会館内に資料展示室を開設し、あの悲惨な戦争を二度と起さない様、後世に伝えて行こうとしております。
私達遺族は決意を新たにし世界恒久平和実現のため、微力ながら一層の努力をする事をお誓い申し上げ、追悼の言葉といたします。
英霊の皆様、どうか安らかに御眠りください。
平成十七年十月二十一年
桑名市遺族会
伊藤 充登
【桔梗が丘地区遺族会慰霊祭】
本日ここに桔梗が丘地区戦没者各位の慰霊祭を挙行せられるにあたり謹んで哀悼の意を表します。
私どもまちの平和と繁栄は散華されたみ魂のご加護の賜でございます。
今後遺族会の固い結束をはかり、英霊顕彰を道しるべとして努め御霊の鎮静とご冥福を心よりお祈り申し上げます。
平成十八年六月十一日
名張市遺族連合会
会長 山本 芳明
祭文
青葉薫る、今日の佳き日に戦没者御遺族を始め、名張市遺族連合会会長様のご参列のもと、三重県護国神社の社で桔梗が丘地区戦没者春季慰霊祭を挙行するに当り、遺族を代表し、謹しんで追悼の言葉を申し上げます。
私達にとって忘れる事の出来ない戦争も終戦後六十一年を迎え、この間、我が國は目覚しい経済成長を遂げ、今では世界第二位の経済大国となりました。
その陰には、先の大戦で国家の為めに家族や妻子を残し、祖国のために散華された幾夛の尊い御英霊の犠牲の上に、今日の平和国家と経済の繁栄があることを忘れてはなりません。
ひとへに祖国と家族の安泰を念じつヽ、戦場で戦い散華された御英霊の皆様、今日の国内外の情㔟は不透明で、先の読めない時代が到来しました。国際的にはテロ行為の活発化が核兵器の拡散、エネルギー資源の髙騰、環境の破壊と数夛い問題に直面しています。
国内に於いては、郵便局の民営化が成立し、日本国憲法や教育基本法又、年金改革が議論されています。そして社会面では少子髙令化社会が進行し、治安の悪化、とりわけ若手層の非行が増加し、経済犯罪が表面化して来ました。そして特に私達、遺族にとって関心の深い内閣総理大臣の靖国神社参拝が国内外で大きく取り上げられ、中国、韓国ではデモが起きるなど、世論で大問題となっておりますが、小泉総理は五年連続して靖国神社に参拝されたことが、大きな前進となりました。お母さんや親遺族の方々は終戦の混乱期に食べる物も着る物も住む家もなく、一家が一日、一日を生活する為に汗を流し涙して食せず、毎日、ただただ家族や私達子供の養育の為、働き続けてくれました。このお蔭様でお父さんの顔を知らなかった遺児達も立派に成長し、立派な社会生活を終へ、今は年金生活を送る年となりました。
苦難な日々を送られた母親も、今は最髙令に至りました。今こそ、私達戦争遺児は、英霊顕彰の運動に取り組む時期と思います。戦争を知らない世代が過半数を占める今日、戦争の悲惨さを風化させることなく、私達の子や孫の世代が御英霊に感謝を申し上げ、御英霊の安らかならんことをお祈り申し上げ、追悼の言葉といたします。
平成十八年六月十一日
名張市桔梗が丘地区遺族会
会長 山岡 宏久
【員弁郡遺族会慰霊祭】
祭文
本日こヽに員弁郡遺族会主催による戦没者慰霊祭が三重県護国神社に於てかくも盛大且つ厳粛に挙行されるにあたり意義深く謹んで慰霊の言葉を申し上げます。光陰矢の如く終戦から丗六年の歳月が流れ去りました。思いかえせば先の大戦におきまして炎熱はげしい南海の果に、あるいは厳寒はだ刺す北の地に親と離れ、妻や子を残して国難に殉ぜられたお父さんの生命を思いますとき、哀痛の思い胸に迫るものがあります。
敗戦の苦しみを味わった国民も不撓不屈の努力により今や日本国は、民主国家、文化国家として又世界にほこる経済大国として力強く歩み続け平和と民主々義の上に今日のめざましい発展をとげる事が出来ました。これもひとえに祖国のために尊い生命を捧げられました諸霊の限りない御加護のたまものと堅く信じている次第であります。
先の大戦で父を失い、親なし子と言われた私達遺児も幾多の困難を乗りきり今では立派に成長して社会の中堅リーダーとして遺族が抱えております諸問題の早期解決に活躍しております。しかしその陰には子供だけは不自由な思いをさせたくない、させまい、この子が世間から後指をさヽれないようにと力一杯頑張ってくれたお母さん、青春をかけ、父の身変わりとして一家の柱となっていばらの道を生きぬき、これまで育てゝくれたお母さん達の事を思うとたヾ感謝の念で一杯です。
時は移り世代は変わりつヽある今日、ともすれば、あの悲惨な戦禍の生々しい体験は忘れ去られようとしておりますが、再びあの悲惨な戦争を起さないよう私達遺族会青年部一同、御神前にお誓い申し上げます。
こヽにみたまの御冥福を祈り併せて一層の御加護を心から御願い申し上げ、祭文の言葉といたします。
昭和五十六年九月九日
員弁郡遺族会
青年部長
武田 弘
追悼の言葉
本日ここに員弁郡戰没者の慰霊祭が斉行されるに当り、合祀関係各町の戰没者遺族を代表して敬々しく神前に額づき、追悼の誠を捧げます。
十年一昔と申しますが、戰爭が終ってはや五十七年。残された妻達も半分以上、ご英霊のお傍へと旅立っていきました。残された子達も立派に社会人として世の中のために働き続け、今や六十才を越え七十才になった者もいます。
この年まで無事務めを果し、元気で過してゐられますのは、みなご英霊のご加護の賜と深く感謝するものでございます。顧りみますれば、ご英霊の皆様には過去幾度の戰いにおいて祖国日本の必勝と郷土の安泰、肉親の幸せを心に念じ乍ら、遠い異国の空の下で、無念の最后を遂げられましたご英霊に思いを至する時、永遠の深い悲しみであり、痛恨の念が胸に迫るを禁じ得ません。
私達遺族は再びあのような悲惨な地獄のような戰爭が起きないよう、又平和の有難さを子々孫々に至るまで、正しく語り継ぐことを固くお誓い申上ます。
終りに臨み、神々しい護国神社の社前で尊霊の檀下に額づき、在天の尊霊の安らかに鎭まりますことをお祈りして追悼の言葉と致します。
平成十四年七月八日
員弁郡遺族会
代表 鈴木 清司
【大安町遺族会慰霊祭】
追悼の辞
長い冬のとばりから解かれて、天地に春色みちてきました本日、大安町戦没者慰霊祭が御遺族多数御出席のもと厳粛に開催されますに当たり、こゝに謹んで戦没者諸氏のみたまに申し上げます。
諸霊は国運を賭した戦争において、ひたすら、祖国の勝利を信じ、一身をも顧みず、危地におもむき、遂に酷寒炎暑の戦陣にたおれ、いたましくも散華されました。まことに痛恨のきわみでございます。
あなたが命をかけてお守り下さいました祖国は、今や復興全く成り、街は旧跡をとどめぬまでに繫栄し活気に満ち溢れ、発展の一途をたどっていますことは、神しずまります諸英霊の御加護の賜であり、御遺族の方々の悲しみと苦難に満ちた御努力の賜にほかなりません。
私たちは今日あらためて戦没諸英霊の御遺徳を偲び、再び悲しみの歴史を繰り返さない決意を新たにし、平和を誓い、諸英霊をお慰めせねばならないと信じこゝに戦没者の霊を皆様方と共にお祭りし、平和を祈り、町民として健やかに生き、明日の日本の為に心を合わせて努力する旨念じますことは、まことに意義深いものがあると存じます。
戦後、わが国はひたすら国の再建と発展に努めてまいりましたが大安町もその中にあって、誰もが住みたくなる明るい街づくりに邁進し、現在、教育、文化、健康な町として、又、天災・公害のない健康で長寿のできる町として、他に誇りうるまでに成長してまいりました。
あたかも本年は町合併十五周年の記念すべき年を迎えようとしており、私どもは心を新たに大安町全町民の幸福を願って、その福祉に万全を期すべく努めてまいりますことをこゝにお誓い申し上げ、今はただ戦没者各位のみたまがとこしえに安からんことまた在天の光として、今後ともわが故郷のまち大安の繁栄と平和を見守り給うことを念じ、併せて御遺族の皆様方の御多幸を祈念いたしまして私の追悼の辞といたします。
昭和五十三年三月二十三日
大安町長
萩野 禮治郎
【東員町遺族会慰霊祭】
追悼の言葉
本日ここに東員町遺族会主催による三百有余柱の戦没者慰霊祭を挙行せられるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
尊霊には、過ぐる大戦においてひたすら祖国の興隆と同胞の安泰を念じつつ、国のみ楯として散華せられたのでありまして、その崇高なる御精神と勲は、わが国の歴史に深く刻まれ、国民すべて景仰感謝してやまないところであります。
今ここに、ありし日の尊霊のお姿をお偲び申し上げますとともに、最愛の御肉親亡きあと、混沌とした世相の中でただ黙々としてあらゆる苦難に耐え生き抜いてこられた御遺族の御心労をお察しするとき、痛恨の情切々として胸に迫るを禁じえません。
本年は戦後五十年にあたり、我が国の発展は今や世界注視の的となり、郷土東員町も北部丘陵地には大規模住宅団地が開発され、人口急増の町として、中央部には行政・文化・福祉の拠点としての施設が集約され、また、南部には東海環状自動車道の整備計画等、戦前には想像もできなかった繁栄をみておりますが、悲しくも遠く去りましてこの喜びを分かちえないことは、かえすがえすも残念でございます。
しかしながら、これひとえに諸霊の尊い犠牲により培われたことを肝に銘じ、明るく豊かな郷土東員町を築き上げるため、より一層の努力を傾倒いたす所存でございます。
ここに謹んで尊霊に対し、敬弔の誠を捧げ、追悼の言葉といたします。
平成七年六月七日
東員町長 伊藤 仁實
【千早赤阪村遺族会慰霊祭】
追悼の辞
本日、ここ三重県護国神社において、村長様・議長様・ご遺族多数のご参列のもと、千早赤阪村戦没者百六十八柱の平成二十五年度慰霊祭の挙行にあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
顧みますに、先の大戦において祖国の繁栄と興隆を信じ、散華されました方々を思うとき、万感胸にせまり、目頭が熱くなってまいります。
戦後遠に六十七年が過ぎて今改めて肉親が尊い生命を捧げたご遺徳を偲び、私たち遺族は痛恨の極みでございます。
ここに国難に殉ぜられた親・子・夫・兄弟の尊い犠牲的精神を無にすることなく、今後再び悲しみの歴史を繰り返さない決意を新たにし、平和を誓いそれぞれの分野においてより一層の努力を致すことを英霊にお誓いいたします。
終わりに百六十八柱に対し、安らかなご冥福をお祈り申上げ、ご参列の皆様方のご多幸とご健康をお祈り致しまして、追悼の言葉と致します。
平成二十五年五月二十二日
千早赤阪村遺族会
会長 清井 登紀博
【三重県遺族会女性部未亡人会員物故者奉告慰霊祭】
祭文
本日護国神社の大前において三重県遺族会女性部結成六十周年を迎えるに当り県下未亡人会員六五八七柱物故者の奉告慰霊祭を執り行うに当り女性部を代表して謹んで祭文を奏上申し上げます。
あの忘れる事のできない熾烈極る戦争が終りをつげて来年は終戦七十周年になります。
戦後の遺族に対する国の処遇はすべて打ち切られまさに戦没者遺族は物心両面にわたり過酷をきわめました。この様な苦境の中母達は夫の帰りを信じて子供と一緒に毎日毎日待ったでしょうね。ついに帰っては来てくれませんでした。若くして未亡人となられた母達は戦後の混乱の中一生懸命子供を育てるのに泣くひまさえなかったと思います。昼は重労働夜はよなべ仕事に休むひまもなく働き続けられある時は厳しい父親又優しい母親として一人二役で人様には言えないつらい苦難の道を歩んで私達を立派に育てていただきました。有りがとうございました。
又一方で遺族会婦人部として処遇改善国会陳情靖国神社公式参拝運動等三重県遺族会の中心となって活躍をしていただく中遺児の育成と私達をご指導していただいた皆様方でしたが髙令化が進み平成十八年に女性の遺児を加え名称を女性部と改正し今日の姿になりました。本日私達が奉告慰霊祭が執り行えますのも偏えに皆様方のご加護の賜物であります。心から感謝申し上げます。
今日は郡市の会長様女性部長さん代表の方々で私達を立派に育てゝくださったお母さんに感謝の気持ちとお父さんに奉告慰霊祭を執り行う事は大変意義深く心に銘記し二度と悲惨な戦争が起きる事のないようにさらに決意を新たにして恒久平和のため一層の力を尽し皆様方のご遺志にお応えする事をお誓い申し上げ祭文と致します。
ご英霊となられたお父さんもう母達もお側におられると思います。どうか良くがんばったとほめてあげて下さい。
これからも私達の行く末を見まもって下さい。安らかにお休み下さい。
平成二十六年八月二十七日
一般財団法人三重県遺族会
女性部長 伊藤 早苗
【祭典名・斎行日時不明祭詞】
私は今日皆さんの元気溢れるゝこの姿にお目にかゝることの出来た嬉しさで胸が一杯です。
皆さんのすがすがしい明るいお顔、強くたくましいお姿を拝見してほっとしているのは、独り私ばかりではなく、この會場を埋めつくした人々の總べてでしょう。いゝえ皆さん、私達以上に喜んでいる方があります。それは華と散られたあのおやさしいお父さん、あのおなつかしいお兄さんです。すくすくと伸びて清く正しく生いたつ皆さんを御覧になつて、お父さんやお兄さんはどんなに喜んでいられることでしょう。
御覧なさい。秋空の彼方にお父さんのお姿が、お兄さんのお顔が浮んでいます。いつものように微笑んで居られます。
お聞きなさい。
どこかでお父さん、お兄さんがささやいていられます。強く生きなさい、正しく伸びなさいと、あのおなつかしい笑顔で、あのおやさしいお声で。
それにしても皆さん。皆さんのお父さんやお兄さんはそれはそれは立派な方でした。日本人の本分を全うした実に偉大な人でした。あゝした立派な方が、あんな偉大な人が生きていて下さったら、如何に敗戰國とはいえ、斯くまで惨めな世相を見なかっただらうと、今更のように皆さんのお父さんや兄さんの死が惜しまれます。
戰爭。それはのろうべきものであり、また忌むべきものでした。でも、私達は國策に順応しなければならなかったのです。國民である以上、すべてを献げて國策に応えねばならなかったのです。
そして、皆さんのお父さんやお兄さんも敢然として立ち、雄々しく戰って下さいました。そして不幸護國の華と散られたのです。そして、皆さんは強く生きていたヾかなければならなくなったのです。
私はいつも皆さんの上に幸夛かれと御祈りしていたのでした。
今や日本は、平和國家の建設に、民主的な文化國家の再建に大童です。そして、祖國再建の鍵は皆さんの手に、いいえ私達國民の一人一人の肩にかゝつているのです。しかも國策の遂行には私事を顧みることは許されません。個人を考うべきでもありません。あくまでも國策の線に沿い、飽くまでもそれぞれ応えねばならぬことは今も昔も変らないのです。
平和國家の建設といヽ、民主的な文化國家の再建といゝ、共に絶対的なものであり、そして世界人類の永遠の理念なのです。たとえそれが、道ならぬ戰いで、あったとはいえ一命を献げて下さった皆様のお父さんやお兄さんの心を心として、たゞひたすらに御健斗下さい。
言うまでもなく私は、皆さんのお気持は十分に解っています。そして何かとお察ししています。
でも環境は人を作るとか申します。世界を動かす偉人が逆境から生れ出ていることは、明かに歴史が証明しています。艱難汝を玉にす、とも申します。また、皆さんの前途にはまだ幾多の茨の道が横たわって居りますが、しかし、「憂きことのなおこの上に積れかし、限りある身の力ためさん」と歌った古人の歌を胸に秘め、明日の希望に燃えて、強く正しく明るく伸びて下さい。皆さんの身は、皆さんのお父さんや兄さんがしっかりと見護っていて下さることを心して敢然と大地に足をつけて平和國家建設へ邁進して下ださい。では私は皆さんを確く信じています。そして、皆さんの御幸福を心から御祈りしてやみません。
(祭典日時・祭典名・奉読者不明)
