社報寄稿文集

- 知事、市長、議員、遺族、学者、戦友、神職等 -

 

 

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『御挨拶』

 三重県知事

 田中 覚

 

 三重県護国神社は戦災を蒙り、幸ひ類焼を免れた本殿を除く総ての御社殿は灰燼に帰し、これが御造営復興の急務であることを夙に痛感致して居つたのでありますが、終戦直後の混乱期を脱し我国も独立の慶びを迎え、民生も又次第に安定するに及び、県民各層より英霊顕彰の気運が澎湃としておこり、社殿の造営を奉賛し、祭神の遺徳を顕彰し、神霊を奉慰することを目的とする造営奉賛会が設立せられるに至りました。爾来県当局をはじめ各市町村、各種団体並びに広く一般県民より心からなる御協賛を仰ぎ、特に県外および海外在住の県人各位からも多大の御力添えをいただきましたことは深く感銘致した次第であります。幸い県民待望の御社殿御造営も芽出度く竣工致しましたことは洵に感激の極みでございまして衷心より御同慶に存ずる次第であります。

 然しながら今次大戦による戦没者はその数極めて多数にのぼり、これが合祀問題については極めて難渋致したのでありますが、各方面よりの御援助により、悪条件を克服し漸く終戦満十五年に当る本年秋を以つて概ね終了することができ、これが合祀概了奉告の臨時大祭を来る十月二十一日、二十二日の両日に亘り斎行せらるる運びになりました。

 この秋に当り今般畏くも天皇陛下におかせられましては、特旨を以つて当護国神社に幣帛料を御奉納賜る事と相成りました。もとより護国神社史上初まつて以来の栄誉でありまして、県下遺族の感激は申す迄もなく、県民あげて深く感銘致した次第であります。此の上は御英霊の心を心として愛する吾が郷土三重の復興と遺家族援護に微力を捧げたく一段と決意を新たに致した次第でございます。

 今回この社報を創刊せらるるにあたり、御祭神の遺徳宣揚の大使命を果すべく益々御発展あらんことを希うと共に、いささか所感を述べて御挨拶と致します。

(昭和35年10月10日発行 創刊号)


『挨拶』

 三重県議会議長

 小久保 久吉

 

 来る十月二十一日、二十二日の両日に亘り、三重県護国神社の臨時大祭が厳そかに斎行されますに際し、三重県議会を代表致しまして謹しんで御遺族の方々に御挨拶申し上げます。

 今回の御儀は終戦後満十五年を経ました今日、漸くにして御遺体の調査も一応完了し、ここに新たに確認されました恐らくこれが最後ともなりましよう英霊の合祀並びに奉告の儀を執り行わせられるもので、御遺族の心中お察しするときその意義も亦一汐深きものがあるのでございます。申上げるまでもなく護国神社は明治以来数次に亘る戦役に身を捧げられました郷土の方々の御霊を御神体として御祀りしたものであり、その大部分の御柱は平時にあつては良き父、良人、或は子として家業に専念せられていた方々でございましたが、一旦緩急のときに臨むや、民族の興亡を双肩に征路に就かれ尊くも国難に殉ぜられたのでございまして、我々国民といたしましては、その崇高な行為と精神に対しまして、無限の感謝と畏敬の念を捧げている次第でございます。

 さればこそその象徴である護国神社の大前に畏れかしこみ、感謝と尊敬の誠をささげるのは当然のことであり、御遺族の方々に対しましても誠心をもつて御慰め申し上げることもこれまた当然の義務であると確信するものでございます。この意味に於きましては靖国神社並びに護国神社は国・県に於てこれを管理し、犠牲者の慰霊、御遺族の御慰問に万全の措置を尽すべきであるとの世論は民族自然の感情であり、国民誰しも一日も速かな実現を願つているのでございまして、私共県議会と致しましても、昨年十二月意見書を議決、宗教法人法の適用除外を政府並びに国会に強く要望してまいつたのでございますが、私も皆様と同じく遺族の一員として靖国護国の御社は戦前通り国・県に於てこれを管理し、その祭事も出来るだけ厳粛かつ永久にこれを執り行うべきであるとの感を一段と深めているものでございます。ことに今回は特に

天皇陛下より全国の護国神社に対し幣帛料を御奉納になりました。このことは陛下が英霊顕彰に格別の御思召を御示し遊ばされましたものと拝察いたし誠に感激にたえないのでございますが、私はこれを契期といたしまして県民挙げて今後益々崇敬の誠を捧げ、御遺族を御慰問申し上げると共に平和日本の建設に一段と努力を重ねることが英霊にお酬いする唯一の途かと存じている次第でございます。

 終りに臨みまして、御遺族各位が今後益々相扶け、相励まし強く生きてゆかれんことを切にお祈り致しまして私の挨拶と致します。

(昭和35年10月10日発行 創刊号)


『挨拶』

 津市長

 角永 清

 

 平和を希求する声は天に充ち地を覆うている、戦争に参加せられた諸勇士の中で戦歿せられた勇士の方々は、国のために殉じられた誠に尊い国の礎石とも云う人々であります。これらの英霊は国として靖国神社に各県としては護国神社に祭祀せられて、国民敬仰の中心となつているのであります。三重県護國神社は明治二年旧津藩主藤堂高猷公が、現八幡神社の境内に表忠社を祀つたのがその創始であり、その后官祭の招魂社に列せられ、明治四十二年現在地に移転御遷座が斎行せられました。明治四十三年大正天皇東宮に在し、本県に御駐輦のみぎり侍従をして幣帛料を献ぜられ、又昭憲皇太后神宮御参拝の際幣饌料御下賜等の光栄によくして居ります。昭和十四年三重県護国神社と改称せられたのでありますが、昭和二十年の戦禍により本殿を除き諸殿炎上の禍を受け、全くその面影を失つたのでありましたが同二十七年御造営奉賛会が創立され、県民斉しく協力して、昭和三十二年十月二十一日本殿を初め、各種社殿等造営の工事が完成し、本殿御遷座祭造営竣功の一大奉祝祭を盛大に斎行せられました。造営は近代的文化建造に古風ゆかしく構成してあたかも靖国神社を偲ばせる社頭であります。ここに戊辰役以降陸海軍応召者等の戦歿英霊五万数柱が鎮座されているのであります。

 今年の秋の大祭に合祀概了奉告祭と終戦後十五周年に際し英霊の慰霊と共に平和を祈念する臨時大祭に当り全国五十一護国神社に対し特別の思召を以て宮中より幣帛料の奉納を賜わることは、史上初めてのことで英霊及遺家族の上に深き御憐愍のほとばしりで県民挙げてこの栄光に感激の外は御座いません。

 益々自重して英霊の護りによつて平和世界実現のはやからんことを念願して止まない次第であります。

(昭和35年10月10日発行 創刊号)


『護国の御社に思う』

 三重県町村会長

 西浦 清之助

 

 敗戦という事実に遭遇して、一億国民が慟哭した当時を偲び、今日の日本、私達の姿を思いますとき、洵に感慨無量でございます。戦後早くも十五年、私共の日本は、敗戦国に拘らず、まことにすばらしい飛躍前進を続けて参りました。

 省みて、戦に敗れはいたしたものの、却つて今日見る民主日本への礎石を打樹てられました殉国の士に対し、私共は今改めて、充分にお報い得られなかつた世相の変転を思います。

 敗戦がもたらした世相の昏迷、国民道義の低下、或は占領政策による制扼によつて、英霊を奉祀する神社への処遇はきびしいものでありました。

 このような中にあつて、逐年培養し参りました国力の伸長に伴い、人心又漸く安定を得て、先年、百五十万県民の赤誠を結集して、神社の改装造営をなし得ましたことは、些か御英霊に報いるところがあつたと申しましよう。

 かくて戦後十五年、英霊合祀概了の報告と併せ、日本の平和と弥栄を祈念し、恒例の慰霊大祭を、更に盛大に執行せられるに至りましたことは、洵に意義深きを覚えますと共に私共はいよいよ英霊を追慕敬仰し続けたいと存ずる次第であります。

 而も、この度、畏れ多くも、特別の思召をもつて、宮中より幣帛料の奉納を得ましたことは、嘗てその例を見ざることでありまして、戦後占領政策治下の処遇に思いあわせますとき、感一入であります。

 御英霊はもとより、御遺族の皆さまの感激又、多大なるものがあろうかと存じます。

 私共又、この度の大御心を体し、英霊後昆に朽ちしめないことを祈念し、平和の守り神として幾久しく守護し奉らんことを期したいと存じます。

(昭和35年10月10日発行 創刊号)


『挨拶』

 神社本庁統理

 佐々木 行忠

 

 終戦後全国多数の御遺族は申すに及ばず、全国民は英霊を遺ること無く一日も早く護国神社に合祀申上げんものと、長年に亘り念願して参りましたが、その間種々の支障に遭遇しつつも、多数の関係各位の格別なる御尽力により、この程漸く合祀が全国的に概ね完了をみるに至りました。依つて全国護国神社においてはその奉告祭並に本年は早くも戦後十五周年になりますので、併せて多数の英霊をお慰め申すと共に、日本国の真の平和を祈念せんがため、今秋各神社においては夫々臨時大祭を斎行されますように相成りましたことは、誠に意義深く、衷心より敬意を表するものであります。

 此の時に当り英霊は申すまでもなく、遺族の上にも平素大御心をかけさせられます 天皇陛下におかせられましては、この度の臨時大祭に当り全国五十一の護国神社に対して、特別の有り難い思召による幣帛料を御奉納あらせられますことは畏き極みでありまして、英霊の栄誉は申上げるまでもなく多数の御遺族をはじめ、国民一同の感激これに過ぐるものはありません。

 このことは実に終戦十五年を迎えるに当り、護国の英霊の全国的合祀の概ね完了を見るに至りましたことを聞こしめされた特別の思召しと拝察し奉るのでありまして、まことに有り難きことであります。而してこれはまた偏えに県民挙げて常に崇敬護持申上げて居る護国神社の立場を親しく御認識をいただいた御聖慮の賜であるとも拝察し奉る次第でありまして、神社関係者一同その光栄に浴し深く深く感激いたして居る次第であります。

 願わくば神社御当局は申すまでもなく、御遺族を始め多数の関係各位には、永遠にこの感激を新にされて大和の精神の下に愈々御神徳の宣揚に、神社の護持に、一段と寄与せられますと共に、社会福祉の増進に、平和確立のために、皆様方には今後一層御精進下さいまして、畏き 御聖慮に答へ奉られますようお願い申上げます。

(昭和35年10月10日発行 創刊号)


『御幣帛の御奉納を拜して』

 神宮大宮司

 坊城 俊良

 

 愛国の赤誠に徹して、護国の神となられました幾多の英霊を奉斎申し上げる護国神社が、国家及国民の深い感謝と厚い崇敬とをうけられて御社運の益々御隆盛に赴かれることは、まさに当然のおん事であり、またそのようにあらしめることこそ日本および日本人に課せられた義務でさえあります。

 わが三重県護国神社は、遺族を始め県民各位の絶大なる御尽力によりまして、既に御社殿その他いとも荘厳に簡素に、しかも輪奐の美も麗わしく、御再興に相成りまして、御祭神もさぞかし御満悦の御ことと拝察せられるのであります。

 さて護国神社に於かれては、この度、大東亜戦争によつて散華せられました英霊の合祀も概ね完了せられ然も本年は恰も終戦十五周年にも当りますので、これを記念して、臨時大祭を全国的に盛大に斎行せられ合祀の神霊を御慰安申し上げ、併せて世界の平和と日本の永遠の隆昌を御祈願に相成りますことは、寔に時局柄意義深く関係各位の御尽力に対し深甚なる感謝と敬意を表すものであります。

 天皇陛下に於かせられては、つねづね護国神社の御祭神とその遺族の上に、大御心を垂れさせ給うことは漏れ承わるだに有難き極みでありますが、この度の臨時大祭斎行の由を聞し召されて、全国五十一社の護国神社に対して幣帛料を御奉納遊ばされることと成りました趣これ全く史上初めての御ことでありまして、畏きあたりでは県民挙つて崇敬し、護持申し上げている護国神社の特殊性をお思召し給うたもに他ならぬと拝察せられ、御聖慮のほど真に恐懼感激に堪えないのであります。

 陛下の御幣帛奉納を拝して、遺族の方々は申すに及ばず私ども県民は、いよいよ心を新たにいたし、護国の英霊に対して感謝と崇敬の誠を捧げ、御神徳の顕揚に努める側ら、神社の維持、運営にも万善を尽して神恩に酬いまいらすると共に、御聖旨に応え奉らんことを念願してやまないのであります。

(昭和35年10月10日発行 創刊号)


『挨拶』

 靖国神社宮司

 筑波 藤麿

 

 終戦後既に満十五年を閲し、国運の発展洵に目覚しきものがありますが、之が基調となつて居るものは赤誠以て国に殉ぜられた、尊い英霊の御精神に報いる、感謝と報慰の真心であると信じます。

 各道府県護国神社では、大東亜戦歿英霊の合祀が、本年を以て概ね完了致し、これが奉告祭を執行はれる事になりました事は、洵によろこびに堪えない処であります。

 この由を御聞及び遊ばされた

天皇陛下に於かせられましては特別の思召を以て、今回全国五十一護国神社に対し、幣帛料の御奉納があつたのでありますが、この御沙汰は、全く史上初めての事であり、県民挙げて崇敬し護持すべき護国神社の特殊性をお認め頂いたからであります。

 今後御遺族は申すに及ばず、県民の皆様が新な感激と決意を以て英霊の報慰と世界平和の為に邁進せられ大御心に応へ奉られることを衷心より念願致すものであります。

(昭和35年10月10日発行 創刊号)


『「靖国の家」のほまれを思う』

 三重県遺族会会長

 斎藤 昇

 

 此の秋の護国神社の臨時大祭には宮中から特別のおぼしめしを以て、幣帛料を御奉納なされる由を林宮司さんから承つて、洵に感激の極みです。県下五万の遺族の方々も皆々同じ思いと存じます。護国神社に

陛下が幣帛料を御奉納になつたことは今迄になかつたことです。終戦後十五年ともなりましたが、英霊の合祀もほぼ完了し、其の奉告慰霊祭が行われようとする際、全国五十一の護国神社に、始めて幣帛料を供進されますことは、恐らく民族の護り、平和の礎として神去りました我等の親兄弟、夫、子達のみたまを慰め、又そのみたまに感謝したいという 陛下のお気持ちからだと推察致します。同時に又我等遺族の安穏な生活と平和な日本の再建についてみたまの加護をお求めになつていらつしやる 陛下の御心の御あらわれだと存じ上げます。

 戦后の思想的混乱からまだ抜け切れない世相の中に立つて、我等遺族は益々「靖国の家」の自覚に徹し、一層団結を強め、英霊の顕彰と平和日本の国づくりに邁進する覚悟を新にせねばならぬと存じます。 

(昭和35年10月10日発行 創刊号)


『挨拶』

 三重県遺族会婦人部長

 堀江 祥子

 

 今秋護国神社の臨時大祭を斎行せられるに当り

天皇陛下より特別の思召を以て、幣帛料の御奉納を賜ることになりました。戦歿者遺族の一人として誠に心あたたまる思いが致します。みやしろの奥深く神鎮ります御英霊もさだめしお喜びのことでございましよう。

 戦い終つてすでに十五年、敗戦後の混乱した社会情勢の中にあつて人情のうすさに涙し、インフレの波に押流されながら漸くにして生きぬいた戦争犠牲者の妻や子ら、今尚残る戦の傷痕を悪化させない為に、お互の仲間づくりに努力をして居りました。

 遺族会の中に婦人部が出来、戦争未亡人がしつかりと手をつなぎました。

 昨年は成長した遺児達によつて青年部が結成せられ、全国的な組織となつて、既に力強い活動の第一歩を踏出して居ります。戦没者遺族の処遇の改善については未だ重要な問題が山積して居り、私達がそれぞれの立場からしつかりと団結して、社会に要望し政府に当たらなければその解決は望み得ないのでございました。

 私達が団結の力で処遇の改善を実現し平和な住みよい国家社会を造る日の一日も早いことを御英霊はきつと期待し見守つていて下さることでございましよう。

 かかる時に際し県下五万の遺族の心のよりどころである護国神社に史上初めての、陛下より幣帛料が御奉納せられると云う朗報を承りその光栄に感激すると共に、決意を新にして今後の遺族運動に邁進致したいと存じます。

(昭和35年10月10日発行 創刊号)


『挨拶』

 三重県遺族会青年部長

 加藤 祐一郎

 

 今度護国神社臨時大祭を挙行せられるに当り、社報紙上にて県下各位に御挨拶を申し上げる機会を得ましたることは、私の喜びとする所であります。本年八月にて戦后早や十五周年になりますが、ここに英霊合祀概ね完了の奉告祭が厳粛盛大に執行われ、この大祭につき宮中より神社に対し特別の思召を以つて幣帛料を下賜され、これは史上初めてのことであるとか、感激又新たなるものであります。御承知の如く本年四月護国神社社頭に於て、三重県遺族会青年部の結成式を挙行し、県下遺族青年一致団結の下に遺族会を継承し発展せしめるべく力強い第一歩を踏み出したのであります。この青年部結成の大きな目的の一つは英霊の顕彰であります。今日我が国がかくも目覚しく平和国家として、技術の革新による華やかな消費面等輝かしい新時代に入りつつある時、この現代に生きる私たち国民として、この平和な現代は過ぐる戦争によつて失われた幾多英霊の尊い犠牲の上にもたらされたものであることを、忘れてはならないのであります。この戦争について又色々と評価もあるわけではあるが、正しくは後世に於て歴史的に解決されるでありましよう。ここで、父を送つた頃を懐古すれば、当時国を挙げて国民は万才の歓呼の声で見送り、英霊は国家の為に命を捧げるのは日本男子の本懐であるとして、日本人として当然の義務として又、親は息子を、妻は夫を、子は父を、涙をかくし笑つて見送つたのは事実であります。しかしこの英霊の悪戦苦斗の犠牲にも拘らず、国は敗れ、その死はむなしくなつたのではありますが、その犠牲の尊いことは如何に時代が変るとも変るものではありません。今日世間一般の人々は、その犠牲者に対する関心まことに薄いといふ事は認めざるを得ないのであります。ここにこの戦争のみじめさを身をもつて体験した私たち遺児が、護国の神と祭られた英霊の意義を正しく理解し、社会に大きく呼びかける必要があるわけであり相携えてその使命達成に邁進する重大な意義を有するものであります。どうか皆様ことことを御理解の上一層の御支援を御願い致しまして御挨拶を終ります。

(昭和35年10月10日発行 創刊号)


『ごあいさつ』

 三重県知事

 田中 覚

 

 終戦後十有九年、その間一時社会的に大きな退潮と混乱を見た敬信崇祖の念も、ようやく正常の姿に復し、殉国の神の鎮ります県護国神社に参拝する人の姿も増え、とくに次代をになう若い世代の方々のお詣りが目立つてまいりましたことは誠に喜ばしい次第であります。

 それにつけても敗戦、そして連合軍の占領といつた異常な事態のもとに再出発し、苦しい再建の途を歩まなければならなかつた。戦後の年月を思い、まことに感慨深いものがあります。

 戦禍によつて荒廃に帰した護国神社は、一時その再建もあやぶまれるような状態にあつたのでありますが、御遺族はもとより県下各界の御協力、さらには全国ならびに遠く海外在住の県出身者の御協賛によつて、往時におとらない社殿の建設を見、六万有余の英霊の合祀も進み、毎年春秋の大祭も盛大に行われるようになつたことは、誠に喜びのきわみであります。

 一方戦没者の御遺族に対する援護も昭和二十七年の戦傷病者戦没者遺族等援護法の制定を契機として、その後種々の方途が講ぜられ、昨年は戦没者の妻に対する特別給付金支給の途も開かれるなどの進展を見ましたことは、まことに御同慶に存じますが、県独自の措置としても、市町村とともに、春秋の大祭に協力するなど又、遺児の靖国神社参拝、一部遺族未亡人の靖国神社参拝を援助する等のことを実施してまいりました。

 国の命ずるところに従い戦火の中に身を投じて殉国の士となられた方々の勇気と犠牲的精神を称え、その霊をおまつりすることは戦争に対する批判に拘りなく国民道義の基本に属することがらであり、また国民感情の自然のほとばしりであります。従つてまたそのための祭壇である護国神社を護持することは、県民の念願であるばかりでなく義務でもあろうと思うのであります。私は、護国神社の神域が常にその清澄を維持し永く県土と、県勢発展のための精神的な源流でありつづけることを信ずるものであります。

 最後に重ねて殉国の遺烈を偲び御遺族の御多幸をお祈りしてやみません。

(昭和39年3月30日発行 第2号)


『社報第二号に寄せて』

 三重県遺族会会長

 参議院議員 斎藤 昇

 

 護国神社の社報を手になされた御遺族の皆様は、さぞかし御祭神のことどもを一入御なつかしく思い起されたことと存じます。御祭神も此の社報と共に皆様の御家庭を御訪問になつて、在りし日のことや、護国の森に神鎮られて后のことどもを事細かにお語りになつておられるように感じます。

 年々護国神社にお詣りになられる方々が一般の方を加えて多くなつて参り、又神前で御祭神の祝福と加護を受けて行はれる若い人達の結婚式が非常に多くなつて参りましたことなども、御祭神の御遺徳が益々けんしようせられて来た証拠だとお悦申上げます。日本の国も平和な文化国家への発展をつづけられているのも、ひとえに御祭神の御加護の賜と感謝の念を禁じ得ません。

 それにしても、靖国神社が国家の経費でお祀りをすることが出来ないということは、何と云つても相済まぬことだと思います。

 もういつ迄も敗戦国のなさけなさと云つてはおられません。靖国神社国家護持の気運と運動がもり上つて来たことは当然だと思います。

 今回遺族会では御承知の通り国会への請願運動をすることとなり、三重県だけでも十六万人の署名を頂いて衆参両院に請願書を出しました。国会議員で作つている遺家族議員連盟でも、此の度こそは実現の第一歩をふみ出し度いと大いに張り切つて努力致しております。建国の祝祭日制定と共に、これが実現されれば、日本の民族国家としての精神的いしづえが、初めて再建されるということではないでせうか、そして御祭神もお喜び下さるのではないでせうか。

 御遺族の皆々様には御祭神のおまつりを益々重ねられますと共に、何卒おからだを御大切にそして御家の御繁栄を心からお祈り申し上げます。

(昭和39年3月30日発行 第2号)


『国を護る』

 皇学館大学教授

 文学博士 久保田 収

 

 戦後、国といふ考へが見失はれ、国家の一員といふことを跳び越えて、個人から世界人へ結びついているやうに考へられています。しかし、私どもは、すべて民族の血をうけ、国家の生命の中に生きてきた歴史的な存在であつて、日本人といふ個人であり、日本人といふ立場における世界の一員なのです。梅の花、桃の花、桜の花といふやうな何かの花はあつても、梅でも桃でも桜でもその他何でもないただ「花」といふものは、具体的に存在しないのと同様です。

 国といふ考へがあいまいとなつた結果、国を靖んじるとか国を護るとかいふことが軽くみられてきました。だが、現実の世界をみるとき、国の力は国民一人一人の生活に大きく響いています。アジア、アフリカの諸国が、血を流してでも独立を克ちえようとしてきた姿に、このことを敏感に感じとらねばなりません。私共のいのちの由つてくるところとして、私共の祖先の苦心して築き上げたものとして、国について深く思ひを寄せるべきであります。日の丸を高く仰ぎ、君が代を心の底から唱ふ気持が、素直によみがへることを望まざるをえないのです。

 京都には東寺がありますが、この寺は教王護国寺ともいはれています。国を護るといふ考へは、ずつと古いときからあつたのです。また事実、多くの人々が国を護るために腐心し努力してきました。幸ひにして大陸から離れた島国であつたため、外国の侵攻は余り多くはありませんでしたが、それでも幾たびか国の安全と独立のために戦はねばなりませんでした。また国内においても、病毒が人間の身体をそこなふやうに、国の生命を失はうとする動きもあり、そのために国の生命を護ることが必要であつたこともありました。それらに際して、自分の身を捧げて、国を護つてきた方々に、私共は無限の感激と感謝を覚えるのです。

 私は歴史を専攻していますが、古い家の系図をみますとき、蒙古合戦のときに討死したとか、建武中興の際に義軍として斃れた、などと書かれているのをみて、しばしば胸が痛くなることを覚えます。しかし、その方々の力が、そのまま今日の日本を支へてきたのだとさへ考へます。古い時代の人々でさへさうです。ましてや、ごく新しい時代に、国を支へ国を護るために尽された方々は、直接にいまの国を支へているといへます。この方々を、日本人が古くから神と崇めてきたことは、自然のことです。とこしへに、人々の胸を打つ尊い心であるからです。

 戦後の虚脱の中で、国といふ考へに多少の迷ひがありました。しかし、もはやそれより抜け出るべきです。国を護る気持を素直に心の中によみがへらせ、また国を護つた方々を仰ぐ心をよびさましたいものです。

(昭和39年3月30日発行 第2号)


『心と家に日の丸を掲げましよう』

 禰宜 大村 泰資

 

 みなさん紺碧の大空に翻える日の丸の旗を仰ぎ見て、何か厳粛な気持になるのは一体どうした事でありましよう。

 日の丸は御承知の通り、太陽の形を表わしたものであります。自然界の生命を掌り、生成発展の偉大なる力を持つ太陽を畏敬し崇拝せられて、古代エジプトや古代ギリシアでは既に太陽を神として祭つていたのでありますが、我国においては遠く神代の昔から、古典に記載されている様に、最も尊い御子即ち日の神(天照大御神)があれいでましたとあります。

 我々民族の祖先も、この日の神を大御祖神として崇め祭つたわけであり、日本と云う名もこれに関連して誕生したと考えられます。

 文献に依りますと、太陽をしるしとして幟(のぼり)に現わした始めは、文武天皇の大宝元年大極殿において、朝を受けられた時に、正門に金銀をちりばめた日月像の旗が始めてで、それ以来朝廷の儀式には、この旗が永く用いられたといわれます。

 白地に紅の日の丸の旗は、後醍醐天皇が笠置山へ居所をお移しになる時(元弘元年)宮仕えの人々によつて、始めて用いられたといわれています。その後の武士は好んで日の丸の旗を用いたらしく、源義家、同義経、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、小西行長等も、日の丸の旗を用いたといわれています。豊臣秀吉も軍船日本丸のマストに、日の丸の旗を掲げていましたし、徳川家康も朱印船を始め色々使つており、后には徳川幕府の旗印と定めていた様であります。然し何と云つても日の丸の旗を、日本を代表する国旗と定められる様懸命に努力したのは、幕末の大先覚者島津斉彬公と、水戸斎昭公のお二人でありそれは安政元年七月からの事であります。

その後明治三年正月太政官布告によつて、日の丸の旗を再確認し、明治五年三月から祝祭日には、各戸に日の丸の国旗を掲げるようになりました。

 ところが敗戦によつて我々は、国家と云う観念が薄くなつたせいか、こうした先祖から受継いだ尊い国の宝である国旗を尊重するどころか、これを無視する様な風潮が、国民の間に滲透している様に思われます。

 幸い今年の秋にはオリンピツクが東京で開催されますので、最近他国と識別する必要に迫られてか、国旗の事が国民の口にのぼる様になりました事は、兎に角うれしいことです。

 何千年の歴史の内、未だかつて味つた事のなかつた国土の荒廃と、敗戦の苦痛を、いやと云う程思い知らされた我々国民としては、已むを得なかつた事とは云え何とも思慮が足りな過ぎた様に思われます。

 然し最近の日本は既に敗戦から立派に立直り、物質的、経済的にむしろ戦前を凌いで、世界の注目裡に益々発展しつつあります。

 今こそ戦争の犠牲者である国民、ことに最大の苦痛を味わつた我々遺族が、先づ率先して心に高く日の丸の旗を掲げ、「真の日本人ここにあり」の気概と勇気をもつて一般国民の先達となり、真に平和日本建設の実践者となつてこそ、御祭神の御偉勲にむくい奉る、最善の道だと堅く信じて疑いません。と同時に誉の家のしるしとして、祝祭日には是非共、家門に日の丸の旗を掲げ、家中挙つてお祝いを致したいものでございます。

 一家団欒常になごやかな笑顔で清く明るくそして正しく、誉の家の誇を永遠に持ち続けられます様切にお祈り申し上げます。

(昭和39年3月30日発行 第2号)


『終戦二十周年に際して』

 三重県遺族会長

 参議院議員 斎藤 昇

 

 青葉の緑も次第に色増す頃となり、遺族の皆様方には益々御元気にお暮しのことと存じ衷心よりお慶び申上げます。

 さて戦後早や二十年の星霜を経過致しましたが、今尚処遇の及ばぬところのあることは誠に遺憾に堪えません。しかしながらその後遺族の要望も次第に認められまして、逐年処遇が改善せられてまいりましたことは誠に喜ばしきことに存じます。

 本年は丁度終戦後二十周年を迎えましたので、いろいろの記念行事が計画されております。政府におきましては、全国戦没者追悼式の予算を一千万円に増額して、遺族の参列者の数を出来るだけ多くするということに配慮しております。

 また日本遺族会としては、来る十月二十日に靖国神社において日本遺族会の主催をもつて大慰霊祭を実施することになつております。

なお、日本遺族会婦人部においては「特別給付金」の受給を記念して、靖国神社の境内に「時計台」を建設して、これを靖国神社に奉納することになつております。

 且つまた、日本遺族会青年部は結成以来五周年を迎えますので、これを記念して英霊顕彰の自動車パレードを行なうことになつております。幸い「トヨタ自動車」の協力を得まして、北は北海道、南は鹿児島を起点として八月八日には東京に集り、九段会館において「全国遺族青年部結成五周年記念大会」を開催する運びとなつております。

 また、三重県においては十月頃県主催の慰霊祭が執り行なわれる由に聞き及んでおります。

 さらに三重県遺族会においては、来る九月五日護国神社において遺族会の主催をもつて慰霊祭を実施することに相成つております。

 その他地区の遺族会においても、それぞれ何かと記念の行事が執り行なわれることかと存じます。

 かかる数々の行事が執り行われますことは、英霊の加護により遺族が次第に安定の境地に導かれつつあることと、一般国民がみ霊の偉業を偲ぶ心が如実に現れたものと思いまして、護国の森に神鎮りますご英霊もさぞかしお悦びのことと欣悦に堪えない次第でございます。

 終戦二十周年に際し、遺族の皆様方には益々おからだをおいとい下さいまして、ご家族の弥栄とご多幸を切に祈念して明るい日本の建設の為に、ご尽力を賜り益々ご自重あらんことをお願い申上げます。

(昭和40年4月30日発行 第3号)


『ご挨拶』

 厚生政務次官

 徳永 正利

 

 歳月の流れ去るのは早いもので、本年は終戦二十周年を迎えることになりましたが、今この二十年を顧る時、御遺族皆様の胸中にはさまざな思い出が去来することと存じます。一家の主柱を戦場に失い、生きる気力さえ失わんとしながら、焦土と化し、或は荒廃した国土に血のにじむ汗を流し、苛酷な生活苦と斗いながら新生日本建設に営々と努力をされて来られた、そのお姿を思い浮べる時、感慨、又一入のものがあります。

 私も終戦直後から今日迄御遺族皆様と御英霊の御心を体し、懸命の努力を続けてまいりましたが、思うことのみ多くして、そのためしたることの少かつた微力をお詫び申し上げなければなりません。にもかかわらず御遺族皆様の処遇問題は皆様方のたゆまざる御努力と国会にあつては、斎藤昇先生をはじめ諸先生の御協力により年と共に改善を見ておりますことは御同慶にたえません。

 特に、昨年は政府主催による全国戦没者追悼式典が、靖国神社境内において、過ぐる大戦において祖国の繁栄と安泰とを念じつゝ一命を国に捧げられた御英霊の御前にて、天皇、皇后両陛下をお迎し厳粛の内にも盛大に挙行せられ、私は厚生政務次官としてその開式の辞を述べましたことは御英霊と御遺族皆様の御引廻しによるものと肝銘深いものがありました。

 靖国神社の国家護持、護国神社の各公共団体による護持等、御英霊の顕彰、遺族処遇問題の解決に決意を新たにし、政治生命を懸けて努力を払う所存で御座います。

 最后に、重ねて護国の鬼と化された諸霊の遺徳を偲び、御遺族皆様の御多幸をお祈り致します。

(昭和40年4月30日発行 第3号)


『明治百年にして憶ふ』

 皇学館大学助教授

 荒川 久寿男

 

  一

 明治時代は国を興す心が、無名の人々にまでさかんにみちあふれた時代であつた。たとへば明治元年春、官軍が東海道を下つて江戸を攻めるや、先鋒の九州大村藩兵は、参謀西郷隆盛の命をうけ、一気に箱館を占領すべく進軍した。隊長渡辺清は兵を二手に分け、一隊をひきいて深夜箱根の山へ登つたところ、あとから残りの一隊がついてきたので、なぜ命令を無視して来たかと叱ると、我等は郷里を出るとき死なばもろともと誓つた。それを半分だけ死なせてたまるかと爽やかな返答であつた。国のため死も甘しとする心が、かように無名の兵士にまでみちわたつていたからこそ、王政復古、明治維新の大業は奇跡的速さで実現したのである。

 この心は日露戦争にも流れた。当時奥大将の第二軍にあつた石光真清少佐は、氷雪のざん壕から夜になると兵士が出て物かげに膝を折り兩手をついて遥か東方に頭を垂れるすがたを記している。東方の親を思ひ国を思ひ、劔をとつて死を軽しとする心、それが世界の大国ロシヤを打ち破つた明治の心であつた。これをよく看破したラフカデイオ・ハーンが、開戦と同時に大方の外人とはちがつて日本の勝利を予言したのはさすがであつた。

  二

 この心は大東亜戦争にも流れた。たとへば昭和十九年十一月二十八日、回天特攻隊の一員としてウルシー基地を急襲して散華した今西太一少尉(当時)の遺書をみよ。

 お父様

 フミちゃん

 太一は本日、回天特別攻撃隊菊水隊の一員として出撃します。日本男子と生まれ、これに過ぐる光栄はありません。私達はただ今日の日本が、この私達の突撃を必要としているということを知つているのみであります。(中略)

 フミちゃん(中略)、お父様のことよろしくお願い致します。私は心配のかけっ放しで、このまま征きます。その埋合せはお頼み致します。他人が何と言え、お父様は世界一の人であり、お母様も日本一立派な母でありました。その名を恥かしめない、日本の母になつて下さい(中略)。フミちゃん、お父様、泣いて下さいますな。太一はこんなにも幸福に、その死所を得て行つたのでありますから、そしてやがてお母様と一緒になれる喜びを胸に秘めながら。

 回天特別攻撃隊菊水隊今西太一、唯今出撃致します。

(回天顕彰会発行「回天」より)

 思うにこれは満州事変以来大東亜戦争に至る、すべての英霊のこころでもあつた。

 

  三

 しかるに今西少尉(当時)の遺書に注目すべき一節がある。それは出撃前、最後の帰省がゆるされたとき

 坂本竜馬、中岡慎太郎、木戸孝允と先輩諸兄の墓に詣で、ひそかにその志に触れたく思つたのでありました。

としるすところである。ああ大東亜戦争における若き殉国の心は、実は幕末維新の殉国の志士の心と固く結びあつていたのである。すなはち明治以来、おのが命をも国のためにはかへりみざる興国、護国、殉国の心は、たとへ名もなき人の胸奥においてさえ、維新殉国の士の心とふかく相通つていたのである。してみれば明治の心は、実は明治以前の心とふかくつながつているのであり、明治百年を思うことは、同時に明治以前までつみ重ねられてきた日本歴史全体の心を思うことにほかならない。すなわち明治を生み出した日本歴史の精神を思うことにほかならない。

 しかるに今日、戦後の弊風はかがやかしい明治興国のあとを否定し、更には祖国の歴史を呪ひ、父祖の心をさげすみ、明治以来の戦争はすべて侵略邪悪の戦争と曲解し、護国の英霊をむしろあわれむ風潮を生んだ。これは祖国の歴史を正当に理解するみちでないのみならず、むしろ歴史との断絶を示すものである。この弊風が各方面に拡大するにつれ、児童生徒は「天皇はあくま」とののしり、伊勢神宮の御祭神が何であるかを知らず、かような青少年が長じて大学生となれば、白昼公然と角材を振り上げ、祖国破壊の革命運動に暴走するのである。殉国の英霊はこれを何と見ることであろう。

 かつてラフカデイオ・ハーンはふかく日本人の心を洞察して、日本の強味は在天の英霊がなほ生きて国家を構成しているところにあるとした。父祖と現代人の心のつながり、歴史の連続を説いたのである。今日明治百年を思うことはこの歴史の連続を若き人々に回復させ、護国の英霊の心を復活することを第一の急務としなければならないであらう。

(昭和43年3月15日発行 第5号)


『遺族の皆様へ』

 三重県遺族会会長

 参議院議員 斎藤 昇

 

 護国神社のおまつりが、年と共に盛になつて参りますことは、我等遺族にとつても、大変悦しいことでございます。殊に遺族でないお方のお詣りが多くなりますことは、御祭神の御遺徳を讃えられ、感謝の気持を現される方々の多くなつてきた証拠で、お国を護り、我等同胞を守るために命を捧げられた我等の肉親を神としてあがめる気風が一般に起つてきたことであつて、御祭神もお喜びでありましようが、又国家の為にも慶賀すべきことと存じます。

 今年は、丁度明治維新から百年目になります。明治百年にちなんだ行事が数多く催されることでしよう。そしてこの百年の間に日本が世界の一流国にのし上つた原因をよくよくふりかえつて考え、これからの日本の発展に備えなければならぬことと思います。戦後日本の経済力が世界を驚かす程に伸びて来ましたが、それだけに日本の責任も増してきました。国民の生活水準も高まつてきましたが、それだけに今後の国際貿易にむづかしい点が出てきました。世界の自由主義陣営と共産主義陣営も果して共存を続けて行けるかどうか、難しいことになつてきました。明治百年に当る今年からは更に日本の再出発の基礎がためをやり直さなければならぬことになつてきたように思います。

 明治百年を省みて日本の歩みを思いますと、日本の発展と繁栄の原因はいろいろありますが、其の中でも「一たん緩急あれば義勇公に奉じる」国民の気概と、其の為に命を捧げられた靖国のみたま、護国の英霊の御遺徳を思はなければなりません。これこそは明治百年を支えてきた原動力でありましよう。これを思えば更に一層靖国神社や護国神社のお祈りを盛んにし、御遺徳をけんしょうして、国を護る国民の気風を今にして再び呼び戻さなければならぬと思います。それには又遺族に対する国の処遇も尚一段と手厚くして貰うと同時に我等も英霊の遺徳を汚さないように一段とはげみましよう。

(昭和43年3月15日発行 第5号)


『平和に思う』

 三重県知事

 田中 覚

 

 「一〇年ひと昔」と申しますが、想えばあの激烈をきわめた戦争も終戦後二二年を経た今日では、ふた昔も前の過去の悪夢と過ぎ去りました。しかし、忘れようとしても忘れることのできないのは異郷の山野に散華した人々であります。このように幾多の尊い犠牲の上に築かれた平和、毎日私達がかみしめている安らかな生活はいかなることがあっても私達の手でいつまでも守り抜かなければなりません。

 海ゆかば水つくかばね、山ゆかば草むすかばねとなつて、祖国の護神となられた方々、終戦後の混乱期をよく堪え抜かれた御遺族の皆様方のなみなみならぬ御心労を想うとき私達は二度とこのような悲惨な戦争をしてはならないと心に誓うのであります。

 今やわが国は政治、経済、文化その他各般に亘り戦前をしのぐめざましい進展を遂げ、興隆の一途をたどっており県勢も明るく豊かな郷土建設を目指し、中進県から先進県へと躍進をしております。これと並行して考えなければならないのは御遺族の援護の充実、福祉の増進等戦争犠牲者に対する処遇の問題を一層充実させることであります。

 幸い政府においても御遺族の処遇については年々改善せられていることは既に御承知のとおりであり、県においてもこれに順応した施策を一層強化充実したいと存じております。

 本年は時あだかも明治維新の大業をなしとげてから一〇〇年目にあたりますが、この一世紀を振り返るとき、わが国が近代国家に脱皮する過程において実に波乱にみちた時代でありましたが、今次大戦終了後今日までこのように長く平和が続いたことはなかつたのでありまして、この事実を御遺族の皆様と共にお喜び申し上げ、永遠にこの平和が続くことを希つてやみません。

 終りに御遺族皆様の御多幸と御発展を心からお祈り申し上げます。

(昭和43年3月15日発行 第5号)


『祭神の志は守らねばならない』

 皇学館大学学長

 高原 美忠

 

 私は函館にいたことがある。当時函館八幡宮の宮司をし、函館護国神社の宮司を兼務していて、五稜郭の戦に戦死した人々の記録を刊行したことがある。その当時幕軍の戦死者については官軍に疑われることを恐れて、誰も近よらなかつたに、義侠の士が、死んだら敵も味方もないといつて進んであつく葬つた美談を聞いた。同じ日本の国民であるという大親近感もさることながら、恩讐を越えた考え方が我々の祖先にあり、その祖先の血は我々にも流れている。

 先日テレビでこんな話があつたと云つて、私の家族が録音して聞かしてくれたのであるが、若い人が英霊という言葉を知らず、靖国神社の御祭神をも知らぬ人が多いのを知つて何とも云えぬ悲しさを感じた。学校で全然教えていないことを知つて今更ながら学校教育のあり方を考えさせられたが、又一体家庭でもそういう話をしないのであろうか。子弟の教育は学校にまかせただけではならぬ。家庭教育が大切である。

 靖国神社に祭つてある、うちの書生は行状のわるい人であつたが、そんな人まで拝まねばならぬかといつた令息の話を、高名な学者が書いていたのを読んだことがある。その人は民本主義を唱えた人であるが、その学説と平常の考え方の差の甚しいのに私は驚いた。こういう考えは西洋と日本との差を明らか示しているものと思う。我々は常に過誤を犯しているが、又祓によつて清浄を常に求めているものである。それが人間である。日本では神といつても人間であり、我々の父祖である。キリスト教の神とは異る。今日の学問は西洋の学問であり、日本の学問を忘れているところにこの高名な学者の誤がある。靖国神社国家護持の問題についての反対説はこういう根本の問題の理解が欠けている。

 佐々木盛綱は藤戸渡の戦いで先陣をした感状をもらつた。東鑑にあるその感状に河を渡つて敵を破つた話はあるが、海を渡つて勝つた話は始めてだと記してある。その話が後の物語には浅瀬を教えた子を殺して、その子が他人に教えるのを防いだと書いてある。戦陣に於いて勝敗を争うものの方策である。その後太平になつた世の伝説としては、その子が海に落され、水島に漂着して成長し、唐に渡つて名医となり、鎌倉に帰つて開業し、盛綱の娘の病を医して結婚したという話になつている。後になると話に尾鰭がついて色々になるが、仇に報いるに恩を以てするというところに話の成長がある。

 敗戦によつて虚脱状態になつた国民に雪辱の戦をせよというのではない。更らに大きな理想をかかげよというのである。外国では他国に占領せられて国を失つた国民があるが、国土を失つてもその国民精神は堅持している。日本は敗戦後始めて占領政策をうけて虚脱状態になつたが、人として守るべきものを守り、進むべきものを進めねばならぬ。

 それにつけても私は小学校時代に臥薪嘗胆という言葉を教えられた。当時日清戦争終つて三国干渉があり、愛国の精神が漲つた時であつた。そのために日露戦争にも勝ち国運が隆昌したのである。今日の如く国民に愛国心が失はれ、護国の精神がうすれては道義も正義も失はれてゆく。護国神社祭神の志を守らねばならぬ。

(昭和44年3月20日発行 第6号)


 三重県遺族会長

 厚生大臣 斎藤 昇

 

 我国乃為をつくせる人々の

  名もむさし野にとむる玉垣

 

 これは明治天皇が招魂社(明治七年)に御奉納せられました御製であります。

 三重県護国神社に合祀されている戊辰の役から大東亜戦争に至るまでの祭神の数は五万九千柱であります。この祭神は国家の危急に召に応じて身命を捧げ国難に殉ぜられた尊い犠牲者であります。この尊い犠牲者をお祀りしてある靖国神社が未だに国家護持の運びとならないことは甚だ残念にて申訳なく存じております。

 顧みれば明治維新はヨーロッパに起つた産業革命を契機として勃興した国々が十七世紀の初頭から競つてアジアに進出して植民地を求めたので、我国に対しても内紛を続けていた封建末期の弱体につけこみ勢力を拡大せんとした英・露・米・仏等の列強に対する国家保全の偉業を成し遂げたことであります。また大東亜戦争は惜しくも敗れましたが、植民地として苦しめられていたアジア民族解放の救世主として立派な大きな役割を果したことは否めない事実であります。

 今や我国は国民の絶ゆみなき努力によりまして工業の発展と文化の興隆の著しさには各国驚異の的となっておりますことは誠に喜ばしいことで英霊も定めしお悦びのことと存じます。

 然しながら最近の世界情勢は決して油断を許さぬものがございます。即ちソ連は地中海に進出し、またゾンド五号の回収を印度洋上にて行ない、昨年はベンガル湾のアンダマン、ニコバルの二島を手に入れるなど着々と足場の完成を進めております。

 石油の九〇%を輸入に依存しておる我国との関係について思いをめぐらして見ますと、私共に強い衝撃を与えるものは「革命はアジアにおいて決する」と言ったレーニンの言葉であります。

 現在の日本をとりまく環境と現実は世界的な経済的変動や軍事的恐怖の均衡の禍中に存在しております。朝鮮半島の三十八度線における執拗なまでの挑発行為は我国にとっても対岸の火事視するにはあまりにも身近かになっております。また広大な大陸からの思想的圧力により全く危機に直面しておると言わなければなりません。

 この時にあたり、私共は英霊の心を心として連綿たる日本人の精神を覚醒させ、紛争を生むイディオロギーは本来肌に合わないものであることを認識すべきであります。

(昭和44年3月20日発行 第6号)


『残されたもののつとめ』

 三重県知事

 田中 覚

 

 私どもの周囲には、いま物質的にはかつて考えも及ばなかつた豊饒と文明に満ちあふれています。日本の国民総生産はアメリカに次いで自由諸国では第二位の地位を占め、わが郷土三重県の発展も目をみはるものがあります。

 しかし、この繁栄に対して、私どもの精神的側面が著しく遅れており、私どもが父祖から受けついで発展させるべき遺産がはなはだしくそこなわれていることについて、むしろ膚寒い感を受けるのであります。

 私どもが現在享受している平和と繁栄は、ひとえに私どもの父祖先輩が残していつた礎の上に築かれていることを、ともすると忘れがちであります。とりわけ、日本が明治維新以来多くの戦いの中でえた教訓、すなわち、人間の尊さ、平和の尊さ、そしてふたたび戦火を交えてはならないという戒めを護国神社に額くとき、あるいは、ご遺族のみなさんにお目にかかるとき、さらに強く体感するのであります。

 いま、三重県護国神社には、これらの戦いでなくなられた私どもの肉親、知人、郷友が静かに眠つておられます。人生の半ばで戦場に、あるいは病床に倒れたかたがたの胸中を思うとき、また、残されたご遺族のかたがたの筆舌につくせないご悲嘆とご苦労を思うとき、私は襟を正さずにはいられないのであります。これら国柱となられた英霊に支えられて”今日の私たちがある””今日の日本がある”ということを国民ひとしく肝に銘ずべきでありましよう。

 私ども残されたもののつとめは、この英霊に応うるべく祖国の平和と繁栄の達成に、さらに全力を尽すことでなければなりません。私も微力ながら、ご遺族の心を心とし、この任務を果たすため、できうる限りの努力をつづけてまいりたいと誓つております。

 護国神社のご英霊が安んじて眠られんこと、ご遺族のみなさんのご健康とご多幸を心からお祈りして、ごあいさつといたします。

(昭和44年3月20日発行 第6号)


『ご祭神の心を偲びて』

 神宮大宮司

 徳川 宗敬

 

 お国をまもり、私ども同胞をまもるために、いのちをささげられた護国の神々をおろがみまつる次第であります。み国の不滅をかたく信じて、異境の山野に散華された護国の神々のみ心は忘れようとしても忘れることができないのであります。

 もはや戦後ではないということばがいわれ、戦のあつた日は遠い昔のことと考えられています。わが国はいまや政治・経済などの部門において、めざましい発展をとげ、興隆の一途をたどり、世界の驚きとなつているような経済成長をなしとげ、世界の多くの国々の中においても最も安定し、世界一流の偉大な国になつたのであります。

 しかし、以前には考えも及ばなかつた物質的経済的な成長と繁栄をきたしたものの、精神的な面が著しくおくれ、堕落と頽廃をまねいたのであります。はるかな時代の父祖の時代から、うけついできて、将来いよいよ発展させてゆかなければならない精神のことにおいて、はなはだおくれていることについては寒心にたえないものがあります。すなわち戦後二十数年をへた今日なお、国民の思想は安定せず、伝統を軽んじ、国民精神の衰頽をきたしておるのであります。いまこそ、自らの国を愛し、自らの国をまもる国民の気風をふるいおこし、国民精神を振起せなければならないときに際会していると存ずる次第であります。

 私どもがいまうけている平和と繁栄は、私どもの父祖がきづいた礎のうえにきずかれているということを、ともすれば忘れがちであります。

 靖国のみたま、護国のお社にお鎮まりになるご祭神のご遺徳をしのび、またのこされたご遺族の方々の筆舌につくせないご苦労をおもうとき、これに答うるためには、祖国の平安と繁栄と、国民精神の振興を祈りたいのであります。

 護国神社にお鎮まりになるご英霊が安んじておしづまりになり、ご遺族のみなさまがいよいよご健康でご多幸であらんことを心からお祈りいたしまして、ご挨拶といたします。

(昭和45年3月20日発行 第7号)


『七〇年代を迎えて』

 三重県遺族会長

 参議院議員 

 斎藤 昇

 

 七〇年代という言葉が昨今の合い言葉になりました。今年は西暦一九七〇年に当り、即ち七十年代の最初の年ですから、この年代の始めに来る可き十年はどんなことになるのか、又どんな社会にしたらいいのか、皆で考えて、平和な、仕合せな、繁栄えの道へ進もうではないかという国民全体の願望が、七十年代という合い言葉になつたと思います。しかし十年前の一九六〇年には六十年代という言葉がこんなにいわれなかつたのに、七十年代がなに故にこんなに云はれるのでしようか。それは過去十年間の日本の繁栄があまりにもすばらしかつたし、科学技術の進歩も又すばらしかつた、そして其の反面、繁栄に取り残された人々、科学技術の進歩に伴ういろいろの弊害の問題が起つている。これ等を克服しながら更に繁栄えの道を進み度いという国民の願いが結集して来たからだと思います。それに加えて沖縄の本土復帰、日米安保条約の自動継続――これによつて日本の国際的地位が高まり、世界平和を理解するための責任も加はつて来た。こういう世界状勢の中で平和と繁栄をつづけて行かねばならぬ洵に重大な年代だということになると思います。

 私は厚生大臣を拝命したとき、又先般退任したとき、靖国神社に参拝して護国の英霊に御報告申上げ、今日の平和と繁栄は英霊の御遺徳に基づくものであることを心から感謝致した次第でした。それとともに又遺族の処遇の問題も、靖国神社の国家護持の問題も心に深く英霊の前で其の解決への努力を誓つた次第でした。大臣在職中充分な成果を挙げられなかつたことをお詫び致しますと共にこれから党にに帰つて更に努力を続ける覚悟でございます。

 御遺族の皆様方も益々御自愛下され、英霊に御安堵願えるよう御過し下さい。

(昭和45年3月20日発行 第7号)


『平和と繁栄の影に』

 三重県知事

 田中 覚

 

 日本民族の悲劇とも申すべき、あの激烈をきわめた戦争も痛ましい終戦を迎え、戦後の混乱疲弊した世相は国民生活を極度の窮迫に陥しいれたのでありますが、戦後二十五年の歳月を経た今日、国民あげての努力が実を結び、今や国民総生産は世界第二位といはれ、経済、産業、また文化などの分野で、めざましい発展を遂げています。

 しかし、私共が現在享受している平和と繁栄は、ひとえに身命を祖国のため捧げられたみ霊の尊い犠牲のうえに培かわれたものであることを、片時も忘れることが出来ないのであります。

 いま、三重県護国神社にお祀りする五九、三三二柱の祭神は、明治戊辰の役以来戦火の中に身を挺し、祖国の不滅を信じ国難に殉ぜられ、護国の神となられた方々であり、わたくしどもの追憶は、いまなお新しく胸痛む思いがするのでありまして、ご祭神が祖国に捧げられた愛国の至情に対して衷心より感謝申し上げる次第であります。

 また、残されたそのご遺族の筆舌につくせぬご悲嘆とご心労を思うとき、再びこのような悲惨な戦争をしてはならないと心に誓うのであります。

 私どもは今後さらに平和と繁栄に全力を尽すことはもとより、御英霊の顕彰とご遺族の皆々様の援護に対しては、出来得る限りの御援助御協力をいたさなければならないと存ずるものであります。

 とりわけ靖国神社国家護持の実現、ご遺族の援護の充実、福祉の増進等戦争犠牲者に対する問題については、一層の充実が叫ばれているのでありますが、県といたしましてもご遺族の心を体し、これに順応した施策を一層強化充実し実現に邁進したい所存であります。

 最後に重ねて護国の犠牲となられた諸霊の遺徳を偲びご遺族皆様のご多幸をお祈りいたします。

(昭和45年3月20日発行 第7号)


『三重護国』に寄せて

 神宮大宮司

 徳川 宗敬

 

 わが国は今や輝やかしい発展をなしとげ、世をあげて経済繁栄をうたっていますが、その反面、国の大本をわすれ、日本の歴史と伝統をすててかえりみない人々が少なくないのであります。

 国および国民が姿勢を正して、国家道義の根幹をなおすことが、目下の急務であると存ずる次第であります。

 この意味におきまして、祖国日本の礎となり、尊い生命を国のためにささげた英霊の心を体し、わが国の真の平和と繁栄を守りぬくため、日本人としての心をとりもどすため、靖国神社の問題を解決していただかなければならないと存ずる次第であります。

 神宮におきましては、きたる昭和四十八年に御斎行の第六十回神宮式年遷宮につきまして、天皇陛下の尊い御思召を体して、昭和四十一年に財団法人伊勢神宮奉賛会が発足し、全国都道府県に地区本部が結成せられ、全国の皆々様から、真心あふれる御奉賛をいただいておりますことは感謝に堪えない次第であります。

 畏くも、天皇皇后両陛下におかせられましては、式年遷宮の御事につき、とりわけ深甚なる大御心をはらわせられ、昭和四十一年以来、毎年遷宮の資として御内帑金を御下賜あらせられ、昨年も十月十九日、皇居に参内いたし、宮内長官を通じて拝受いたしました。両陛下には昭和四十八年の遷宮の年まで、つづいて毎年御下賜あらせられるとの御事にて、洵に恐懼感激にたえない次第でございます。

 地元伊勢市・二見町・御薗村など旧神領の皆さまには御家族をあげて、また全国各地から多数の篤信の方が御参加になり、御木曳行事をにぎにぎしく御奉仕いただきましたが、新宮御敷地に敷きまつる御白石奉納についても、伝統にもとづき、はやくから奉仕団ごとに宮川の清き河原から老若男女こぞって、お白石をひろいあつめられ、昨年十月五日には「お白石奉献団総連合会」が結成され、奉仕態勢が熱誠裡にかためられつつありますことは、まことに感激にたえないところでございます。

 遷宮の諸準備もおかげをもちまして順調にすすめられ、御遷宮の御儀もいよいよ目前にせまってまいりました折から、全国の皆さまと相携え、赤心を結集して、きたる昭和四十八年にはこの御儀が御滞りなく御斎行相成り、大御心を安んじまつることが、出来ますよう祈念申し上げますとともに、御遺族の皆さまにもいよいよ御多幸であらんことをお祈り申し上げます。

(昭和46年3月20日発行 第8号)


『御挨拶』

 衆議院議員

 藤波 孝生

 

 『私はお父さんを知りません。私がお母さんのお腹の中に居た時、お父さんは出征したのです。そのお父さんは白木の箱に入って帰って来たのでした………。私が結婚する時、お母さんに、「お母さん、長い間有難うございました。お母さんも、再婚して人生の喜びを求めて下さい」と頼みましたが、母は頑として受付けませんでした』。

 これは、私の耳にこびりついて離れない。「英霊にこたえる国民集会」の際の日本遺族会青年部の西野昌子さんが話した言葉です。会場であるサンケイホールを埋めつくした参加者皆んなが泣きました。出るだけの涙をしぼりつくして、心の中で靖国神社の方向に向って掌を合せ、ひたすらに護国の英霊のご冥福をお祈りいたしたのであります。そして、長年ありとあらゆる苦労をなめつくし、あの人が生きていたら、あの子が生きていたらと、そればかりを思いつづけてこられた遺族の皆様方に深々と頭を下げたのでありました。

 この世に人間の行為として尊ばるべきことは沢山あります。しかし、自らの生命を捧げて国家や民族を守るために散華するという事実以上のものはありません。古今東西を通じて最も尊い方々であります。私は昨年、自民党から派遣されてフイリッピン、マレーシア、北ボルネオ、タイなどの国々をめぐり、特に日本海外協力隊の現地視察と激励という特殊な任務を帯びておりました関係で、ジャングルの奥深く訪ねたのでありましたが、いたる所で日本軍上陸用舟艇の残がいや、トーチカの姿を見るにつけても、戦争の激しさを想像し、どこへ行っても、只、掌を合わせるばかりでありました。

 戦後二十五年、日本は経済大国に成長して参りましたが、本当に大国になったのかどうか、大国にふさわしい条件を備えたかどうかを検討する時期に来ております。少くとも、靖国神社の今日迄のお姿を思うにつけ、大国とか小国とか議論するだにおかしい。国家にとって最も大事なことを未だしていないのだから、日本は国家ではないとさえ申上げたいのであります。今日の日本の平和と繁栄は、靖国のお社に眠る二百数十万英霊のお蔭である。その英霊を国の手で公にまつることは、当然中の当然の理であろう。

 一月二十二日、第六十五通常国会の劈頭に靖国神社法案を提出、成立が各方面から強く要求せられている。林神社本庁事務総長の御指導を仰ぎつつ神道界と政治のパイプ役を果している私共の神道政治連盟国会議員懇談会に於てもいち早く総会を開き、靖国神社法案の国会通過の強い決意を固めた次第であります。心から御遺族の皆様方の御労苦にお慰めの言葉を申上げますと共に、靖国神社法案成立に向って邁進することをお誓い致して、御挨拶といたします。

(昭和46年3月20日発行 第8号)


『戦後25年に思う』

 三重県知事

 田中 覚

 

 明治維新の大業をなしとげてより百星霜、第二次世界大戦の終結を迎えてから、すでに四分の一世紀を経て参りましたが、わが国にとって、この一世紀はまことに波乱万丈の時代でありました。

 国家の存亡をかけた、さきの大戦は、敗戦というわが国にとって未曽有の事態をもたらしたのでありますが、戦後二十五年にして今日の飛躍的な国運の隆昌を見るにいたりました。ことに経済の発展は、目ざましく国民総生産では、世界第二位となり、諸外国の驚異の的となっております。また文化、科学、技術、教育、社会福祉等各分野においても先進国を凌ぐ向上を続けております。

 これら発展の原動力は、日本国民の祖国愛であり、勤勉と努力の結果であることは申すまでもありませんが、国の礎として身命を国のために捧げられた、数多くの戦没者ならびに国事に殉じられた方々の尊い犠牲のあった事を忘れることは出来ません。

 今ここに改めて、在天の英霊に対し、全県民と共に心から崇敬の意を表する次第であります。

 近年における県勢の発展は、地域の開発、産業の振興、県民の所得上昇など各種の分野において目ざましいものがありますが、反面社会開発の遅れが目立っている現状であります。わたくしは、明るく豊かな住みよい郷土三重を目指し、県民生活優先の原則に立って、地道にしかも勇断をもって県政推進にあたり、激動する一九七〇年代を県民福祉向上の世代とし、世紀の伊勢湾時代の建設に邁進いたしたい所存であります。

 こういった情勢のなかにあって、戦争の暗い印象は、いまや過去の苦しい思い出として歴史の一頁に綴られておりますが、前途有為の身命を国家社会にささげられた、御霊や、御遺族の方々に対しては、その多年の御苦労に報いるために援護体制の強化を図らなければならないと存じます。

 とりわけ最近、遺族等戦争犠牲者に対する処遇問題の充実等が強く叫ばれていますが、県といたしましても、御遺族の心を体し、これが実現のため、市町村とも協力し、努力いたしたい所存であります。

 最後に護国の礎となられた、諸霊の遺徳を偲び哀悼の誠を捧げ、御遺族の方々の御多幸を祈念いたします。

(昭和46年3月20日発行 第8号)


『遺族会館の竣工に際して』

 三重県遺族会 

 会長 田村 元

 

 皆様と共に、待望久しかった遺族会館が、こゝに姿をあらわし七月二十日には落城披露が行われました。この喜びは、会員の皆様方の御協力のほどは言うに及ばず、三重県の関係者各位や、護国神社の御厚意と御協力を、いただいた結果と衷心より厚く御礼申し上げます。

 永年の願いが、終戦三十周年という記念すべき年に成就いたしましたのも、御英霊の格別の思召によるものと感無量であります。

 これからは、会員団結の象徴でありますこの白堊の殿堂に、力強い生命力を与へ、精気溢れる会館とするため、多数の方々の御利用をお待ち申し上げます。特に遺族の方々には、生きがいのある生活環境をつくるための勉強の場として、又遺族会青年部の諸氏は勿論のこと、広く各界青年の方々にも、英霊は何を念じ、望んでおられるか、篤と研修を重ねられその崇高な精神を顕彰していただくセンターとして、充分活用せられる事を希ふものであります。と共に、会館は私達の家であります。護国神社へ御参拝のときの参集所として御使いいたゞくのは勿論、お互の憩いと親睦の場として、お気軽に利用せられ、明日への活力を養っていたゞくのも甚だ結構なことと存じます。

 会館が常時遺族の方々によって賑い、談笑が神域に満ち溢れるときは、社に鎮座し給ふ英霊も、そのすこやかさを照覧され安堵される事でありませう。斯様な日の一日も早く到来するよう、今後も一層一致団結して靖国神社の国家護持の早期実現と、日本民族の為の眞の平和国家建設へ向って、励し合い努力いたしませう。

(昭和50年10月1日発行 特集号)


『終戦三十周年に想う』

 三重県知事

 田川 亮三

 

 さきの大戦は、その戦域の広さ、戦闘の苛烈さ、戦没者をはじめ犠牲者の数において過去の戦史に例をみない大きな戦いでありました。

 日本が国運を賭して戦ったこの戦争も、敗戦という冷厳な事実をもって終焉を告げたのであります。そしてはやくも三十年の歳月が過ぎ去りました。戦争がもたらした数々の惨禍については今更申し上げるまでもありませんが、かけがえのない幾多の尊い人命と国土財貨を失ない物心両面にはかり知れない損失を被ったことは、いまもなお消し難い記憶として残っております。戦いに敗れた我が国が敗戦の混乱から立ち上り目ざましい復興をとげ今や文化国家として、国際平和に大きく寄与しておりますことは誠にご同慶に存じます。

 しかしながら、現在私たちが享受しているこの平和と繁栄が、幾多の尊い犠牲のうえに培われたものでありますことに深く感謝し、ご遺族のご苦労に甚深の敬意を表します。

 本県におきましても、県民各位のたゆまないご努力と県政に対するご協力によりまして豊かな福祉社会の建設に向って、順調に発展を続けております。

 ことに、昨年は国家的行事でもある第三十回 国民体育大会が開催され質素ながらも成功裡に終了することができましたうえに、

天皇皇后両陛下には特別の思召しをもって、護国神社に行幸啓あらせられ、親しくご親拝遊ばされ六万余柱の殉国のみたまをお慰めになり、幣帛料を御奉納賜わりましたことは、洵に恐懼感激の極みでございます。

 当日参列されましたご遺族の方々にも誠に感慨深いものがあったことと存じます。

 護国神社の例祭も年と共に盛んになって参りますことは、ご遺族にとっても大へん悦ばしいことであり、とくに一般の方々のお詣りが増加しつつありますことは、祖国のため尊い犠牲となられました戦没者のご遺徳を讃え、感謝の念を示される方々の多くなってきたあらわれと存じます。

 政府においてもご遺族の方々への施策について、年々改善に努めていることは、既にご承知のとおりであり、県においてもこれに対応した施策の実施に努めてまいりました。

 私は今後とも、ご遺族の心を心として、でき得る限りの努力をつづけてまいりたいと誓っております。

 終りに、ご遺族の皆様のご多幸とご発展を心からお祈り申し上げます。

(昭和51年4月1日発行 第15号)


『みたまに捧ぐ』

 三重県議会議長

 樋口 忠治

 

 ここ三重県護国神社に祀られし、六万余柱の尊霊には、過る大戦において、ひたすら祖国の興隆と同胞の安泰を念じつつ、国のみ楯として散華された方々でありまして、崇高なるご精神といさおしは、本県の歴史に深く刻まれ、県民ひとしく景仰欣慕の念に堪えないところであります。

 星霜ここに三拾余年今や我が国も世界の有数国に雄飛し世界の平和と繁栄に大きく寄与貢献していると共に国民は福祉国家建設に邁進しているところでありますが、郷土三重の発展も又まことに目覚しく、あのいたましき戦禍の傷痕は年とともに薄れ当時をしのぶすべもなくなりました。こうした我が国の繁栄や郷土の発展もひとえに尊い御霊のおかげのうえに築かれたものでありまして護国の英霊に対する私たちの追憶と哀悼の念は、日をおって深く更に新たなものがあります。

 それにつけても尊霊なきあと、その悲しみにひたる間もなく、あの戦後の混乱期から今日まで、あらゆる苦難にうち勝ち、家をなおし郷土の復興に参画されてこられたご遺族のご労苦に対し、ただただ深い敬意と感謝を表するほかありません。

 このうえは尊霊の意を、心とし、ご遺族に対する福祉充実に私達は、一段とご協力を惜まないものであります。

 いまはただ戦歿者各位のみたまがとこしえに安からんことをまた在天の光として、今後ともわが故郷三重の繁栄と平安をみまもりたまうことを念じて止みません。

 終りにあたりご遺族の皆様のご多幸とご発展を心からお祈り申し上げます。

(昭和51年10月1日 第16号)


『靖国神社公式参拝の実現こそ平和運動の第一歩』

 三重県議会議員

 三重県遺族会副会長

 谷 嘉昭

 

 昨年末、三重県議会は、全国で始めて、「靖国神社公式参拝を求める意見書」を可決しました。この経過につきましては、既に、多くの全国紙が、大きく紙面をさいて報道しましたので、既に充分ご承知頂いていることゝ存じます。

 この意見書の可決を強く推進しました県議会議員の一人としまして、早朝より傍聴席を埋めつくされました県下の遺族会の皆様、さらに関係諸団体の皆様に対し、この紙上をかり、厚くお礼申上げます。

 私は、その際、自民党を代表して、賛成意見を述べる機会を与えられました。共産党、社会党の反対演説は、全く型式的で、あいもかわらぬ憲法論議に終始し、日本人の健全な常識からは、全く理解することが出来ないものでした。

 靖国神社への公式参拝が、軍国主義につながるなど、彼たちは本気で考えているのでしようか。私の賛成意見も、必ずしも、十分意を尽くしたものではありませんでしたが、靖国神社の公式参拝の実現こそ、平和運動の原点であると日頃、皆様方と話し合っていることを、一段と声高く訴えさせて頂きました。

 この三重県議会の意見書の可決が全国に報道されるや、各地の県議会から問い合わせがあいつぎ、その反きょうの大きいのに、私自身驚いている程です。

 この私共の投げかけた一石が、大きな波紋となって、全国の地方議会の可決を推進し、やがては国会を動かす力となるよう、今後も、そのなりゆきを見守っていきたいと存じます。

 これからは、地方議会の意見が国会を動かすという一つの機運になれば、日本の民主主義にとっても、大きな成果といえると思います。今後とも、ご協力の程をお願い申上げます。

(昭和54年4月1日発行 第21号)


『献身の勇士』

 皇学館大学長 

 田中 卓

 

 戦後の学校教育では、占領軍の命令で、”道徳”(修身)が廃止になりましたが、やがて平和条約が結ばれ、独立をとりもどした昭和三十三年から、やっと”道徳教育”が復活しました。つまり敗戦後の十三年間は、日本の学校教育に”道徳”は失われていたわけです。国家にとっても、国民にとっても、本当に不幸な時代であったといわなければなりません。

 その後、小学校・中学校で”道徳”の時間が特設され、道徳教育が進められてきたわけでありますが、この日本の”道徳”のなかに諸外国の”道徳”とくらべて、大きな欠落のあることに、皆さん、気づいておられましょうか。それは、”献身”ということです。

 大切な理想、偉大な目的のために身を捧げる、つまり”献身”の道徳が、日本の国では敬遠、いやタブー(禁句)となっているのです。今の教育では、生命の尊重が第一に説かれていますが、それはややもすると、命あっての物種、というような利己的な考え方を助長しています。そして”献身”というような思想は、まるで民主主義の敵、逆コースのように思われているのです。しかし果して、そうでしょうか。

 「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉で有名なリンカーンの演説の、結びのところを紹介しましょう。

 「われわれの前に残されている大事業(注。奴隷解放ということ)に、ここで身を捧げるべきは、むしろわれわれ自身であります――それは、これらの名誉の戦死者が最後の全力を尽して身命を捧げた、偉大な主義に対して、彼らの後をうけ継いで、われわれが一層の献身を決意するため、これら戦死者の死をむだに終らしめないように、われらがここに堅く決心をするため、またこの国家をして、神のもとに、新しく自由の誕生をなさしめるため、そして人民の、人民による、人民のための、政治を地上から絶滅させないため、であります。」(岩波文庫『リンカーン演説集』一四九ページ)

 これはペンシルヴェニア州のゲティスバーグにある固有墓地での慰霊祭に臨んでの演説であります。「偉大な主義」――奴隷解放という理想のために戦い、そして亡くなった「名誉の戦死者」の徳をたたえ、その人々に感謝し、戦死者の死をむだに終らしめないように、われら自身が「彼らの後をうけ継いで、一層の献身を決意せよ」と説いているのであります。”献身”こそは、偉大な主義・理想を実現するための原動力にほかなりません。

 さて、皆さんの父祖、夫子・兄弟にあたられる英霊も、日本の国家のため”身を捧げて戦われた名誉の戦死者”であります。世間の一部には、太平洋戦争は日本の侵略戦争で、戦死者は犬死であったなどという愚にもつかぬことをいうものがあります。

 その誤りの第一は、日本は「大東亜戦争」を戦ったのであり、「太平洋戦争」の名は、占領軍の弾圧(神道指令)によって戦後に改変されたものであることです。第二は、大東亜戦争は、アジア諸国の植民地からの独立と、共存共栄を願って立ち上った日本の正義の戦いであったのに、敗戦の結果、戦勝国が武力を背景に、一方的に日本を悪者扱いにしただけのことです。そのことは、欧米の、この三、四百年来のアジア侵略史をみれば、明らかな事実です。

 そして現に、大東亜戦争の後に、アジアに植民地からの独立運動が湧きおこり、その影響でアフリカにも独立国が陸続として生まれ、いまや世界の国の数は三倍になったのです。そして日本も、いまや五指にかぞえられる先進国の一に発展しました。”身を殺して仁を為す”という言葉がありますが、日本は敗戦の悲劇の名からよみがえり、世界から植民地を解放したのです。そして英霊の方々は、この世界史的大事業に身を捧げられた名誉ある勇士なのです。

(昭和55年7月1日発行 第25号)


『万灯みたま祭に思う』

 万灯みたま祭協賛会長

 北村 宰爾

 

 護国神社の年間最大の重儀の一つである春季慰霊大祭が終って神域の葉桜が色を増す頃になると、町の人々の間に、また学童仲間でも夏の万灯みたま祭のことが話題にのぼるのであるが、その頃には既に神社当局では手慣れた段取りで準備業務が始まっているのである。社務所は初夏のおとずれとともに日を追うて繁忙を加えていくのである。

 今から十年前に「式年みたま祭」の協賛行事として、民間有志の積極的な発意によって創められた「万灯みたま祭」が、このように神社の一大行事として定着したことは、ご神威の然らしむるところであることは当然ながら、英霊に対する庶民の自然発生的な感謝と祈りの心の現われに他ならないと思われる。

 近時、靖國神社の国家護持とか公式参拝等について兎角の意見が出されているが、神前に額づく人達の敬虔な姿を、またその祈りの心を軍国主義の復活とか軍事思想の高揚に結び付けること自体に矛盾があるとしか考えられないのであって、そこには純粋素朴な人間としての只管な感謝と祈りの心があるのみである。

 私の関係する経済団体である商工会議所では、去る昭和五十三年の秋に、その総元締めである日本商工会議所会頭の提唱によって、全国四百七十余の商工会議所が結集して、わが国商工会議所制度創設満百年の記念行事を東京都において盛大に挙行したのであるが、皇太子殿下・同妃殿下をお迎えしての厳粛な式典のほか、産業経済に関する展覧会、講演会、シンポジュウムなどの協賛行事が都内各地で開催された中で、最も異彩を放ったのが秋晴れの下に代々木の国立競技場に 天皇陛下の行幸を仰いで繰り展げられた一大絵巻物とも云うべき「全国郷土祭」の行事であった。では、経済の発展を使命とする団体が何故に「お祭り行事」にこれだけのウエイトをかけたのかということである。

 古来、原始の時代から、人間が過ぎ去った一ヶ年の無事を喜び感謝するとともに、今後の一年もまた自らの生命の糧である作物の豊穣を神に祈る心、即ち産業の原点である農業の振興祈願が「祭」であることに思いを致すとき、過去百年の産業発展の歴史を回顧し、更に未来への進展を誓う商工会議所の記念行事として最も相応しいものと考えたからである。

 性別・年令・職業の別なく老若男女が、社会的地位も、権力のかけらも、分別臭さも無い人間本来の姿に立ち返って、神前に感謝と祈りを捧げてから、星空の下で万灯のひかりを浴びながら神賑行事を楽しみ、あるいは踊りの輪に加わって禧々として夜の更くるのも忘れている情景こそは、清純無垢な神の世界に近い姿であり、そこには何の企みも、偽善も争いも無いことを思うとき、「祭」こそは現代社会が希求している心豊かな人間形成と、連帯感の醸成につながるものと云って過言ではないと思う。

 最近、「地方の時代」という言葉が、あらゆる場で強調され、「地方文化の見直しと向上」が叫ばれている中で、文化と云えば高度な芸術や芸能を論ずることが優先されるのが常であるが、日常の繁忙から解放されて、心洗われる神域において、お祭りや盆踊りに興ずることも庶民のための郷土色豊かな地方文化の一つとして見直されるべき行事ではなかろうか。

 「三重県の護国神社の神域は他県のそれと比較して狭隘ではないのか、もっともっと提灯を張り巡らせる場所が欲しいなあ!」という声が、最早やこれ以上の数は無理ではないかと思われる程までに、境内一杯に張り巡らされた今年の万灯を仰ぐ人達の間で交されていた言葉であった。(津商工会議所 専務理事)

(昭和55年10月1日発行 第26号)


『遺族の願い』

 浜地 文平

 

 大東亜戦には私の長男も召集されてインパール作戦に従軍し、戦況不利になって後退する途中、敵弾に股を貫通され其の場で自決、屍を印度の奥にさらしたのであった。戦争勃発当時、召集をうけて出征する時は萬歳歓呼の声に見送られて景気よく家を立ち出たものであったが、戦況はだんだん吾方に不利となり、敗戦の色濃くなると銃後の人々も物資の欠乏などで戦死者のことにもかかわっている餘裕も無くなって、出征兵士の家庭に対しても冷淡になっていった。私は長男の遺骨だというて白い布で包んだ小さな箱を県庁から渡され、それを頸にさげて家に帰る途中、ヤミ市で人だかりの中を通ったのであるが、もうこのころには戦没者の遺骨とわかっていても一瞥をくれる程度で冷淡な姿勢である。つまらぬ戦争に行って犬死にした男の遺骨だなと思って見過しているのかとおもって、哀しくおもったことである。家へついてから二、三日して市役所から仏壇へ提灯一つとゞけて呉れただけであった。

 遺族としては別に戦死者の家庭へ対して、國家に特別な待遇を要求するなどはほめたことでないが、私は今遺族扶助料として毎月八万円を國からいただいていて家計は助かっている。ありがたいとおもふ。

 併しここに吾等の最も解し得ぬことは戦後四十年近くにもなった今日、まだ戦没者英霊を祀る靖国神社に総理大臣が参拝するを憲法違反とか何とか屁理屈を言うて反対する國民もあることである。一体どこをたたいてこんな理屈は出るのであろうか。私はこれに対して反論もしたくない。彼の人たちも同じ國民である。愛し親しむべき同胞である。いつかは正常な國民思想に立ちかえってくれるであろう。それを念じて今は戦死者遺族だけでも心を合せ、しっかりと手をつないで英霊を守り抜こうではあるまいか。

 私は神様は吾等の味方であることを信じている。戦没諸兄の御霊は燦然として國中に輝くは近き将来に必ず出現するであろうことを信じて疑はないのである。

(昭和56年7月1日発行 第28号)


『八十年代の県政』

 三重県知事

 田川 亮三

 

 さきの大戦において、祖国の勝利を信じ、平和を念じつつ、数多くの方がたが散華されましてから早くも三十有余年経過しました。その間、わが国経済は目ざましい伸展とげ、今や文化国家として国際平和に大きく寄与しておりますことは誠にご同慶にたえません。

 今日、私たちが享受しているこの平和と繁栄が、いく多の尊い犠牲のうえに培われたものであることに改めて感謝するとともに、ご遺族のご心情ご苦労如何ばかりかと拝察申し上げるところです。また、平和を守りたまうご英霊のご神徳をさらに発揚させるため、ここに三重県護国神社の修理改築等造営事業を計画されました関係者各位のご英断に心から敬意を表します。

 さて私は、三たび県政を担当するにあたり、県政の方向を第一に「活力ある産業構造の確立」、第二に「ゆとりと生きがいのある生活の創造」、第三に「伝統と個性を生かした地域づくり」とする三本柱を掲げ、新しい時代に対応した福祉社会の実現と県土の活性化を促進するため、鋭意関連施策の展開に努めているところです。

 八十年代に入り、地方における活力体制の助長、定住圏の整備などが盛んに論議されるようになりましたが、近時、深刻化しつつある資源・エネルギーの制約、急激な経済変動に伴う財政の硬直化、生活の多様化による行政需要の増大等を背景に、地方行政をとりまく諸情勢は、一段と厳しい局面をむかえております。

 幸い本県経済は、第一次石油危機以降、五年目にして漸く回復基調をとりもどし、県民一人当りの分配所得の大幅な伸びとともに、五十五年度の県財政のうえでも明るい成果をもたらすことができました。

 従来、本県工業生産の七割近くを占める北勢地域における石油化学を主体とした臨海型業種の浮沈が、県経済に大きく影響を与えていたのですが、ここ数年、北勢、中南勢、伊賀地域への内陸型先端産業の芽が次第に伸びつつありますことは、これからの県経済の安定化にとって重要な意義をもつといえましょう。

 このような新しい時代への胎動に対応し、均衡ある地域づくりと県民福祉を基調とした県勢の活性化をめざし、このほど新たに昭和七十年度を目標とする第二次三重県長期総合計画の策定に着手いたしました。この計画は、来年度中には作業を終え、五八年春には確定いたしますが、とくに長期的観点にたって行財政の見直しと方向づけを行うとともに、民間活力や住民の自発的な活動を地域づくりに反映させるよう参酌しながら、個人、社会、企業、行政などそれぞれの役割を明確にしたいと考えております。

 また今日、精神的な側面における豊かさをとりもどすための地方文化への期待も高まってきており、県民待望の県立美術館も来秋オープンいたしますが、さらに地方の個性と特質を生かした各種文化施設の整備をはじめ、民間サークル活動の育成など、県民各層の生きがいとうるおいを充たす行政の文化化についても模索しているところです。

 私は、今後とも県民が誇りと思う郷土づくりに精力を傾注し、県民生活の安定とその充実にむけて邁進する覚悟であります。

 終りに、ご遺族の皆様のご多幸と、ますますのご発展を心からお祈りするとともに、県政推進へのいっそうのご支援、ご協力を賜わりますようお願い申し上げる次第です。

(昭和56年10月1日発行 第29号)


『遺族会創立三十五周年にあたって』

 三重県遺族会事務局長

 谷 嘉昭

 

 護国神社の造営事業がいよいよ本格的に進められます。社頭のしだれ桜もあたかも事業の無事完工を祈るかのように春の陽ざしを受けほころびかけております。県民多数のご英霊に対するこころが御社に集って居ります昨今私達はこの機会に戦争は昔のことと忘れ去られる前に改めて平和の尊さとご英霊にこたえる感謝の念を更に広くその輪をひろめなければなりません。時あたかも同じくして本年は三重県遺族会創立三十五周年を迎えます。戦後のあの混乱の中で県下の戦没遺族の団結により三重県遺族互助連盟として結成され爾来三十五年ご英霊のご遺志を高く掲げてその父母が妻が子が肉親を国に捧げた遺族であるとを誇りとして一家の再建と平和国家の再興に励んでまいりました。その歩んだ県下の遺族はもとより全国の戦後の我が国の精神的支柱となり繁栄への荷った役割は大なるものがあります。又その力は自らを守るためにも援護法の創設恩給の復活そして年々その改善を実現し会員一人一人の福祉の増進にも努め一方では婦人部青年部の結成等組織を強化して目的の貫徹に邁進してまいりました。しかしこの永年の願望にもかゝわらず靖国神社の国家護持は未だ実現されず公式参拝の実現すら進展をみておりません。三十五年の長期にわたるこの運動は常にその運動の先頭に立ち熱心な活動を続けられた数ある父母の立場の皆様が一人去り二人去り多くの方々が亡くなって行かれました。先立った我が子の心情を思いせめて国の手で靖国神社を護持してほしいと願って終始一貫強い運動を続けられたこの父母の切ない願いが果されない決断のない政治が残念でなりません。

 靖国神社問題に反対する人達が靖国への道は軍国主義への道だと言われますが不認識もはなはだしく平和を一番願い平和でなければと真先に叫びたいのは靖国に眠られるご英霊の皆様ではないでしょうか。三十五年をふりかえり名実共に英霊にこたえられる国づくり社会づくりを今こそ実現致そうではありませんか。そして世界の永遠の平和を祈ってやみません。創立三十五年にあたり決意も新たにして初心の貫徹に邁進致しましょう。

(昭和57年4月1日発行 第30号)


 三重県知事 田川 亮三

 

 さきの大戦において、祖国の勝利を信じ、平和を念じつつ、数多くの方々が雄々しく散華されましてから、早くも三十有余年が経過しました。

 その間わが国は、経済に文化にめざましい発展をとげ、今や世界でも有数の経済大国と評されておりますが、今日私達が享受しております平和と繁栄は、いく多の尊い犠牲のうえに培われたものであることを忘れてはなりません。改めて深く感謝と追悼の誠を捧げるものであります。また、愛する肉親を失われました御遺族の皆様の悲しみと今日までの御労苦に対し、心から御同情申し上げる次第であります。

 さて、昭和五十六年十月に、平和を守りたまう御英霊の御神徳をさらに発揚し、祭祀を永遠に続けるため、関係各位の御尽力により、三重県護国神社の修理改築等御造営事業が開始されましてから一年六か月の歳月を経て、ここに立派に御本殿以下社殿の修復をはじめ、参集所、社務所の新築及び境内の整備等をめでたく竣功され、三重県護国神社の風格を高揚し、落着きと荘厳を加えられましたことは心からお喜び申し上げます。

 このたびの御造営につきましては、県下の御遺族をはじめ、各界の絶大なる奉賛による造営献金が奉納され、実現の運びとなったとの事を聞き及び、さぞかし、御英霊には、こうした尊い御奉仕の心に、御満足のことと拝察申し上げる次第であります。このたびの大事業がこうして多くの方々の奉賛と奉仕のもとに全うされましたことは、人々の平和への願いと御英霊に対する感謝の顕れであると存じます。

 ところで、英霊顕彰事業につきましては、国におきましても、昨年閣議において、毎年八月十五日を「戦没者を追悼し、平和を祈念する日」とし、この日に全国戦没者追悼式を挙行することと決定するとともに、かねてから実施しております外地戦跡巡拝及び遺骨収集等を強化することとしておりますが、県といたしましても、これらの事業の円滑なる遂行に努め、今後とも英霊顕彰事業の充実を図ってゆく所存であります。

 終りに、三重県護国神社に鎮まります御英霊の加護のもと、御遺族はもとより、県民の皆様の御多幸と御発展をお祈りするとともに、県政推進へのいっそうの御支援御協力を賜りますようお願い申し上げ、お祝いの言葉といたします。

(昭和58年3月22日発行 第33号)


 財団法人三重県遺族会

 会長 田村 元

 

 護国の礎となられた御英霊をお祀りする三重県護国神社の本殿以下諸殿舎は、戦災復興として昭和三十二年再建されましてより尓来二十六年を経過いたし、今日では御社殿をはじめ参集所、社務所等随所に相当な補修を要する状態に至りました。今後の祭祀を思ふとき、早急な対策が必要とされ神社において検討が進められ、御造営事業が発意されました。私共もこの事業に奉賛申し上げましたところ、御遺族の熱意あふれる御賛同と、戦友の方をはじめ、心ある県民多数の方々の御協賛を賜り御造営資金も順調に献納せられ、工事も神宮営繕部の御熱心な御指導と建設関係者の懸命の御努力により所期のとおり完工し、本日ここに奉祝祭を皆様とともに迎えられますことは、非常な喜びでございます。これも御英霊の御加護と御遺徳によるものと深く感謝申し上げる次第であります。

 改装なった御社殿はじめ一新なった参集所、社務所等を拝見いたしますに、六万余の御英霊の鎮まりますに、ふさわしい御社のたゝずまいとなりました。今後とも益々日本の安泰と、郷土の繁栄のため一身を捧げて、護り給うた御英霊の御遺徳を一層顕彰し御遺志を後世に伝へ、戦争のない平和な社会の建設に邁進し、御志の具現につとめ御霊を御慰め申し上げねばならないと存じます。

 今一度、御造営事業によせられました多数の方々の御協力に衷心より感謝を申し上げお祝のことばといたします。

(昭和58年3月22日発行 第33号)


『万灯悠久』

 万灯みたま祭協賛会長

 北村 宰爾

 

 三重県護国神社が全国の護国神社に先がけて、毎年の重儀である「式年みたま祭」に新しく「みあかし」による慰霊を行うための「万灯みたま祭」を併せて齋行するようになってから早くも今年で第十四回目を迎えることになり、今では神社の大きな年中行事の一つとして、また県下で他に見られない夏の風物詩として定着するに至り、ご遺族をはじめ多くの崇敬者や子供達の大きな楽しみになっている。

 このお祭が全県下のご遺族から寄せられた奉納の提灯を中心に、各界の名士、各種団体、有力企業、あるいは崇敬厚き個人の心の篭った献灯によって英霊をお慰め申しあげることが本旨であることは申すまでもないが、そのほか境内一杯に張りめぐらされた万灯の下で三日三晩に亘って賑かに奉納される各種の神賑行事についても多くの方々の積極的な奉仕によって年々新しい趣向が凝らされていることも特記すべきことである。

 今では初回の三倍余の数にものぼる五千余灯の提灯が境内狭しとばかりに立体化された掲揚施設に整然と取り付けられて、天の川を中心とした降る如き星のきらめく夏の夜空高く、社殿をかこむ亭々たる大樹の緑に映える美しさは、誠に英霊の在わします神の国も斯くやと思うばかりの荘厳さと清々しさに心洗われる気持ちであり、ご祭神も嘸かしご満足いただいていることと拝察申し上げるのであるが、このお祭が年々献灯の増加と多様な神賑行事によって年を追うて盛大になって行くことは元よりご神徳の然らしむところとは云え、その陰には宇治土公宮司をはじめとする神社ご当局の並々ならぬご苦心・ご尽力と、更には諸般の準備設営に奉仕していただく有志の方々の非常なお力添えがあるのである。

 兎もあれ、老若男女を問わず全ての人々がすっかり裃をはずして、万灯の光を浴みながら、相集い相語りつつ夜の更くるのも忘れて祭を楽しむ和気藹々たる姿は、他で見られない貴重な風景と云わねばならない。近時若い人達の神社への関心が離れがちであるが、このお祭には若い男女の参拝、行事への参加が多く見られ、しかも境内においては非行などは皆無である。地方の時代と云われる昨今、こうした催事こそ地方文化の要と申すべきではなかろうか。

 祖国の弥栄を念じ乍ら護国の神となられた英霊をお祀りし、感謝を捧げる全国民の心情がいつの世に至るも変ることの無いのと同様に、みたま祭の万灯も悠久であることを確信し、この灯を永遠に私どもの子孫に引き継いで行かねばならないと思うのであります。

 特に本年は社殿の修復改装、参集殿などの新築整備が立派に竣工を見た記念すべき年であることからも、従来に増しての多くの皆さん方のご協賛をお願い申上げる次第です。

(昭和58年7月1日発行 第35号)


『天幕奉仕の思い出』

 三重県軍恩連盟

 会長 井田 繁一

 

 三重県護国神社では、終戦後早くから、春季慰霊祭及秋季慰霊祭等に多勢参拝される遺族・崇敬者・戦友のため大天幕二棟(約八百人収容)を張り、祭典の威容を高めると共に、雨風や日射に備えてきました。

 斯様な大規模天幕の設営は、近隣府県護国神社では殆んど見かけない光景であります。

 併し、昭和四十七年以前は、構造が簡単でありまして、少し強い雨風にも耐えられず、前日建てた天幕が、祭礼当日の朝来て見ると倒れていることがしばしばでありました。天幕奉仕責任者として口惜さに大地を叩いたことも度々ありました。

 遂に、神社側では、この惨状を無くするため、昭和四十八年、万国博のパビリオン型(風速二十米に耐える)天幕を採用することにし、県内財界の寄贈を仰いだのであります。お陰をもって、新天幕に切り換えて十年間一回の倒壊も事故もなく今日に至っていることは大変有難いことで、全くご祭神のご加護によるものと拝します。

 それにつけても、この奉仕には、多人数(約二十五名)の体力ある経験者を要しますので、従軍中厳しい訓練を受けた軍恩連盟会員や各種戦友会員等が一隊となり、雨風を物ともせず、十年間続けて参りました。その間、ご神殿の中からご祭神が、「お前等よう来てくれた。ご苦労さん。」と語りかけて下さるような気がして、実に清々しい思いに浸って直会を頂いたことでありました。

 ところが、この老兵たちも、平均年齢今や、七十歳に垂んとし、体調も重作業に耐えられないので、神主さんと相談し、クレーン車を導入し、人力は青壮年遺児にバトンタッチしてやって頂くことになりました。そして、その新方式試験作業が今年四月六日に行われ、見事成功しましたので、神社側も老兵奉仕者も安堵の胸を撫で下ろしました。

 どうか今後末永く、この方式で天幕作業が無事故で、和気藹々の裡に続きますよう願って止みません。

(昭和59年7月1日発行 第38号)


『護国の英霊を憶う』

 皇学館大学教授

 神社本庁中央研修所講師

 鎌田 純一

 

 毎年七月十四日になると、昭和二十年のその日のことを想い起す。その年四月ころより、北海道近海より日本海方面にまで出没し始めた敵潜水艦を掃蕩すべき任をうけたわが五十三駆逐隊は、その方面を馳せ廻り水中探信儀で敵を探しては爆雷戦をくりかえしていた。しかし、そのころ、沖縄方面よりわが国土を攻撃しつつ北上していた敵大機動部隊より発した敵艦載機郡が、その七月十四日未明に北海道方面を空襲、それを電探で早くキャッチしたが、洋上にいるわが艦は勿論逃れる術もなく、対空戦闘用意をした、やがて東天の白むとともに、航行中のわが艦は敵に発見され、数十機より猛烈な攻撃をうけ、僚艦は轟沈、わが艦は艦尾をすっとばされて大破、沈没は免れたものの、舵、推進機をなくし航行不能、敵はそれでわが艦もまもなく沈没するものとみたのか引き上げて行った。その時の戦闘、航海士である私は艦橋にいたが、彼我の攻撃の烈しさ、爆弾・機銃弾がとび交い、目の前で通信士が倒れたと思ったら、大腿部から烈しい出血、左舷見張員がひっくりかえったとみたら、顔面が忽ち土色になって行く。敵が去って後部甲板がまくれ上り、傾斜した艦、電源故障でもまだ戦闘能力はある。生き残ったものを新たに配置すべく、砲術士も重傷のため、私が甲板を駆け廻ったが、あちこちに戦死者、戦傷者が横たわり、海面にすっとばされている負傷者もいて、正に修羅場であった。それ以前の戦闘でも戦死者を出したが、この時の戦闘で一番多く三十数名の戦死者を出した。その戦死者のことを想い起し、御遺族のことを思うのである。私どもは決して軍国主義でもなければ、侵略者でもない。ただ東洋平和のため、護国のため戦ったのである。童顔の志願兵もその戦死者のなかにいた。

 この戦死者、護国の英霊を国民全体で、いや国家でまつり、慰霊のことをすること当然のことであり、その英霊の精神は高くたたえられなければならない。それであるのに、いまわが国ではと戦友戦沈者に対して本当に申しわけなく思うのである。昨年靖国神社の例大祭に首相が参拝された。しかし、その方法、態度、そこに大きな問題があったし、またそれに対して他国より批判があったからとてあと態度を改めるが如き、断じて許さるべきことではない。

 昨年オーストラリア、シドニーへ学会のため行ったが、そのシドニーの町なかに、戦死者をまつる碑があり、そこにいくつもの花輪が捧げられていたし、また中央の公園内に大きな戦没者慰霊堂があった。勿論公共の建造物である。何もここだけのことではない。カナダでも、アメリカでも、イギリスでも、外国の町をあるくごとに、忠霊塔、慰霊塔が必ずあり、そこに花輪の捧げられているのをみる。ロンドンのあの国王の戴冠式が行われる教会堂を訪れたとき、その教会堂内の最も聖なる場近くに戦死者名簿が安置というより、まつられていたし、またその教会堂内の高い所に旗がずらっと並べられていたので、それについて修道尼に尋ねたら、これは大英帝国のために勇敢に戦った連隊の戦死者の英誉を象徴する旗であると答え、この方々により英国の今日があるのです。またこのような旗はさらに増えていくことでしようと誇らしげに答えてくれた。

 諸外国に比べて、何故わが国の英霊だけが、現在のごとき仕打ちをうけられねばならぬのか。それを軍国主義等と結びつけるのは、ためにするにも甚だしいこと、靖国、護国の英霊こそが、真の国家の平和、世界の平和を願い守って下さるのではなかろうか。「国のためたふれしひとの魂をしもつねなぐさめよあかるく生きて」と天皇陛下は「遺族のうへを思ひて」詠ませられたが、御遺族方だけでなく、国民全体がこの大御心をいただいて、英霊をおなぐさめすべく行動しなければ人間としての道にもとるのである。

(昭和61年7月1日発行 第44号)


『三重県護国神社と私』

 責任役員 宇野 誠一

 

 ここに掲載した一葉の写真は、昭和二十五年だったか二十六年だったか、終戦後漸くにして決行することになった第三回目の戦歿者慰霊祭を、当時町村会長だった不肖私が祭主として祭文を捧げている写真です。

 当時は勿論アメリカの軍政下でかなり強い政教分離の通達下での地方行政であったので、戦歿軍人の慰霊祭執行に付ても当時の青木県政は、強く逡巡して居り、とても県全体のもとでなど望むべくもない事態でした。

 併し乍ら、現実に多数の生々しい遺族を擁し、もろもろの住民感情と直結して居る町村サイドでは荏苒これ以上日を借するわけには行かないとの判断で、多少の問題は覚悟の上で三重県町村会で(未だ市長会の結成はなかった)一切の御世話経費は御面倒見ましょうと踏んぎった次第でした。

 隨って今の祭主者を知事・市長・町村長と廻りもちの型は当時の微妙な配慮の結果です。

 私はこの写真の発文中で、日本の𠮷田総理でも外国の無名戦士の墓へ花輪を捧げる国際儀礼をして居るではないかと、今にして思へば蛇足であるが慰霊祭など日本国民として当然の仕儀に過ぎないとの文言を入れたものでした。

 かくして英霊慰霊は緒についた次第でした。その後の護国神社のおもり、県下遺族会の育成処遇改善運動などに付ては各郡町会局長の諸君が、特に津に近い一志の青木君、飯多の広瀬君、芸濃の山下君などが当時の林宮司さんの下で全く献身的努力をして下さったことは高く評価されなければならないと思って居ります。現在責任役員は市長会・町村会の局長さんにお願いして居るのはまさにこの名残りであります。

 この写真にある一本の慰霊塔が県下遺族会の結集下で今日の護国神社の偉容を整えることを得て、春秋慰霊祭が厳修されて居る現状と思い合わせ誠に感慨深い次第です。

 そして私が護国神社の責任役員として御奉仕して居ることも、不思議な御縁とも存じて居る次第です。

  元 三雲村村長

  元 三重県町村会会長

(昭和62年7月1日発行 第47号)


『協賛会長就任にあたって』

 万灯みたま祭協賛会長

 北野 薫

 

 春季慰霊大祭も終って木々の緑もその色を増し早くも初夏の季節がやってまいりました。

 皆様には益々ご健勝にてお過しの事と衷心よりお慶び申上げます。さて、昭和六十三年度万灯みたま祭打合せ会におきまして北村宰爾前会長の辞任により後任として不肖私が万灯みたま祭協賛会長の重責を担う事になりました。ご承知の通り北村前会長はその人格識見共に卓越された方であり浅学非才の私など遠く及ぶ所ではありませんが皆様方の格別なご指導ご鞭撻によりこの重責を果してまいりたいと存じますのでよろしくお願い申上げます。

 我が国は戦後の廃墟から四十有余年たった今、世界の誰もが予想しなかった驚異の大発展を遂げ、経済大国と言われるまでに成長してまいりましたが、勿論それは国民の叡知、勤勉、努力と厳しい国際状況の中にあって政治の舵取りを間違えなかった結果だと思います。しかしそれ以上に日本の将来の弥栄を念じて若くして祖国のために散華された多くのみたまの犠牲の上に築かれた事も決して忘れられない事であります。

 式年みたま祭に併行される万灯みたま祭はご遺族や崇敬者方のご協力と宇治土公宮司をはじめとする神社当局、北村前会長、更には諸般の準備設営にご奉仕して頂く有志の方々のご尽力により年々盛大となり、本年は第十九回を数えるのでありますが、夏の夜空を彩る万灯のみあかしの盆踊りをはじめとする各種の催事は夏の風物詩として定着し、ともすれば、神社への関心がうすれ勝ちの若人や子供達の姿も年毎にふえ時には外国の方の参加を見るまでになったのでございます。

 又、本神社におかれては、来る昭和六十四年は

一、表忠社として創祀されてより一二〇年

一、三重県護国神社と改称されてから五〇年

一、万灯みたま祭斎行二〇年

というそれぞれ記念すべき節目の年に当たるそうであります。

 現在、全県下のご遺族、崇敬者、各界の名士、各種団体、有力企業等から献納されたみあかしは六〇〇〇を超えるそうでありますが、この機会にゆたかで明るい平和な日々に謝し、万灯の名にふさわしく、今にも増して多くのみあかしが、奉納され、県民すべての行事として斎行される時、神々のご守護により恒久平和が確立されるものと信じ、広く県民の皆様にお願い申上げる次第でございます。

(昭和63年7月1日発行 第50号)


『英霊にこたえる会

 全国役員大会に参加して』

 英霊にこたえる会三重県本部

 本部長 山松 真一

 

 去る四月二十七日東京九段会館の中央本部に三重県代表として出席致しまして、特に印象を深く致して帰りました事を少し記述申上げたいと存じます。大会委員長井本氏は齢ひ既に九十才を越えて居られますが、熱血の魂の様な方で声はかすれ乍らも大声を張り上げ熱意を込めた御挨拶を参加者に致されました。大会行事終了後に講師として御招きした次の略歴の青い眼の外国人が現在の日本をどの様に見て居るかと言う事を演題から私は興味を持ちました。

 演題は 日本文化の危機

 講師の名は クリストファーWスピルマン先生

 生まれは、ポーランドで後イギリスに帰化してロンドン大学日本学科卒業後米国エール大学歴史学部博士課程に入学、目下東京大学法学部政治科に研究生として留学中、仲々鋭い眼で批判されました。少し声が小さく聞き取り難い処もありましたが、会場は寂として立派な日本語で漢語も交え御話をされる講師に注目しました。其一言一句は我々日本人は恥かしく到底聞くに絶えぬ思いでありました。其開口一番は、日本に来て驚きました事は、私が勉強して憧れた日本とは全く違った日本人の心でありました。総てが物と金で解決されて居る浅ましさでありました。此一句は肺腑を突きさしました。恐らく私だけではなかったと思います。日本人は道徳を弁える心やさしい謙譲の美徳を持った世界に稀な人格の人々だと思って来ました。君に忠、親には孝養を尽くし祖先を尊ぶ立派な人々と私は、ロンドン大学で四ヶ年間日本の歴史に教えられました。信仰の的であった昔の神社仏閣は、観光客の見世物と化し只形骸を留どむるのみ信仰を失い今、将に日本の文化は危機に瀕して居ると思います。心の文化からも遠ざかって行く様に思えます。日本の武士道精神も勉強して私は知って居ります。遠い昔の夢語りの様に冷えて行った様です。彼は、此外にも建武の中興や、近世では三百年の徳川幕府、明治維新にも触れ多くの感銘を我々に与えました。長くなりますので此辺で筆を止める事に致します。

(平成元年7月1日発行 第53号)


『御大礼

 ―即位式と大嘗祭―』

 皇學館大學教授 渡辺 寛

 

 先日の韓国大統領来日のさいの議論には、考えさせられることが多かった。日本の政府や政治家がいかに千言万語、言葉を尽して釈明しようとも、日本国および日本国民を文字通り象徴する御存在が天皇であると認識するからこそ、韓国は天皇のお言葉を欲したのであろう。

 日本国憲法の規定の解釈がどうであれ、日本を代表する御存在は天皇であると外国はみているのである。あらためて、日本および日本国民にとって天皇とはいかなる御存在であるかを深く考えさせられた。

 今年は、新しい御代の始まりを象徴する今上陛下御大礼の諸儀が斎行される。政府の即位の礼準備委員会の発表によれば、来る十一月十二日に「即位の礼」、十一月二十三日には「大嘗祭」、続いて「大饗」、神宮および諸山陵への「親謁」が予定されている。

 昨年正月七日、昭和天皇崩御の直後、剱璽等皇位のみしるしを受けられ践祚あそばされた今上陛下は、大喪の御儀を次々と御斎行されると共に、一年間の喪に服しておられたが、今年正月二十三日、宮中の賢所に即位礼および大嘗祭の期日を奉告あそばされ、続いて皇霊殿・神宮・諸山陵へも期日を奉告になり、二月八日には悠紀主基の両地方も亀卜によって定められた。御大礼はすでに始まっている。

 即位礼は、天皇即位を内外に宣明せられると共に、内外の代表がその即位をことほぐ儀式である。厳粛な儀式と、その後に続く奉祝行事の数々に、私共は、新しい御代のはじまりを実感するであろう。

 大嘗祭は、天皇が即位の後、はじめて斎行される新嘗祭である。毎年の新嘗祭と異り、大嘗宮が造営され悠紀主基の斎田でつくられた新穀が御饌として奉られる。

 稲作・お米、それは遠く弥生時代以来、日本人の生の営みの根源であった。我々の父祖は、春にはその豊作を祈願し、秋には恵みの収穫に感謝の念を捧げてきた。春の祭り、秋の祭り、年毎の祈願と感謝、名称は種々あろうとも、日本の祭りの基本形はここに存する。

 毎年の新穀は、まず伊勢の神宮に奉られる。十月の神嘗祭がそれである。そして十一月二十三日、宮中では陛下御自ら新穀を神に捧げられ、また神と共に召される。毎年のこの祭りを通じて、神も人も、その生命を更新するのである。神宮の神嘗祭や宮中の新嘗祭は、日本人のこころと祈りを象徴し代表する祭りに他ならない。

 二十年に一度、社殿も装束神宝も新しく造替する神宮式年遷宮は、いはば大神嘗祭であり、天皇即位の年の一代一度のあらたまっての新嘗祭が大嘗祭である。この国土と国民の代表たる御地位の御確認の祭りと拝される。そしてその祭りには、悠紀主基斎田の奉仕などこの国の民との絆は深い。

 即位礼・大嘗祭と続く御大典の諸儀、それは、それを通じて私共日本人の過去と現在を確かめ、また未来を展望する儀式でもある。ポストモダン(工業社会)の到来、国際化の時代が喧伝されている。ハイテク技術の進展はとどまるところを知らない。我々をとりまく生活環境は大きく変化しつつある。それだけに、我々は、よりよき未来を展望するためにも過去をしっかとふまえねばならない。他をよりよく知るためにも自らを知らねばならないのであろう。

 我々がどこへ行くべきかは我々がどこからきたかが教えてくれるであろう。今年の秋はそのことをしっかと確認する秋となろう。

(平成2年7月1日発行 第56号)


『日本人と宗教感』

 三重県郷友連盟会長

 倉田 文治

 

 昭和六十年八月十五日、御遺族方を始め多くの国民が切望していた靖国神社公式参拝が実現し、時の内閣総理大臣である中曽根康弘氏が、靖国神社の神前に深々と頭を垂れました。これについてお隣りの中国でも、韓国でも、ソ連でも、また日本の一部のマスコミも軍国主義の復活だと激しく騒わぎたて、これを批判しました。

 この問題は、もともと中国や韓国・ソ連の社会と、日本人の社会の中での国民の宗教感が違うからであり、お互いの国民性を心から理解しようとする気持ちが無ければ議論しても、致し方ない事であろうかと思います。

 私ども日本人社会では、亡くなられた人はみな神さんや仏さんになってもらい、必ずお弔いやお祭りをしています。亡くなった方の御霊に対し感謝の心を表し、死者に対して「批判はしない」「鞭を打たない」という温かい心をもっているからでありましょう。

 ところがソ連でも、中国でも、韓国でもそうはいきません。辞めても、死んでも、批判し、鞭を打つ。現にソ連では、かっての国家元首で強大な権力を誇ったスターリンや、フルシチョフや、ブレジネフでさえも、三人とも死んだ後は批判されて、広場にあった銅像を撤去してしまっています。中国においても同じ様な事が起こっています。

 これはおよそ、中国やソ連には、日本人の宗教感のように、死者の御霊に対して「たたえる心」や「尊ぶ心」という温かさがないからでありましょうし、そのような宗教感の相違を理解しようとしない限り、真の友好はありえないと思います。

 またこのようなすばらしい宗教感を持つ日本人の心を、いつまでも大切に守ってゆかなければならないと思います。

  津自動車学校社長

  元 三重県議会議長

  三重県教育県民会議会長

(平成3年7月1日発行 第59号)