宮中三殿について

 

 

神社で行われる祭祀は、宮中での祭祀に範をとっているものが多くあります。宮中での祭祀は、主に宮中三殿において斎行されています。宮中三殿とは、皇居内に鎮座の賢所、皇霊殿、神殿の総称です。以下にその詳細について記します。

 

 

■賢所

皇祖天照大御神一柱が奉斎されています。

伊勢の神宮では皇大神宮御祭神を記すに、天照坐皇大御神と記すことを正式としていますが、宮中ではその記し方をとくに規定してこなかったとみられます。

宮中に賢所が鎮座されることは「日本書記」にみられるいわゆる同床共殿の神勅により明らかです。天孫降臨に当って、日向三代のあと大和に遷られての神武天皇の橿原奠都以降も同床共殿で奉斎されてきましたが、世の乱れととみに、神威をおそれて同床共殿でなく豊鍬入姫命に託けて笠縫邑に祭られました。そのとき、改めて斎部氏に命じて、石凝姥神の子孫、天目一箇神の子孫に鏡、劍を鋳造らしめ、その鏡を宮中で奉斎されたのが、現在に連なる賢所です。

 

 

■皇霊殿

神武天皇はじめ、天皇、皇后、皇妃、皇親の御霊が奉斎されています。

明治4年8月8日神祇官を改めて神祇省とし、これを太政官の被官とされたあと、9月14日の仰せ出されにより、9月30日神祇省神殿より歴代天皇の皇霊を宮中賢所へ相殿の形で奉遷されました。これが宮中での皇霊奉斎の嚆矢です。

このあと、明治10年1月3日元始祭の日に、歴代天皇とともに歴代の皇后、后妃、皇親の大霊を合祀されました。

 

 

■神殿

天神地祇八百万神が奉斎されています。

宮中に神祇をまつることをされたのは、古くからのこととみられ、延喜式にも「宮中神三十六座」と記されています。しかし、中世以降皇室の式微ととに奉斎されなくなり、神祇官僚家白川家、吉田家などで、その三十六座の初めに掲げられた御巫の祭る神八座、すなわち神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、御食津神、事代主神の八神のみを私的に奉斎していました。

 

明治2年6月28日、明治天皇は国是の確立を天御祖大御神はじめ天神地祇八百万神に、また神武天皇はじめ孝明天皇にいたる歴代天皇の大神霊に奉告のため、御神祭の名称で神祇官に霊代を設け招き祭らしめられ、天皇が御拝されました。

そのあと、同2年7月8日官制を決定し、新たに神祇、太政二官を置き、神祇官を太政官の上に班せしめました。その神祇官に神殿を設けることとして10月に着工、12月10日にその仮神殿竣工のあと、12月17日に、その中央の座に八神を、東の座に天神地祇を、西の座に御歴代皇霊を奉斎、鎮座祭を斎行しました。

そして、明治3年1月3日神祇官に八神、天神地祇、御歴代皇霊を鎮祭し給う勅を発せられました。しかし、翌明治4年8月8日、神祇官を廃し、神祇省を置き、これを太政官の被官とされました。

 

明治5年3月14日、神祇省を廃して教部省を置くこととなり、3月18日その神祇省神殿に奉斎していた八神ならびに天神地祇を宮中に遷し、仮に賢所拝殿に奉安せしめ給う旨が仰せ出されました。4月2日八神ならびに天神地祇及び、京都より奉遷の八神、皇霊を御羽車に移し、賢所拝殿に奉遷しました。

そのあと、明治5年11月27日、八神、天神地祇両座を合祀して一座として、神殿と改称されました。

  


■国やすかれ民やすかれ