宇治土公宮司挨拶文集

- 過去の社報から -

 


『御英霊の御心のままに』

 

 護国の神神の御神徳輝きまして御社頭賑々しく、御遺族の皆さまの日毎の御清祥を心からおよろこび申し上げます。

 御英霊のみ心と御事蹟とは純固として純なる誠意そのものであります。

 そのことは我国最大の戦火の中で青春を燃焼させた私どもとしては、何の疑いも説明も無しに、そのまま深く理解が出来ます。

 郷土のためお国のためという考え方は、頑冥なセクトにとらわれたものでは決してなくて、世界の未来のためという、全人類につながりを持つ尊い思考でありました。

 ひとりの利益ばかりを追求して見ても、結局は個人の利益すら生れては参りません。広く社会の横のつながりと伝統に根ざす縦の結びつきがあってはじめて本ものが生れて来ます。

 自分の生命ばかりが大切で、他人のいのちの尊さすら識ろうとしない昨今の風潮をおもうとき、今こそ民族の道統に立って、新らしいコミュニティづくりが押し進められなければなりません。

 手をとり合い、お互いの世の中をお互いの誠意の誠意の結びつきによって守り育てていくべき人の世に、その最高の姿として、一旦緩急あれば君国のため一死以て義勇公に報ずるところまで曻華されるべきものと思います。

 然しながらこの理解は戦中派たる私どもひとりの理解にとどめてはならぬと思います。現今の世相なればこそ一層に昂揚されるべきでございましょう。

 その意味で県下八百十四神社の中でも、現代的な重大な意義をもって御英霊を奉祀する護国神社の祭祀については、神社関係者が特別に奉仕し来たった所であり、将来一層強化されなければなりません。

 護国神社の祭典や県下各地での御英霊の祭典を奉仕するときは元より、平素の奉拝にあたっても大いなる崇敬と緊張とをもって、御神徳の広大にふれさせていただくことでございます。

 御英霊を奉斎することが理解出来ない様な浅薄な西欧的解釈と、誤った政教分離の思想は、今もって靖国神社の正しい国家護持の方向すら推進されずにおりますことを、残念に思います。

 津市を発端とする地鎮祭裁判の問題と相関連して、神社庁は目下最大の社会問題としてこの二つに一心にとり組んでおり、御英霊の御誠意をこころとして一層の努力を誓って参りたいと存じます。

 神光のいやさかと御遺族の御健勝をお祈り申し上げます。

(昭和47年3月25日発行 第9号)

 

解説:この原稿の執筆当時、宇治土公貞幹元宮司は宮司の職になく、三重県神社庁長として寄稿している。本文中に神社庁としての御発言があるのはそのためである。庁長の役職は昭和46年12月に、林栄治元宮司から引き継いだものである。宇治土公元宮司はこの後、昭和47年7月に三重縣護國神社宮司の職に就く。


『輝く御神徳

  永遠に新たな使命』

 

 護国の神神の御神徳は極めて崇高で、五万九千九百七十八柱の御英霊の御神意は純粋そのものの誠意に外なりません。お国のために一身を捧げ若く清らかな生涯を真心を以ってつらぬかれた神心は、単にわが国わが民族のためでなく、世界人類の今日の光明と明日への道を開かれたものであり、その輝きは永遠に続くもの、又そうあらせるべく奉仕して行かねばならぬものと思います。

 わが国の昨今までは心は兎も角として、モノだけはいくらでも有る様な積りで居りましたのに、モノすらが無い世の中になろうとしております。これは全人類の問題であって、これからは本当にお互いが手をとり合い敬い合う真心の人間に生長しなければ生きて行けない時となりました。当然のことであります。今こそ御英霊のみ心をお互いの心と、戴いて行くべきであります。護国の御祭神への心からなる懐旧の真情の敬仰の念を共に、今新たに未来への責任感を持って祭祀を厳重にし御神徳を伸べ広めて行かねばならない時でございます。

 光栄ある宮司を拝命して既に一年半、ひと通りの祭典社務を奉仕出来る様になって見て、御祭神の偉大さは元より、御遺族の御気持、更には御奉仕下さる関係団体の皆様のこと、又一般県民の方々のまごころをあらためて感銘深く識らせられたことでございました。

 それにつけても全国神社界を代表される様な林栄治宮司が帰幽されたこと、永年おつとめ下さりみたま賛歌にお心を表わし残された斉藤昇遺族会長を失い県議会議員引続き町長となられた山下晃責任役員が亡くなられたことをはじめ多くの先輩を失ったことは洵に残念でありました。田村元会長、乾英夫責任役員はじめ新しい方々の御鞭撻を得て懸命の神明奉仕に努めたいと存じます。

 お蔭さまで就任引つぎの際問題となっておりました諸点を役員はじめ多くの関係者の皆様のお力を得て次々と解決し続けさせていただいており、特に先ず大祭の時御遺族の参列される大天幕を三谷役員のお世話で百五銀行、三重交通、岡三証券等各社の御寄附で造らせていただいたこと等は喜びにたえません。

 社務の諸規定を新たに整備し、建物の一部を改良し、授与所に新らしい神品を配置する等致して参りましたが、例大祭やみたままつり等恒例の祭典は元より、広く御神徳を高揚するために、護国の御神徳にふさわしい県民市民の奉賽を受け入れていかねばならぬと思います。慰霊碑建立のことも進んで考慮していかねばなりません。

 境内地確保のことも以前からの申越の重大な命題であります。神社として建物より一層ふさわしく改善拡張していかねばならぬと申し受けており、進み行く時代にさきがけて更に新たな構想を持ち勇気を以って断行して参ることがつとめと思います。

 御神威を体して、御遺族のお心を心とし、奉仕のまことをつくして参ります。特に靖国神社国家護持の精神に通じて、護国のお社は全県民を挙げて奉賛する神社としてゆかねばなりません。幸い職員も一致団結して伝統を正しく保持すると共に常に若若しい意欲に燃えて努めてくれております。

 先日来、全国護国神社会で色色の問題を研究討議して参りました。靖国神社に関わること、山口県護国神社に関わることをはじめ目下の問題は少くありません。あらゆる問題を正視して打勝って参りたいと存じます。

 伊勢の神宮第六十回御遷宮の御事は目出たく斎行され、本年中に別宮の遷御を完了されますことは国民として喜びにたえないことであります。御遷宮に寄せられた陛下の大御心はそのまま靖国護国の御英霊奉賽に寄せられた大御心と謹んで拝察申し上げることが許されると存じます。

 三重国体を明年に迎えようとする新春にあたり、永年願望して参りました最も重大な年として、第一目標を此処に置いて全ての整備充実を計り、永遠に新たな使命を覚るべきときと思います。

 御遺族をはじめ関係諸賢の一層の御健勝と御奮起とを心から祈念申し上げ、努力の誓いを新たに致すものでございます。

(昭和48年12月15日発行 第10号)


『御英霊のみ心を拝し

   健全な世直しを』

 

 護国の神神様にお仕えして二年に近くなろうとしておりますが、崇高な御神徳の下に御遺族の方方をはじめ県民の皆様の熱心な崇敬の輪が日毎に広がって来ておりますことをこの上ない喜びに存じます。

 県下での国体はあと一年を餘すのみとなり、御親拝の栄を待ち望むものであります。これを機会に先づ津商工会議所から神前の桜花が美わしく奉献されたことを始めとして、境内外土地建物の整備をいよいよ計って行かねばならぬ時節となりました。

 それにつけましても事ある毎に御奉仕をして下さる人人、清掃奉仕に掛けつけて下さる様子を拝見しては全く頭の下る思いでございます。

 今年靖国神社から御英霊の遺稿集が発刊されましたことを紹介して、その一文を春の御例祭で拝読させていただきましたところ、一般参列者の方方からも感銘深いお便りをいただき、あらためて感激致しました。

 遺稿集の何の文を拝見しましても誠の心そのままであり、国を思う至情にあふれ、人間味にゆたかでありながらそのまま神に通ずるものであります。

 国を思う心は当然他人を思い家を思い郷土を思い、引いては全世界人類の幸福を希うものであります。

 現在の世の中にあって国を思うということは、或いは人を思い人類を思う心とあたかも相反するような印象があったり、頭からそう考えようとしたりしなければならないのは本当に悲しいことでございます。

 御国のためということがあのづから全て世の中を幸いにつながるみ国造りを強い意志と勇気とを以てなされなければなりません。

 御英霊の神心を拝し、健康で美わしい社会を建て直す努力を続けたいと思います。

(昭和49年5月25日発行 第11号)


『昭和五十年の前進』

 

 戦後正に三十年。その間わが民族の歩んで来た道はきびしいものがありました。表面上の繁栄もここ数年の内に暗雲のかかる昨今であり、国の内外の底流は決して安心の出来る状態ではありません。殊に世の為国の為とは云え、一身を捧げられた御英霊の御遺族の心情は冬空の下いよいよ憶いの深いものがあります。

 然しながら護国の神神の身を以て守りそだてて下さる尊いお陰を以て、昭和五十年を迎えることが出来るようになりました。五十年の元号の続いたことは歴史はじまって以来最も永いもので、今上陛下の御代を謹んでお慶び申し上げるものであります。

 このお目出度い春にあたり、相共に至誠の限りの権化たる御英霊の高徳を一層敬仰してみ光あらしめるべく努めて行かねばならぬと存じます。

 今年は三重国体。待ちに待った陛下の行幸をわが御神前にお迎えさせていただき度いと思います。その為に境内外の整備を進めたいものでございます。そして恒例臨時の祭儀を厳修して全県民を挙げての祭祀を盛んにして参らねばならぬと思います。

 伊勢の神宮の御遷宮を終えられるに当って両陛下が御親拝をなされましたが、この際私共が望んで久しかった剣璽の御動座を復活されたことはよろこびにたえません。

 三種の神器の内、御鏡は賢所に奉祀され、剣と璽とは常に陛下のお側に奉安されると漏れうけたまわっておりますが、日本の有史以来昭和二十一年まで、行幸に際しては必ず御一緒に動座されたものです。従って国難に際し例えば源平の戦の時も南北朝の時代にもこれを以て万世一系のお国柄は保持されて来たものでありました。

 特に三種の神器は智仁勇に例えられ、玉はいつくしみ、みとめ合い、睦み合う心であること、剣は勇気、正しいことを正しいとして敢然として言い行う心であることは意義深いものがあります。

 これこそ御英霊が垂範され指向される道であります。昭和五十年を迎えて一層この事を心に念じ、勇気ある行いの新らしい出発の第一歩としたいと存じます。

(昭和49年12月15日発行 第12号)


『三十年と五十年と

 ―国体を意義深く―』

 

 戦い終って三十年。あらためて深い懐いに打たれる年であります。

 おもえば永い永い年月であり、又或る意味ではまたたく間の時間でもございました。苦難の戦後を生き抜く中で事ある毎に追憶される御英霊の崇高なお姿。御遺族の心情はまことに痛烈なものがありました。

 然も三十年を経ても尚戦後は終らず、夫夫の御家族の上に大きな負担として残っておりますし、今春も亦合祀の御祭神をお迎え申し上げることになります。靖国神社にお参りをいただく表敬法案のせめて先づ成立を強く希望したいものです。

 今年は畏いあたりの思召を得て終戦三十年の臨時大祭を斎行させていただき度いと考えており、秋の慰霊の例大祭に合せて執り行う予定を致しております。更に待望の三重国体にあたり天皇皇后両陛下をわが県にお迎え申し上げ特別重大な臨時大祭を厳重にとり行いたいと熱願致しております。案内にもとづき社頭賑賑しく御参集下さいますようお願い致します。

 これを機会として何うしても参道の石疉の設備をはじめ境内地と御社殿の改修整備を進めなければならぬとして計画を進めておりますので格別の御理解をお願い致したいと存じます。遺族会館も立派に竣工を見ることとなりますことを御同慶の至りに存じます。御参拝に大きな便宜を得ていただけることと思います。

 三重国体については全国の若若しい力を迎えて県民挙げての心からの歓迎をし成功を収めますことを祈ってやみません。同時に国体と云えば国民体育大会とはわかっても、お国柄としての「国体」という言葉すらわからない若い人が少くないことはなげかわしい限りであります。

 日本の国体は国民ひとしく誇りとして良いものであり、日本人が正しい伝統にもとづく国体に対する自覚と責任とを持つことが、民族永遠の眞の平和と繁栄をもたらす基であり、世界の人類と共に手をとり合ってより良い世の中を招来する源であります。

 昭和五十年というこの年は、国史はじまって以来最高最長の陛下御在位の目出度い年であります。この意義深い年に神風の三重の国体と合せて、御英霊の身命を捧げて示し譲られたわが国の国風としての国体を宣揚すべく一層日日の生活を正して参りたいと思うものでございます。

(昭和50年4月1日発行 第13号)


『天皇陛下の御幣帛を賜わり

 ―終戦三十周年記念大祭―』

 

 御英霊の奉賽に意義深い終戦三十年の終戦記念日にあたり、天皇陛下から特に御幣帛を賜わり、来る十月二十一・二十二の両日御神前に献るよう宮内庁から御指示をいただきましたことを厚い感謝を込めて謹んでお知らせ致します。

 当時は恒例の秋の慰霊大祭の日に当りますので、例祭に合せて終戦三十周年臨時大祭を斎行させていただきます。

 従って終戦二十年の前例もありますので特に順序によらず、県民を代表して田川亮三先生に大祭委員長を懇請申し上げました所、国体直前で格別御多忙の中にもかかわらず御快諾をいただき御奉仕願えることとなりましたことをお礼申し上げます。

 臨時大祭は菊花御紋章の燦然と輝く唐櫃を白丁が奉持して御幣帛を進め、特別の祭典を執り行うよう準備を進めておりますので、御遺族をはじめ皆様多数の御参集をお待ちしております。

 陛下は今度の御訪米を前に史上初めて記者と会見されましたが、報道されるところによりますと、皇室は国民の福祉にまづ思いをいたしてきたと申され、国民の幸福のために行動するというのが常に皇室の伝統であると申されておりますことに改めて深い感銘を持たせていただきました。

 特に明治天皇の御行いを頭に描いているとのお言葉に、明治天皇の御聖慮の下に発足した招魂社の伝統に立つ者として洵に有難く、此度の御幣帛供進の儀の本旨を拝察するものであります。

 この終戦三十年の臨時大祭に続いて国体がわが県下に繰広げられ、その際天皇皇后両陛下を県下にお迎えし、この際にも臨時大祭を予定しておりますが、騒々しい県下の世状の下、先づ両陛下のつつがない御訪米の萬全を切にお祈り申し上げます。

 初夏以来進めて来ました境内の整備は予定の通り完了することが出来ました。この間各方面の特別の御支援をいただきましたことをお礼申し上げます。参列について雨天の排水や駐車の問題も少なからず解消されました。

 遺族会館の完成を見ましたことは御英霊の永遠の奉祀と御遺族の参詣のため何よりのことと心からお喜び申し上げます。

 数年来の御希望でありました歩兵第五十一連隊と歩兵第百三十三連隊の慰霊碑が、関係者の強力な結集によって促進され、来春四月竣工を目途に、九月二十一日境内左側で起工地鎮祭が斎行されました。

 代表の御挨拶に、最後の一兵に至るまで否残った者の子子孫孫に伝えて慰霊の祭を続けて行きたいと言っておられました。

 昏迷の世相に対処して、御英霊の崇高なる神心を体し、お互いより良い社会の開発のために努めて参りたいと存じます。

(昭和50年10月1日発行 特集1)


『祭祀の厳修』

 

 天皇皇后両陛下を当神社の社頭に創建以来はじめてお迎え出来ましたことは六萬余柱の御英霊の御嘉納されるところであり、御遺族としても当神社自体にとりましても無上の幸いでございました。

 御渡米直後のお疲れも見せられず御丁重に御親拝を賜わり、又御遺族に親しく御会釈をいただきました感激は永遠に忘れられない事柄として残ることと存じます。

 明治初頭に世の為に身を捧げて神去られた英魂のみ社として創立されて以来、この臨時大祭こそは最高の祭祀でございました。

 これを機会として私共は一層高貴なる御英霊の神意を伸べ弘めるべく努めて参らねばならぬとの決意を新たにするものでございます。

 当日は御遺族皆さまに御参列いただきたいとは思いましたが何しろ数万人の方々のことであり各地域に於て遺族会のお世話で代表参列の割振りをいただくより方向が無かったことをお詫び申し上げます。御親拝の模様につきましては映画にも謹製しましたので御参拝の際ご覧をいただきたく、又記念の写真もお頒ちしておりますので御請求下さい。

 両陛下にはこの行幸啓に先立ち終戦の日を期して終戦三十年の御奉幣をも賜わっております。

 昨年末には新らしい神宮祭主鷹司和子さまが御参拝をいただきました。新祭主さまは、陛下の皇女であらせられますことは御承知の通りかと存じますが、行幸啓の映画を感銘を以てご覧いただきました。

 その他昨年は待望の三重県遺族会館が完成する等まことに意義深い年でございました。

 新らしい春を迎えて社頭には歩兵第五十一連隊と歩兵第百三十三連隊との慰霊碑が立派に完成して除幕式が行われることになり、更に遺族会青年部の御遺骨収集記念の植樹も行われることとなっております。

 今春私は日本の神社界を代表してローマ法王をはじめヨーロッパ宗教界の人々を訪ね人類永遠の平和と発展とに寄与すべく会談して参りました。

 その話し合いの中で日本は戦後形だけのアメリカの民主々義の様なものを見ならっている様だが、本当の人類の道の根本には信仰と哲学と倫理とが無ければならぬという考え方は印象深いものでございました。

 殊に英国々教の大本山というべきウエストミンスター寺院には歴代の偉人のお墓がありその上を歩いているわけですが、唯一ケ所第二次世界大戦の戦歿者のお墓だけはその周囲に花が供えてあって絶対にその上を行ってはならぬ様に特に丁寧にお参りしておりますことを始め、文明各国に於ては全て国を挙げて戦歿英霊を祭り慰霊の誠を絶えることなく捧げておる様子をあらためて目のあたりに見て参りました。

 国の内外の情勢は極めて困難なものがありますとき、世の為人の為に我が身を惜まずまごころの限りを盡された御英霊の高徳を顕わし、その至誠の一端なりともお互いの生き様に生かして行かねばならぬと存じます。

 神社の祭祀と維持との内容をいよいよ充実して参りますと共に、前期造営以来丁度二十年を経過してようやく殿舎建物の改修の必要性も時期の問題となって参りましたので、未来のより良い方向を考慮して参ります。

 御遺族はじめ崇敬者各位の御自愛を祈ってやみません。

(昭和51年4月1日発行 第15号)


『靖国護国の祭祀』

 

 天皇皇后両陛下が親しく行幸啓せられ、御英霊の神前に親拝を賜わるという神社創立以来空前の栄光は忘れ得ぬ感激でありましたが、秋を迎えて早くも一年を経過しました。これを永久に記念して、社頭に碑の建設を進めており、恒例の秋の大祭には除幕出来ることとなりました。

 これを機会に御英霊の神威を発揚し祭祀を一層厳執して行かねばならぬという思いを新たにするにつけて、あらためて強く靖国神社の国家護持の運動を強力に進めて行くべきだと痛感致します。

 御英霊の指向される国を護り国を愛する精神は今も将来も変ることなく正しい考えです。国を愛することは家を愛し郷土を愛し世界人類を愛する道であります。

 健康であることを忘れることが健康であるように、愛国と言わなくても国を愛する心と行いとが本当の愛国であるのに、間違った神道指令的憲法解釈によって国を愛することがあたかも間違いと思い勝ちな昨今のあり方はあわれと言わざるを得ません。

 敢て正しい愛国の至誠を以て靖国神社国家護持の強力な働きかけを是が非でも推進しなければなりません。

 国家護持の要点は靖国神社創建以来の「伝統をかえりみつつ」行われるのでなく、「伝統にもとづき」実施されねばなりません。即ち御英霊をはっきり護国の神様として祭祀が執行される神のやしろでなければなりません。それが戦没の忠勇なる英霊に応える道であります。

 昭和四十四年以来六年間靖国法案は一応国会の議題とされながら流産廃案をくり返し、不充分な表敬法案すら五十年に予定して議題にも成っておりません。ましてや英霊と靖国神社とを切離す顕彰殿堂の建設案というような構想を許すわけには参りません。

 近時公表された広般な世論調査によると、戦没者の追悼を国がすることについて、当然とする者七九%、必要ないは七%、戦没英霊は靖国神社に祀られるとする者八二%問題ある者六%、靖国神社へ陛下が公式に参拝されることは八〇%以上が賛成しております。

 幸い今回遺族会、神社本庁等を中心に新たに「英霊にこたえる会」が結成されました。何うしても正しいお祭りを実現して参りたいものであります。

(昭和51年10月1日発行 第16号)


『遺徳顕彰の為に』

 

 御英霊の遺徳を顕彰し、神祭の全きを期するための奉仕をつづけさせていただいておりますことを有難く光栄に存じます。

 この度県遺族会に於かれましては沖縄戦跡巡拝のことを起されましたことは洵に意義深いものがあります。神社としましても職員を派遣して、慰霊のみ祭を執り行わせていただきました。万座毛は平素強風の吹き荒れ勝ちのところですが、当時は絶好の天候に恵まれ極めて厳粛に終始したことは何よりでした。

 靖国の神々の国家護持につきましては今更申すまでもなく我々の長年に渡る第一の願いであります。昨年結成されました「英霊に応える会」は御遺族共々私共も勿論積極的にこれに参加し、強力な国民運動を展開し、国民の大部分の方々の願いを結集して実現を促進しなければならぬと存じます。

 永年の祭りのために以前から永代講の制度があり、特に近来入講される御遺族や関係者の数が急増しております。私共はそのお志を旨として増々お祭りを盛んにして参りたいと考えております。

 然し永代講の制度があるのに、万灯みたま祭の際の献灯については、いついつまでも献灯出来る永代献灯の制度が何故無いのか、何らしても受付てほしいという御要望が少くなく。宮司拝命早々から強い御希望を聞いて参りましたので、慎重に研究の結果昨年から御希望の方にだけお受けすることになりましたので御承知いただきたいと存じます。

 御遺族の参拝の熱意はもちろんでありますが、ここ数年来戦友の方々や一般県民の方々の参拝が大へん増しております。

 将来共に全県民が御英霊を称え奉る本来の県民のお社として行かねばならぬと存じます。

 戦後復興の大造営が行われてから既に二十年を経過し、御本殿そして特に社務所の建物に荒廃のきざしが見え、年々の修理も多くなり、又御参拝を受入れるには不充分となって参りました。近い将来の新たな造営を目指して、努めて節約を計り、造営費の積立を開始致しました。その節は何分格別の御支援御協力を賜わりたく早速ながらお願い申し上げます。

 御遺族の一層の御健勝をお祈り申し上げます。

(昭和52年4月1日発行 第17号)


『祈りを込めて』

 

 戦い終って三十二年と云っても未だに戦いの傷跡は消えない。と言うよりは永遠に消えない傷と言えましょう。今夏福島県で戦没の親友の墓前に詣で、その若々しい遺影と苔生した墓石、その妹御も亡くなった今、母上としみじみと当時を偲ぶにつけて、その思いを深くしました。

 今年は世に云う終戦三十三回忌の年。御遺族の方々は元より、一般県民、又戦友の方々のその意味での参拝も少くありません。殊更に心を込めた祭儀を執行して行かねばならぬと存じます。

 かねて色々御心配をいただいた津市地鎮祭裁判は正しく民族の良識にもとづく憲法解釈で、公に地鎮祭を行うことが憲法違反でないという結論が今年七月に出されたことはまことに喜ばしいことでした。

 この最高裁判所の判決を新聞等に報道された時、靖国神社国家護持へ発展する「危険がある」という様な表現がされて居りました。あたかもそれが悪いことででもあるように。

 実は残念ながらこれだけでは直接国家護持には関係がありません。とりあえずは陛下や総理や自衛隊等の参拝も公式に出来る様になったということを先づよろこびましょう。

 公式に国や地方自治体の方々が一層積極的に護国神社へも来ていただけます。靖国神社国家護持のことはこの機会に新らしく強力な運動を展開して行くべきであります。努力を誓い合いたいのです。

(昭和52年10月1日発行 第18号)


『英霊のみもとに』

 

 み国を護り給うご英霊のご神徳いよいよ輝きたまい、ご遺族と共に日々の奉仕をさせていただいておりますことを有難く存じております。

 近年一般県民の方々のご参拝も次第に増加を見ておりますが、世相の現状を思うとき、ご英霊の示し給う真心の生きさまを一層具現して参らねばならぬと存じます。特に戦友の方々の参拝が眼に見えて益しており、近く歩兵第百五十一聯隊の慰霊碑を建立したいとのお申込みもあります。それが実現しますと久居を原隊とする全部隊の碑が全て整うことになります。

 今年から神社の造営を具体的に考えて参らねばなりません。前回の造営から早くも二十年以上を経過しており、拝殿等の雨漏りはおそれ多いことであり、社務所は年々床の修理を繰返しておりますが、元来沼地であった場所の為か基礎が随分痛んでおり何とかしなければならぬ段階に来ております。その折には格段のご理解ご支援をお願い申し上げます。

 「英霊に応える会」は新たに県の組織を固めることとなりました。英霊の顕彰、靖国神社の慰霊顕彰行事、靖国神社公式参拝、戦歿者遺骨収集、戦歿者慰霊の日制定運動、その他の事業を強力におし進めるべく組織の充実を計って参りたいと存じます。ご遺族をはじめ、神社に関わる方々、戦友関係団体の方々そして一般県民の方々の巾広いご参加を切望してやみません。

(昭和53年4月1日発行 第19号)


『御英霊に応え

 ―未来を開く道―』

 

 御英霊奉祀の神前の日々に、或いは恒例臨時の祭典に当って、御祭神の上を憶うにつけて、胸に込み上げて来るものがあります。

 ましてや御遺族のお心を思う時、ひとしおの感でございます。私はつとめて参拝の御遺族と御家庭の様子をうかがうようにしておりますが、仲々に全ての方とお話しすることの出来ない事を残念に思っております。事ある毎にお話を聞かせていただきますようお願い致します。それが私の大きな努めの一つと考えておりますから。

 夏のみたま祭をはじめお祭りにも平素の参拝でも一般の方々の参拝が増えております。県民を挙げてお守りすべき護国の御社のあり方の本質から考えて、一層これを助長して行かねばならぬと存じます。

 所で、先日写真家の土門拳さんがテレビの対談で、写真をうまく撮るのに一番大切なことは何でしようという問い掛けに対して、それはカメラのキャップをはずすことです、と答えており、これにはハッとさせられたことでした。

 それは現代の複雑な世の中で、家庭を良くし社会を良くして行く為に、当然やらねばならぬ第一歩の基本が何よりも先づ大切なのだということに通じます。

 幸いにして元号の法制化につきましては、全国殆どの府県の議決という世論を受けて、通常国会には成立を見ようとしておりますことをうれしく存じます。

 われわれにとって一番大きな問題、靖国神社の国家護持につきましては、まだまだ困難なものがあります。これにつきましては、此度志を同じくする民間の多数の団体が、英霊に応える会を結成して促進を計ることとなりました。関係の皆さんから、県民一般に対してこの趣旨を広めていただき度いものでございます。

 それこそが今、写真機の蓋を取りはずす第一の急務でなくて何でしょうか。これを基点としてこそ明るい日本の未来は開かれると思います。

 一層の御健勝御活躍を心からお祈り申し上げます。

(昭和53年10月1日発行 第20号)


『御英霊に応え

 ―世の為、人の為に―』

 

 御英霊の偉大な御神徳をたゝえ、日々の奉仕を続けさせていたゞいておりますことを有難く存じております。

 新らしい春を迎えましたが、今年は又新年から一般の方々の参拝が増加しております。お国を護り郷土を守り給う御祭神の大前に、お参りいただく一般県民の方々の一人でも増加していただくよう努めることが私共の使命であり、広く全県民に意識を拡大して行かねばならないと考えております。

 永代講につきましては、御遺族の皆様を中心に年々入講の加速度的な増を見ており、その受入と取扱いに一層充分な配慮をして参りたいと存じます。

 五一部隊と一三三部隊の慰霊碑建設を一つの機会として、戦友の方々の参拝も益しており、戦友会の組織が次第に充実して参っておるようです。

 きびしい現今の世相を思うとき、世の中のために各自の環境を良くするために、もっともっと真剣なとりくみが必要と思われます。常に全力を集中して真剣に平和を守り社会の未来を開いて行くことが必要な今日であります。それだけに実際に尊い一身を捧げて世のため人のために尽された御英霊の御神威を敬い発揚することは、現代の最も大切な要請であります。

 御英霊の祭祀は永遠に続けて参らねばなりませんが、戦後生れの人口が多くなって参りましたこれからが、本当に御英霊の遺徳を広めて行かねばならぬ時であると新たな使命感に燃えております。

 そのために先づ「英霊に応える会」の組織を広げて行かねばなりません。御遺族は無論でありますが、神社の関係者を通じ一人でも多くの人々がこれに参加されて、少くともとりあえず公式参拝の実現を期して行きたいものです。

 元号の法制化につきましても、これは当然のことであり、これを機としてお国の建て直しを計って行かねばなりません。国の基を固めることはみづからの個の尊厳を守ることであり他人をも尊ぶことで、太平の基盤であるという認識を新たにすべきであります。

 多年当神社内で執務しておりました県神社庁が新らしく用地を求めて庁舎を完成されましたことをお祝いします。他に移られても近隣であり、殊に新らしく奉仕の装束を新調され御英霊への奉仕は従来以上に続けて行き度いとのことであり、有難く期待を申し上げ、共々に邦家の為に手をとり合って尽して参りたいと考えております。永年の相存互助を顧みて一層の発展を祈念致します。

 神社社務所の建っております土地は従来、津市からの借地であり、このまゝでは建物の改装も思うにまかせず何とか入手したいと念願しておりましたが、幸いこの度神社用地として購入出来る見通しが立ち、市当局の一応の了解を得ることが出来ました。資金的に相当の多額にのぼりますが何とか実現して行きたいと存じます。近くこの購入が成りましたらいよいよ造営実施の準備にかゝって参ります。各段の御支援をお願い申し上げます。

 一層の御健勝を心からお祈り致します。

(昭和54年4月1日発行 第21号)


『御英霊の神意を仰ぎ

  ―未来を開こう―』

 

 御英霊の御神威宏大にして、益々その発揚を必要とする時節を迎えております。

 永年神社々務所の用地は津市からの借地となっておりましたが、別項に記載しましたようにこの度購入させていただくことが出来ました。本来この土地は偕楽公園に続いた公有の沼地でありましたものを、前回の神社造営の際に、かねて吉田山を県庁舎建設地としてこれを供したことに関連して、神社が借地して建物を建設したものでした。近く神社の新らしい造営を進めて行く上で、何うしても神社自体のものとしていかないと改造が出来難く、その時機と考え敢て購入にふみ切らせていただきました。

 追々積極的に造営資金を御奉納下さる方々から何時その仕事をはじめるのかとの御熱心なお問合せを賜わり、有難く存じますと共に責任のいよいよ重大な事を痛感しており、御英霊と御遺族、更には県民のお社としての前向の計画を進めようと致しております。今後一層の御指導御支援をお願い申し上げます。

 元号の法制化につきましては多年の念願が達成出来ましたことを御同慶の至りに存じます。元号法は単に元号そのもの許りでなく、民族の運命にかかわる大へん重要なことがらであります。それと共に法が出来ても正しい意味で各方面でこれが使用されなければなりません。私共は相共にこれを監視し、進んでこれを護る方向を見守りたいと存じます。

 元号が出来ましたら、今度こそわれわれに最も重大な、靖国神社の国家護持の実現に最善の努力を傾注したいものです。靖国神社公式訪問などは勿論のことであります。

 第二次石油危機を乗越えるためには、国民の一致した心がけが必要ですが、これは兎に角も努めることによって成果は期待出来ると思われます。それよりも、もっと深刻に人間の平和と幸福を招来すべき「心」の問題は現代社会の最大の問題です。御英霊の神意を仰ぎ励み合って参りたいものです。

(昭和54年10年1日発行 第23号)


『御英霊を仰ぎ奉り

 感謝の誠を捧げよう』

 

 御英霊の神威弥高く、日々御遺族はもとより一般県民の方々の参拝が増加して、甲斐ある奉仕を続けさせていただいております。

 戦後の繁栄を支えて来た石油をはじめとする資源の問題は世界の課題であり、特にわが国にとってはきわめて重大な問題であります。人類永遠の平和を招来するために、あらためて人間そのものの内面を浄化しなければなりません。その為にも御英霊の神徳発揚は缺くべからざる要件であります。

 県下の御英霊は六萬有餘柱すべて当神社の御本殿に奉祀され鎮まつておられますが、県内各地の氏神さまの境内にも随分おまつりされております。県内には八百十七のおやしろがあり、わが県では明治の代に概ね一字一社に合併整理され、その地域の御英霊をおまつりされるようになり、戦後新らしくお祀りされたものもあります。今回全県下のお社に依頼してその様子と合せて忠魂碑の調査を進めており、今後共調査の完成を期し、各地の忠魂社との連絡を深め祭祀の充実を計って参りたいと存じます。

 久居を原隊とする部隊の内三十三連隊の慰霊碑は自衛隊の内にあり、境内に五十一連隊と百三十三連隊との碑が建ちましたが、残る一つの百五十一連隊についても建碑の機が熟し、今秋には完成することとなりました。他の関係ある隊のお申込みも少くありませんが境内の広さから現状では無理でおことわりしております事を申訳なく存じますが、取りあえず四つの基本的な碑の完備を慶びと存じます。

 全国護国神社会等で会議の外研修を続けて祭務の向上を計っておりますが、この度中部十県の護国神社の若手神職の研修会を本県から発案し、五月には初めての会を当神社で持つこととなりました。奉仕の実務について相互に研鑽し、将来の奉仕のため成果をあげたいと準備を進めております。

 御遺族はじめ崇敬者皆様の一層の御健勝を神かけてお祈り申し上げます。

(昭和55年4月1日発行 第24号)


『世界に真の平和を』

 

 全国植樹祭が今年県下で行われ、両陛下をお迎えして盛大に終了したことよろこばしい事でありましたが、その際当神社の神前に幣饌料のお供えを賜わり、奉献の臨時祭を斎行出来ました。両陛下の御親拝の感激の憶い出も新たに、謹んで奉仕させていただき、一層神明奉仕の責任の重大さを痛感致しました。

 終戦記念祭を執り行いました八月十五日、鈴木新総理をはじめ各閣僚の、靖國の御神前に参拝は、喜ばしいニュースでありました。

 「祭る」という心の基本は、唯単に個人の宗教的信条ではありません。まつり・まつろう事は家を挙げ世を挙げ国を挙げてこそまことのまつりです。殊に靖國護国の英霊の祭祀は特にそうでなければなりません。

 終戦記念の日の国の式典では、英霊に対して黙祷が行われ、当神社でも祭典に続いて、陛下のお言葉をラジオで拝聴し、共に黙祷をさせていただいておりますが、この黙祷で忘れられない事があります。ジャパンタイムズ誌の主として外国人の投書欄がありますが、昭和二十六年貞明皇太后陛下の崩御にあたり、官公庁や学校等で黙祷をした時、外国人の多くの人が、黙祷をさせるのは宗教の自由を犯すと幾日も投書をしてました。

 黙祷が宗教行事であり、宗教の自由を犯すというのは、亡くなった人の霊を拝むということ自体いやなのだそうです。祈りはゴッドに対して以外はしてはならぬ。一寸一般に日本人には理解しにくい事でした。

 近頃は、終戦記念日でも大平総理の時でも、あまり外国人もやかましく云わなくなりましたが、戦後の占領政策が、英霊祭祀や国政全般についても、こんな所から誤りも出ている様に思えてなりません。

 内外の世相困難な時、心ある世界の人々が日本民族の家庭的な明るく温い美点を見直し見習うべきものとして来ております。今こそ先づ靖國神社公式参拝実現に向って一段の努力と結束を強めて参りたいと存じます。

(昭和55年10月1日発行 第26号)


『神意奉行』

 

 御英霊の御加護のもとに、御遺族崇敬者の皆様にはいよいよ御健康で、良い陽春を迎えられましたことと拝察申し上げます。

 最近の世相を見るにつけて、戦後生れの人口の方が多くなりました今日、いよいよ本格的な戦後の悪弊も出て来た気が致します。

 その一つの現われが、中学校暴力の問題であります。今、世界的にこの問題があると聞きますが、諸外国の例は生徒同士の暴力事件が多いのに対して、わが国のそれは多く先生に対する暴力であることは、洵に嘆かわしいことです。昨年中の国内の犯罪者は成人の場合千人に二・五人であるのに対して、少年は十五・四で、実に六倍以上となっております。

 この原因については、社会・学校・家庭がその出発点であることを充分に認識して、あらためて真剣に対処して行かねばなりません。そして少くとも義務教育の期間に於ては、知育以上に人間として正しく生きて行く基本を体得せしめるものでなければならず、又先生と生徒とは尊敬と真の愛情とで結ばれていなければなりません。更に何よりも、少年の行動は成人の世界の反映であることを思う、現代社会のあり方に痛切な反省をしなければならないと存じます。

 先日、海外の発展途上国からの研修留学生の話の中で、日本という国は小さい山国で人口ばかり多いのに、世界一流であるのは何故かわからなかったが、日本へ来て見て ①国内の言葉が一つであり、➁資源が無いから反って大へん良く働き、③特に外国に例のないすばらしい天皇陛下が居られる、この事だと気がついたと言うのに感銘を受けました。

 各県の護国神社を参拝して見て、激動する世相の中で、懸命の御英霊の御神徳発揚の具体策が今新らしく推進されようとしております。わが県においては、皆さまと共々に護国愛郷の神意を奉行すべく、つとめて参りたいものでございます。

(昭和56年4月1日発行 第27号)


『御造營が始まります

  御英霊に應えまつり

  御奉賛を待望します』

 

 御英霊の祭祀を日々奉仕させていただくにつきまして、連日数多くの御遺族県民の皆さまのお参りをお迎えして、御健勝なお顔に接し、とどこおりなく過させていただき得ておりますことを光栄且有難く存じます。

 さて、このたびこの神社の本殿をはじめ社殿の大修理や参集所、社務所の改築等のための御造営事業を進めるべき時期を迎え、御遺族県民の皆さまの御理解御奉賛を心からお願い申し上げたいと存じます。

 何うして御造営を開始しなければならないかということについては、㈠、この神社の特性を発揚して行かねばならない。㈡、神社の祭祀を永遠に続けなければならない。㈢、御遺族又県民の皆さまの参拝受入を充実しなければならない。㈣、建物の老朽を修築復元しなければならない、ということです。

 神社の特性を発揚するという㈠、につきましては、申すまでもなくこの神社には国難にあたって尊い一身を公務のために捧げられた六万余柱の御英霊をお祭りしておりますが、現代わが国内外の時勢をおもうとき、このままでは人類の未来もわれわれの生活も極めて暗く危険なものであり、国の平安を護り郷土の平和を守りたまう御英霊の御神徳の発揚は今日最も必要なものがあります。

 ㈡、の祭祀を永遠に、ということについては、天皇皇后両陛下の御親拝を賜う神社として、公式にいつまでもお祭りを続けなければなりません。殊に御英霊が靖国の神として護国の森に鎮まることを識って戦火の中に勇ましく散華され、或いは淋しく戦病の床に神去ったことを思うとき、この神社は決して絶やしてはならないものと存じます。

 ㈢、の参拝の受入については、御遺族が身につながる御英霊のお社、即ち自分のお家の延長としてゆっくりとくつろいでいただける参集所でなければなりませんし、又年々増加する県民の方々のお参りや戦友の方々の参拝集会を心よくお迎え出来る施設でなければなりません。

 ㈣、の建物の現状とその修築ということでございますが、前回の造営では御本殿は神宮から宝殿を頂戴して、戦災に遇った社殿を改めて新らしく建設されたものでございましたが、あれから早くも二十五年を経過しまして、お屋根をはじめ一部に痛みが目立ち、雨漏りするようになって来ております。これでは御英霊に申訳ない極みでございます。

 殊に、参集所社務所については、年々相当大きい修理をしておりましても追いつかずに、床が動いて危く、雨の時はバケツが幾つあっても足りないことを嘆く有様です。それは何分にも戦後間もない造営のため古い材料のつぎ合わせであり、元の沼地の上に建っていた為でもあり、更に前回は当初の予算を半分位いに削減せざるを得なかった為のようです。

 従って今回の御造営にあたりましては、右四つの要件を充たすことを先づ考慮することは勿論ですが、更に㈤、由緒ある重要な部分はこれを保存すること。即ち五丈殿を頂戴した現在の儀式殿を、貞明皇后さまゆかりの南の和室とは移築して永く保存することを考えたいと存じます。

 又御造営事業推進の基本として㈥、御神徳にふさわしい実質的効果的な建造物を考えること。㈦、神明奉仕の事務能力が有効に発揮出来る構造にすること。㈧、奉賛いただく方々に理解を深くしていただくこと。㈨、御芳志を永久に保存すること。それに加えて、㈩、将来共に大祭参列者の参列場を考え、(十一)、積極的な教化活動の展開を計って参りたいと存じます。

 これらの基本的な要件をもとに具体的な事業の内容としましては、

 1、社殿の修復諸工事を進めます。

 御本殿以下社殿関係の雨漏修理と社殿翼廊の修復工事をしなければなりません。又その為には関係諸祭典として起工祭、地鎮祭、上棟祭、清祓祭等特に假殿遷座祭、本殿遷座祭を厳重に斎行しなければなりません。更には御本殿の御神宝の奉製は相当高額の費用を必要としますが、是非実現したいと存じます。

 2、儀式殿等の移築を行います。

 基本的な考え方の㈤に申し述べました通り、由緒ある建物は永く保存したく、儀式殿はその用途のままに、南和室等は内部を多少変更してでも残すべきものと考えます。

 3、参集所社務所の改築を致します。

 この部分については㈣に書きましたように、根本的な対策が必要でありますが、機能的であると共に少くとも現在の面積は確保しなければならぬと考えております。

 4、工作物並に境内整備をします。

 境内参進の諸工作物の修理補修と整備を進めなければなりません。従来以上に参拝の便宜を計り、車の置場も考えなければと存じております。

 5、その他の事業をも併せ考慮します。

 更にこれらの完成の上で参列者の方々を考慮した回廊の建設と、社会的な御英霊に応える教化活動を展開して行くべきものと存じております。

 以上の方針の一環として、津市からの借地でありました参集所社務所の敷地をこの度神社費を以て購入することが出来ました。約三千七百万円です。

 総予算につきましては、出来るだけ節約を旨として約二億円を要しますが、用地代を加えますと、二億三千七百万円となります。

 この計画につきまして、かねて役員総代の方々の御指導をいただき、三重県遺族会評議員会の皆様方、更に英霊に応える会に関係ある崇敬深い各団体役員の方々の御賛同を賜わることの出来ましたことは、大へんな喜びでありますと共に責任の極めて重大であることを痛感致しております。

 時機としましては、先づお心厚い御遺族県民の皆様に先づこの趣旨を申し上げました上で、明春には工事にとりかかりたいと考えております。

 それにつけましても、その費用の調達は並々ならぬことであり、御英霊の永遠の祭祀に御同感いただく皆様の御奉賛の御芳志に待つ他はありません。一々参上の上でお願い申し上げるのが本意ではございますが、取あえず謹んでお願い申し上げます。何卒格別の御高配を以て御奉賛賜わり度う存じます。

 修復成った本殿をはじめ、新らしい参集殿社務所で一日も早く皆様にお目にかかれますことを待ち望み、及ばずながら私共職員一同懸命の努力をお誓い申し上げ挨拶とさせていただきます。

(昭和56年10月1日発行 第29号)


『御造営工事を開始

 お礼と報告とお願い』

 

 御英霊の遺徳の顕彰と神社の祭祀運営とについて、いつも御高配をいただきありがとうございます。殊に今回の造営事業の推進については格別の御支援を深く感謝致します。

 造営の必要性目的につきましては、前号に申し述べたところですが、要は前回の造営から二十五年以上を経過して、御英霊の永遠の奉祀のために百年の大計をもって建設を進めることです。そのために各方面の御意見を拝聴しながら準備を完了しましたが、当初の予定に比べて内容を随分充実し、変更も致しましたので現状と今後の計画につき説明させていただきます。

 工事計画の内、社殿関係に重点を置きまして、御本殿のかさ上げをして御神威を高め、お屋根は一部葺替の筈でしたがやはり全体を葺替えて参ります。前回の銅板は割合薄手のものですが、今度は厚手のしっかりしたものを、より本格的な葺方で完成します。金具を全部新らしくし、全体に洗清め塗装も新たに、床面の痛みも新らしい石面に替えることとなりました。

 由緒深い儀式殿と参籠棟との移築につきましても充分立派なものとし、新築の参集殿につきましては一層御遺族崇敬者の御参拝に重点を置いて玄関正面を東面とし、少くともこれまでの参拝受入面積を下まわらぬ様、又屋根は社殿の連続にふさわしいものとします。

 設計につきましては、神社建築最高の権威である神宮営繕部に当っていただきました。これについては神宮御当局の特別の御理解をいただき、且極めて奉仕的にお世話になっておりますことを感謝を込めてお知らせしたいと存じます。

 施工につきましては、申請のありました県内外の一流の建設業者の中から巌選して指名入札を行い、二月末に日本土建株式会社に決定しました。日本土建は津市の地元で、県下の代表的な会社であり、前回の造営も手がけ、近年も神社庁等の施工に当っており、特に今回価格的にも大へん無理を聞いてもらいました。この決定を喜びとして期待致します。

 予算的には当初予定しましたところよりは大分増額をしなければならず、実行予算としては三億六千万円となり土地購入費を含めると四億に近いものとならざるを得ません。

 浄財の御寄進につきましては、昨秋から早々と御遺族の方々が非常に御熱心な御献金を続けておられ、予定を大きく越える額に達しておりますことをお礼申し上げます。英霊に応える会に関わる戦友関係の方々の御献納も真心込めて次第に高くなっております。その後県内の有力な方々と県外県人の方々に御理解をいただきつゝあり、連日寄せられるお志を尊いものに存じ、今後も努力して参ります。

 起工を奉告して儀式殿御祭神の仮遷座の上、社務所のとりこわしが行われ移築が開始されます。整地の上で五月末地鎮祭を斎行して本格的な建設がはじめられます。秋の慰霊の例大祭の上で仮殿遷座祭を斎行し、来る昭和五十八年三月末にはお建物の完成となり、四月に洗清め等の完工諸祭の後に本殿遷座祭と同奉祝祭を斎行したい見通しであり、何としてもやり遂げなければならないと、責任を痛感しております。

 工事中祭典や参拝には出来るだけ支障のないようにしたいとは存じますが、御迷惑御不便も少くないと思います。予め御了承を得たくお願い申し上げます。

 御支援御協力に厚くお礼申し上げ、益々の御健勝をお祈りし一層のお高配を切望申し上げます。

(昭和57年4月1日発行 第30号)


『御本殿工事の奉行』

 

 家の内外に事ある毎に、国の内外に事ある毎に、御英霊の上を想わぬことはありません。殊に昨今のようにあらためて民族の生き方が問いなおされ、戦争の痛手を問い返されるとき、尊い一身を捧げられた若い勇姿に思いをいたさずには居れません。御英霊の御恵みと皆さまの御協力のもとに奉仕の日々を続けさせていただけることをありがたくお礼申し上げます。

 造営の工事につきましては、今春から予定の通りに進めさせていただいております。これ亦神恩と共に、御遺族の熱誠あふれる奉賛と戦友の方々はじめ心ある県民の多くの方々の御助勢の賜物と感謝の他ありません。

 その後もますます神宮営繕部の御熱心な御指導を受けながら、日本土建株式会社関係の懸命の努力を以て完成へのうれしい見通しが立って来たように思います。由緒ある建物として儀式殿と参篭棟とは既に移築を終り、夏のみたま祭には臨時に使用出来るようになりました。

 秋の慰霊の例大祭は又多くの御参拝を得て意義深く斎行させていただきますが、このお祭りを終りますと、儀式殿を假の御本殿として假殿遷座祭を予定し、今その御殿内の清祓い整備を進めております。

 假殿への臨時の御遷座と共に、境内中央に奉拝所を奉製して普通には其処を通して奉拝していただき、日常の祭儀をおつとめ致します。御遺族を特にお招きしての永代祭や命日祭等は儀式殿内でとり行いたいと存じております。

 そこでいよいよ御本殿をはじめ社殿全体の工事がはじまり、御神宝御装束類の奉製が進められます。その間御参拝につきまして出来るだけ御不自由のないように努めて参ります積りですが、それでも何かと御迷憾も少くないと存じます。予め御了承賜わりたくお願い申し上げます。

 参集殿の基本はすっかり出来上り、今後御社殿と共に目に見えて完成に向って来ると思います。多くの参拝を迎えたときの境内便所の外、予定外の工事も進めて参ります。青少年BSのための参集舎や祭事倉庫の建設も含めます。

 連日御参拝の方々はもちろん、県下各地で造営についての心厚いお励ましの言葉をいただき感謝しており、来春の完成、本殿遷座祭と奉祝祭とに向って努めますについては、どうか一層の御指導を賜わりたく切望申し上げます。

(昭和57年10月1日発行 第32号)


『本殿遷座奉祝祭にあたり心からお礼申し上げます』

 

 御英霊のおみちびきのもとに、造営の全工事を完工し、御本殿の千木堅魚木の金銅金具と社殿参集殿の新らしい銅板とが春の陽光に輝く中で、本殿遷座奉祝祭の盛儀となりましたことをありがたく存じます。

 御社殿社務所の旧態を憂い、御英霊奉祀の将来を思いながら、役員総代の方々の御指導のもとで、造営事業を進めて参りました内にあって、何と言っても一番の中心になって御理解御協力をいただきましたのは三重県遺族会の皆さまでした。

 建設委員会の中核となって推進をしていただいたことをはじめ、分会のひとり一人が大へんな御奉賛をいただきました。

 婦人部青年部の方々には、造営中の植木の移植、庭石の移転、境内清掃にと御協力をいただく姿に御英霊もさぞかし御満足のことと存じました。県外遺族の方々も格別の御理解を賜わりました。

 英霊に応える会を中心に各戦友会も亦積極的な奉賛活動をいただき、今回の造営を意義深いものとして頂きました。

 三重県神社庁に関わる神職の方々もそろって申し合せ浄財を奉納されました。従来から全支部代表が祭典奉仕を願っておりますが、県下全神職が奉賛という例は他に無いのではないでしょうか。

 県民の志厚い方々からも心をこめた奉納をいただき、未だそのあとを絶っておりませんし、県出身の有力な方々からもお心を寄せ励ましてもらいました。

 工事につきましては、神宮営繕部の神社界最高の技術と御好意とによる設計監督をいただくことが出来、完成を見た今日あらためてさすがにと感服しております。

 社殿につきましては全般に予定以上の造修が出来ましたことを喜んでおります。御本殿を高く上げ奥行を広め、金具を全て新らしくし、塗装も全体に改め、床面にタイルを張り闌干を改めることが出来ました。

 平素は拝見することが出来ませんが、本殿内の御神宝威儀物も全体に新らしく手を入れました。

 参集殿については御覧の通り立派に新築され、特に御遺族参拝の玄関口から一本の廊下を通しましたことを最もうれしく思います。

 儀式殿と参篭棟とは由緒ある建物として大切に保存されるようになり、他に御英霊遺品室、青少年ハウス、団体便所を備え、境内参道、駐車場を従来より広く整備することが出来ました。唯消火施設や浄化槽や消防関係の法令の変化にともない、予定しました以上の経費を必要と致しました。

 施工の日本土建株式会社の関係者は始終大へん良く努められ、所期の目的を立派に完遂して下さったことを感謝します。

 御指導御奉賛下さった方々の御芳名は予定通り銅板に刻して永久に保存することは勿論でありますが、唯単にそれに留まらず先づ私自身の生涯の心に留めて語り嗣ぎたいと存じます。

 御英霊の永遠の奉祀の基礎はお陰で出来上りました。然し本当の祭祀の心を世に興させる仕事はこれからです。一層の御鞭撻をお願い申し上げてお礼と致します。

(昭和58年3月22日発行 第33号)


『本殿遷座祭を終えて 

  百年の大計の発足』

 

 造営工事の完成を見て、厳重な検査の上で施工者から神殿参集殿を受けとり、神殿清祓の儀をとどこおりなく執り行わせていただきました。

 三月十七日午後七時から、建設委員はじめ代表参列の方々の参集を得て、待望の本殿遷座祭を斎行することが出来ました。当時は春の清々しい浄暗の中を前陣後陣の威儀の物更に行障・絹垣の奉仕を従えて、御英霊は假殿から本殿へおごそかにお遷りになりました。奉仕者奉拝者すべての関係者は只深い感激に打たれました。

 引きつづき三月二十二日から二十六日までの五日間、午前午後各一回の本殿遷座奉祝祭を行なわせていただき、御遺族崇敬者の沢山の方々のお参りのもとに盛大なお祭りとしていただきました。陽光の輝く中に、高くそびえた本殿の新らしい千木堅魚木の金色と銅板とが光りを増し、拝殿以下参集殿の新らしい結構がさわやかに拝見出来ました。

 当社にふさわしい新参集殿の姿はさすがにこの道最高の権威である神宮営繕部の設計と感銘深く、施工に当った日本土建株式会社の誠意を随所に見ることが出来ます。殊に御神宝威儀物の様に御神前に最も近く普通には拝見出来ない所まで全て改修出来、御英霊遺品室も出来ました事が何よりのよろこびでございます。

 皆様と御同慶の喜びを分ち得ますのは、御英霊の御加護の賜物でありますことは申すまでもありませんが、御遺族お一人お一人、遺族会・英霊に応える会・戦友の会をはじめ関係者の方々、更には県下全神職をはじめ県民崇敬者の方々、全ての方々のお心厚い御奉賛のお蔭であり、あらためて心から深くお礼申し上げますと共に、今後共永遠に忘れ去られてはならぬものと伝えて参りたいと存じております。

 本殿遷座祭は造営完成の上、假殿から御本殿に還幸されるお祭りであります。伊勢の神宮では式年遷宮と云って、二十年に一回と定られており、その他の神社では遷座祭と云って式年の定めのあるところと無いところとがあります。

 当社の場合は前回の昭和三十一年から二十七年ぶりの大祭です。神明をお祭りするには通例、衣食住を奉献します。その内、食し上りもの(食)は毎日お供えします。おめしもの(衣)は毎年一回とか数年に一回とかお供えするのが普通です。神殿の造営(住)は数十年に一度たてまつるのです。従って造営が出来上り、御本殿にお還りになる遷座祭こそは神社にとって最高のお祭りでございます。そのようなお祭りを皆様と共に奉仕出来ましたことを無上の光栄と感謝しております。

 お建物が出来て、これで御英霊奉祀の基礎は成りました。然し、それは基礎にすぎません。本当の百年の大計はこれからはじまります。何うか、これからの行先を一層よろしく御鞭撻下さいますようお願い申し上げます。

 先づその第一回の春の慰霊の例大祭に賑々しく御参列賜りますようお待ち申し上げております。

(昭和58年4月1日発行 第34号)


『防人の歌』

 

 御英霊のお導きと御遺族はじめ県内外崇敬者の方々の真心の御奉賛とによる造営工事の大部分を完成させていただいてから、境内地内の整備を進め、祭典時の参拝手洗、青少年のためのハウスの建設等に続いて、別に献納をいただいた常夜燈が設置されて殆ど完了することになります。

 常夜燈は青銅の特製で、大きく立派なものです。御英霊にちなんで萬葉の防人(さきもり)の歌をつけてもらいました。秋の大祭までに出来上りますので御覧を願います。

 造営の準備から本殿遷座奉祝祭に至るビデオが出来上り、毎日御参拝の方々に見てもらっております。観覧御希望の場合は精々お申付け下さい。

 今年の式年みたま祭万灯みたま祭は三日間共大体好天に恵まれ、例年以上の御参拝を迎え盛大にとり行うことが出来ました。反省会を開くと共に、来年は式年の御英霊が多いことですので今から準備を心がけます。御意見がありましたらお寄せ下さい。

 造営中のため延期されていた中部十県護国神社会と県下別表神社の会と、夫々当神社の当番で開催となりました。新らしい建物の中で行うことが出来、ありがたく存じます。

 近く建設委員会に決算を報告して造営一切の事業を終了させていただき度く思います。今後は造営に寄せられた御誠意をいつまでも忘れず、祭祀を厳修し、社務に励み、一層丁重な接遇に努めて参りたいと存じます。

 御健勝で、秋の大祭に御参拝いただきますようお待ちしております。

(昭和58年10月1日発行 第36号)


『花は桜木』

 

 今年の冬は長うございましたが、お元気でお過ごしでしょうか。寒さもようやく去り、春一番から二番三番の風に乗って、花が咲き花が散ります。続いて緑の野山が展開されることでしょう。

 自然界のいとなみは来る年も又来る年も、小鳥のさえずりと共に生き続けます。それに対して人間の生涯の変化のはげしさ。ましてや若い身空で戦いの場に没せられた英霊の上は、言うもかなしい限り。唯、永遠に残るものは烈々たるまごころの忠節のみ。

 お蔭さまで、神社の造営主体工事が完成して、本殿遷座祭をとりおこなってから一年。附帯境内工事も昨年内に終え、このたび決算をさせていただくことが出来るようになりました。御英霊の御加護に依ることでありますが、心からの御奉賛をいただいた皆さまにあらためてお礼申し上げます。

 御造営が完了するまではと、御無理をお願いし続けました責任役員の三谷先生には、正に完了と共に帰幽されました。陽に陰に、公私共に、多年にわたりお世話になりました。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

 日比先生も今回御引退になりました。そのあとを元県町村会長で、かねがねお世話になっております宇野先生と、県遺族会副会長山本先生とが別項の通り御就任いただきました。

 職員も亦、御造営等一身に背負い、大へんな功績をあげてくれました石上紀男祢宜が神社庁へ転出し、小林祢宜・原上席権祢宜以下の陣容も新らしくなりました。

 御祭神の顕彰慰霊の百年の大計に向って、新らしい年が開かれました。及ばずながら、御遺族はじめ県民のみなさまの広い御鞭撻を得て、つとめて参りたいと思います。よろしくお願い申し上げます。

(昭和59年4月1日発行 第37号)


『爽秋を迎えて』

 

 御英霊と皆さまとのお蔭を以て、造営事業は予定以上の成果を得、今春その決算を監査の上、建設委員会に報告し御承認を受けることが出来ました。この社報に掲載しますにあたって、造営期間中にお寄せいただきました眞心の数々を憶い返し、あらためて厚くお礼申し上げます。そのことについては神社の歴史に永く遺存して参らねばならぬと存じております。

 今年の萬灯みたま祭につきましては、例年以上に沢山の献灯をいただき、盛大に意義深くとり行なうことが出来ました。みたま祭に引続いて、今年は希望により駅ビルでも一ヶ月近く拝見してもらい、感銘を与えることが出来ました。

 終戦のひ英霊感謝祭も例年のように厳粛に斎行致しましたが、今回は特に県議会議員の方々が新たに結成をいただきました。英霊に感謝して当神社に参拝する会の方々が参列をされておりましたことは、まことに感銘深いことでございました。

 社頭に奉納いただいた常夜燈の、萬葉集の防人の歌については、時々おたずねを受けてありがたく思います。社務所に解読の印刷物を用意しておりますのでお申出で下さい。

 今年は、伊勢の神宮では天皇陛下の御聴許があり、いよいよ第六十一回式年御遷宮が具体的に動きはじめることとなりました。前例によりますとその最初の行事としての御樋代木奉曳が来春御斎行かと思われ、木曽のお山から陸送に当って当神社へ一泊いただけるのではないかと考えられます。御奉賛を期し、民族の盛典のもりあがりを待望致します。

 秋の恒例の慰霊の例大祭の日が近づいて来ました。お志篤い方々の御奉仕応援を得て、今年も準備を進めております。御健勝で賑々しく御参列下さいますようお待ち致します。

(昭和59年9月1日発行 第39号)


『意義深い年に』

 

 昭和六十年の今年は、天皇陛下が御即位になりましてから六十年目、いわゆる御即位六十年の目出度い年です。

 今二十世紀の第一年に生誕された陛下は、激動苦難の時代を皇祖の遺徳をそのままに、国民の指針となり鏡となって来られた事はまことに尊くありがたいことであります。

 丁度十年前の昭和五十年十月二十七日、親しく当神社の神前に行啓賜わりました事を憶いおこすものですが、当時御即位五十年の各種行事を執り行ったことを受け、政府は満五十年の式典を開催されました。

 今回も国は満六十年の行事を来年に予定しておりますが、われわれはその前提として、国民の盛り上りとしての数え年六十年の事業を各地で盛大に開いて行き度いと存じます。

 今年は又、戦後四十年の歳でありますことは、御英霊を奉斎する神社として洵に意義深いことです。終戦の八月十五日の祭儀は勿論年間を通じてそれにふさわしい年として行き度いと存じます。

 戦後四十年の倍の八十周年としては、日露戦争の記念の年です。日露戦争が明治維新で開国されたわが国に対して持つ意味、そしてその後に対して持つ意味を充分に味わい、今後の御英霊の祭祀はもとより、あらゆる事柄に参考として行かねばならないと思います。

 今年は更に、第六十一回神宮式年遷宮の行事が開始される年です。戦後生れ世代の国民の数の方が多くなった今、この御遷宮がわが国の将来に持つ意味は大へん大きいものがあります。

 五月には山口祭がとり行われ、六月には御樋代木の奉送迎奉曳があります。前回書きました当神社へのお泊りが決定し、多分六月十日に神前に一泊される予定で、厳格に送迎の祭典を奉仕することをはじめ、挙げて奉祝申したいと存じております。

 この年にあたって、御造営奉賛をいただいた県下の方々から、御英霊の祭祀を永遠に奉仕し続けて行くために、奉賛会というようなものをつくりたいという有難いお話が出て来ております。御趣旨にお応えして、準備を進めさせていただき度いと思います。

 御遺族崇敬者の皆様の一層の御健勝をお祈り致します。

(昭和60年4月1日発行 第40号)


『御幣帛を賜り終戦四十周年

 臨時大祭を賑々しく』

 

 御英霊の神前に奉仕する大祭と言わずみたま祭終戦の日の祭りといわず、あらゆる行事に終戦四十年の意識を込めてつとめさせていただいており、御遺族や参拝の方々も亦そんな意味でお参りいただく昨今であります。

 天皇陛下に於かれては、この年に当り特に御幣帛を賜わることとなり、来る十月二十一・二十二の両日の慰霊の例大祭に合せて、奉幣の臨時大祭が執り行われることとなりましたなりましたことを謹んでお知らせ致します。

 今年は史上に例のない御即位六十年の目出度い年にあたりますので、来年満六十年で政府に依る奉祝行事がとり行われることに先だち共々に慶祝の意を表したいと思います。

 臨時大祭の斎行ですので、例年の順序に関係なく、田川亮三大祭委員長様ということで御奉仕願えることになりました。生憎公務による外遊中又はその翌日のため、実際には御参列はお代理となることがありましても、準備の段階からその体制で進めさせていただくことになりました。

 四十年前は終戦、その四十年前は日露戦争、その四十年前は明治維新というように、世の中の動きに四十年という周期は大きい意味を持っております。

 四十年の周期は夫々に、鎖国から開国、開化から富国強兵、大正デモクラシーから終戦、占領から経済成長というような意味を持っておりますが、これからの四十年は人類の生き様の上で大へんな意味を持つと言われます。

 御幣帛を殊更に賜わる四十年の臨時大祭は過去への回想の機会であると同時に、今後の四十年への出発の重要な時期であります。御英霊への慰霊敬仰を、未来の眞の平和のための起点としなければなりません。

 この重要な時にあたって、新らしく奉賛会の発起人会が発足しようとしております。御造営奉賛会員や戦友の方々を通じ、県民挙げて御遺徳を称え、お祭りを盛り上げ持続して行くべく、この会の創立発展のため格別の御協力を賜わり度う存じます。

 造営の最終事業である正面石垣の造成もお蔭さまで完了することが出来ました。

 想えば、造営事業の発端は、昭和五十年に天皇皇后両陛下の行幸啓を社頭にお迎えすべく、境内の整備をはじめさせていただいたのが始まりでございました。

 秋の眞澄の美空の下に両陛下をお迎え出来ました感激を忘れたことはありませんが、同じ感銘を以て今年の秋の例大祭を奉仕致し度いものと考えます。どうか年々の大祭にも増して沢山の方々の賑々しい御参拝をお待ち申し上げます。

 御遺族崇敬者の皆さん、益々御健勝で世の為御家庭のためにも、一層の御活躍を下さいますようお祈りします。

(昭和60年10月1日発行 第42号)


『御英霊奉賛』

 

 お宮がらにふさわしい境内外の桜花が、咲きかおる陽春を迎え、益々御健勝のことと拝察致します。

 おかげさまで、神社の祭祀や日常の奉仕を順調に進めさせていただいておりますことをお礼申し上げます。

 三月十二日浄闇の中に、今年も新らしい御祭神と客祭神とをお迎えする、合祀祭を執り行わせていただきました。戦後四十年以上を過ぎて、初めて新らしい御祭神になられる御英霊。その御遺族の御参列を拝見するにつけて、まだまだ戦争は終っていない。そうしてしっかりと祭りを後世に伝えなければならないと痛感致します。

 それにつけましても、今年一月十七日に奉賛会の発足をいただきましたことは、まことに有難い事でございます。昨年来、県下各界の代表の方々により発起され、設立の準備を進め、奉賛会員を募る活動を開始されました。会員の方々は進んで入会され、当日は会の設立を神前に奉告し、設立総会を持たれましたが、御多忙の中を県下各地からかけつけ、参会されたお顔に接し、感銘深いものがございました。

 奉賛会という名前は、神社や寺院の関係団体につけられます。それがおおよそ三つの種別があるように思われます。その第一は、特定の決った目的のあるもので、例えば神さまのお建物を造る目的の造営奉賛会等がそれです。この奉賛会はお建物が出来上るような目的が達成されると終りになります。

 第二は、神佛の特殊な徳をたたえて、そのおかげをいただこうとするものです。例えば酒造りの神さまとか、子授け地蔵さんとかです。この場合は特定の人や時期ということになります。

 それに対して、今回の奉賛会のような場合は第三種と言い得ます。特定の人に限らず、特定の時期に限らず、広く末永く続けて行くべき奉賛会です。すなわち、靖国護国の社にまつられることを信じて、お国のため郷土のために尊い一身を捧げられた御英霊への奉賛は、全県を挙げてひたすらにお祭りすべきであります。

 奉賛会の賛という字は隷書で、本来は贊をか讃と書きます。贊の兟は進んで積極的にということ、貝は古く宝具が金銭であったようにお金のことです。從って奉賛とは進んで神佛にお金を上げることと直訳出来ます。しかし、お金をあげることだけが奉賛会であってはなりません。

 賛は見なりと言われ、御英霊にお目にかかること。又賛は佐なり、賛は助なりと言われて、御英霊の神業の助力をすること。賛は道なり、導なり、引なりとも言われ、御英霊の尊い精神にみちびくことです。更に賛は告なり、説なりと言われ、御英霊の尊さを教え説明すること。そうして、賛は頌なりと言われて、御英霊をたたえお慰めすることです。

 これら全般にわたって奉賛活動が行われなければなりません。そうして、未だ県下に趣旨が知れ渡らず失礼しておりますので、何よりも先づ、一般全県民の皆さんに行きわたることを目標に、会員の増加充実を計ることが目下の急務でございます。その為の御指導御尽力を心から切望申し上げます。

 御英霊の御加護のもとに、郷土の和やかな発展を願い、一層の御活躍をお祈り致します。

(昭和61年4月1日発行 第43号)


『記念の秋に』

 

 静かなおちつきが見られるようになった神社の森で、とどこおりなく御英霊のお祭りを続けさせていただき得ますことを有難いことと存じます。

 今夏のみたま祭や終戦の日英霊感謝祭をはじめ各行事は、全て好天つづきで、暑さの中にも例年にない涼風に恵まれました。

 遺族会の皆さんには、祭典や永代祭命日祭の御参拝はもとより、何かにつけて格別の御盡力をいただき、殊に炎天下に境内の清掃に励んでいただくお姿は、まことに尊いものと存じます。益々の御清祥をお祈り申し上げるものでございます。

 過日、神社の奉賛会の発足をいただきましたことは、県民挙げて御英霊を奉齋すべき草創の心にかなう目出度いことであります。山下正夫会長さまには、以来しばしば御高配をいただき、御指導賜わっております事をありがたく存じております。

 その規約にもとづき初年度を終るわけですが、実質は、発足以来半年に満ちませんということもありまして、未だ広く県下に趣旨が知られない恨みがあります。職員共々事務的に一層努力して参りますが、格段の御助勢を切望申し上げます。

 とりあえず、新らしい年度と共に講演会の実施、冊子の発行へと進め得られる筈でございます。

 今年も秋の大祭を迎えて、御参拝をお待ちするわけでございますが、本年は、昭和五十年十月二十七日に当神社に両陛下の行幸啓を賜わりましてから満十年となり、まことに意義ある記念の年でございます。御在位六十年のよい年であることと合せ、御代の長久弥栄を謹んで祈念申し上げます。これを機会としていよいよ御神徳の発揚を計り、諸事業を進めなければなりません。

 下って私、三重県神社庁長を五期十五年間にわたってつとめ、役員としては約三十年間となりました。これ以上長期にわたることは如何とのかねてからの考え通り、お願いして退任させていただくことが出来ました。その間大過なく終始出来ましたことをお蔭とお礼申し上げます。

 当神社の宮司就任に当っては、公式には神社庁長としてということではありませんでしたが、やはり当然関連がありますので、直ちに辞表を出ささせていただきました。しかし役員会に於て辞職を認められず、関係各位の御高意を拝聴し、神社本庁と神社庁新役員との同意を得て、引続き宮司をつとめさせていただくことになりました。この際決意新たに御英霊奉祀に精励致し度う存じますので、よろしくお願い申し上げます。

 御遺族、奉賛会員、又崇敬者の方々の御健勝を祈り、世の中の正しい発展を待望するものでございます。

(昭和61年10月1日発行 第45号)


『桜咲けども』

 

 今年も春が巡って来ました。野に山に草木が芽吹き、花々がひらき、若葉が萌え、蝶が飛び交う好季節を迎えました。御健勝を何よりと存じ上げます。

 時候が良くなれば良くなる程に、年々歳々花は咲けども人同じからずという感が深いものがあります。まして戦歿御英霊の上を憶うことひとしおなものがございます。

 この神社の桜の木々は、お宮がらにふさわしく咲きそろいます。桜のみならず、境内の樹木は志あつい方々の御奉仕によって緑のおちつきを増しております。清掃の御奉仕もありがたいことに存じます。

 そんな中で、毎日の参拝をお迎えしておりますが、一昨年より昨年、昨年より今年と参拝の数を増しております。

 九段の靖國神社の御本殿の解体がいよいよ始まりました。明治二年御鎮座創立以来百二十年を昭和六十四年に迎えることを機会に大修理をはじめられたわけでございます。幸い殿舎の腐蝕は予想よりは少い様には聞き及びます。御遺族の方々からは、この大修理に対して浄財を沢山に御奉納賜わりました由拝聴し、感銘申し上げました。

 靖國神社の遊就館が改めて昨年夏開館されましたことは、御承知のことかと存じます。以来半年の中に既に十一万人の参観者があったそうです。御参拝には従来よりも時間の余裕をつくり、是非見ていただき度いとの伝言がありました。

 この神社も同じく明治二年に創建されました。普通各県の護國神社は同じ目的で同じ頃に出来たように考えられるようですが、それは違います。特に創立の時期は各県で随分異っております。

 津市八幡町の八幡神社境内に藤堂藩によって戦歿藩士を祀られたのが、偶(たまたま)明治二年でした。同年であることは偶然であっても意義深いものと存じます。

 従って当神社としましても、来る昭和六十四年を御鎮座百二十年の記念の年として、一層御英霊の祭祀を盛んにすることを考えて行かねばなりません。色々と御高見を拝聴出来れば幸いと思います。どうかよろしくお願い申し上げます。

 それにつけましても、神社の奉賛会を発足いただいてから一年間を経過致しました。造営奉賛会員と戦友の方々とから、県民の方々に広く奉賛の輪をひろげて行かなければなりません。これからの御指導御協力を願い上げます。

 近頃県内の処々にお話に参上しますと、他の団体の会合でも御遺族はじめこの神社の関係の方々がお顔を見せられ、激励を賜わりありがたく思っております。

 益々の御清祥をお祈り申し上げます。

(昭和62年4月1日発行 第46号)


『相共に仕え奉る』

 

 恒例の祭典や行事を、お蔭さまでとどこおりなくとり行なわせていただいております。そんな中で、参拝に来られる方々の人数が年と共に増加を続けておりますことをうれしく存じます。

 御英霊の神前に参拝されるのを拝見するにつけ、真心あふれる拝礼の姿勢に心うたれる毎日でございます。それは心からなる参拝であって、勿論誰かに強制されて参拝なんていうことは、只の一人も居られないことは申すまでもありません。

 戦没御英霊を祀ることは、宗教を超えた自然の心情であります。国のためにたおれた御英霊を国が祭祀することは当然のことであります。

 それが今、宗教法人として憲法に規制されるとしても、日本の憲法も世界の進んだ国々の憲法も信仰の自由を進めるものであり、決して宗教を弾圧したり、侮蔑したり、世の中から宗教を取除こうとするものでは決してありません。

 憲法は宗教を好意的に助長するものでなければならず、現にその通りなのであります。ただ、特定の宗派のみに特権を与えたり、参加を強制することは禁じております。人々がみずから進んで参拝し礼拝することには本来問題はないのです。憲法のために国民があるのではなく、国民のために憲法があるのです。

 最近の報道によりますと、五百年程前にコロンブスがアメリカ大陸を発見した時に乗ったサンタマリア号があらためてメキシコで造られたそうです。そして新世界アメリカから旧世界ヨーロッパに向けて、平和のメッセージを伝えるため出帆するとのことです。

 生命の源という海を見直し、海の汚染を調べたり、鳥獣の生態を調べたりするとのことで大へん結構なことです。しかし人間はもの忘れがひどいというか、「平和の尊とさを訴える」とありました。平和どころか、新世界の原住民を皆殺しのようにしたのが白人の歴史ではなかったでしょうか。

 それに対して、わが国の大戦は植民地帝国主義の侵略から東洋を世界を守った戦いであった筈でした。

 今年の夏、比叡山で世界各地から代表的な宗教者が一堂に会して宗教サミットが開かれました。比叡山は大陸直輸入の奈良仏教から脱皮して、平安時代と共に日本仏教を創始し、鎌倉時代の諸宗派を創立せしめたところでした。日本の日本らしい宗教であればこど返って世界に通用する教えであり、そこには仏教そのものというよりは日本の道が生きています。世界宗教サミットを初めて行い得たその源泉をうれしく思うものです。

 当神社の奉賛会は二年を経過しようとしており、いよいよの発展が望まれます。

 別項のように新しい責任役員に二先生の御就任をいただきました。私共としても一層の努力を誓い合っております。

 一層の御健勝をお祈り申し上げます。

(昭和63年10月1日発行 第48号)


『太平をめざして』

 

 時の流れは早さを加え、菜の花畑に蝶の舞う春を迎えました。

 今年は例年になく天候の良い正月で、それ以来今日まで好天が続いており、梅花・桃花・桜花と皆早目に咲き競うようでございます。

 そのようなお天気の中で、各地の社寺の参拝は夫々に多いようですが、この護国の御社頭にも御遺族はもとより、戦友の方々、一般県民の方々の御参拝を沢山にお迎えしております。

 例年この神前でとり行なわれる三月のひな祭も、そんな空気に包まれて年々盛んになり、今年も次々に可愛いお子さんたちが、ひな人形の平安衣装を着けて御英霊の神前に詣で、玉串をささげ、記念写真を撮る風景は楽しいかぎりでございます。

 おひなさまをつとめるお子さんの御父兄の晴れやかな喜びの笑顔を迎え送るにつけて、平和の尊とさありがたさをしみじみと感ぜずにはいられません。

 この愛すべき幼児たちはもちろん、その御両親や御家族の方々が、戦争というような苦しみ悲しみを受けねばならないような世の中には、決してしてはならぬと、心からお祈りしたいものでございます。

 神社の奉賛会の結成をいただいて二ヶ年を経過しました。順調に推移します中で、創立におつとめいただきました山下正夫先生のあとを受け、新らしく「英霊に応える県議会議員の会」の会長野中林兵衛先生が、昨秋の総会を機会に奉賛会長に御就任いただきました。これを機として新たな躍進を計って行かねばなりません。

 先に神社の責任役員三谷先生のあとを宇野先生の御就任をいただき、昨年は松岡先生の後任に村上先生が着かれ、更には約三十年にわたり役員をおつとめ下さった西口先生亡きあとを山内先生の御着任を賜わることが出来ました。それにつけましても時代の変遷を痛感するものでございます。

 時あたかも御鎮座百二十年、御地への御奉遷八十年、更には三重県護国神社という神社名を申し上げますようになりまして五十年という記念の時を明年迎えようとしておりますことはかねて申しております所でございます。

 神宮式年遷宮の御斎行を昭和六十八年と予定され、全国各地の奉賛会の結成が進められております。そして今年は宇治橋の仮橋が掛けられ、本橋は来年完成とお聞きしております。

 この機会に、当神社としましても奉賛会の組織の拡充につとめ、又記念の事業の実現をして行かねばなりません。皆様の御高見を拝聴致したくお願い致します。

 御遺族崇敬者の方々の一層の御健勝をお祈り申し上げます。

(昭和63年4月1日発行 第49号)


『秋の空』

 

 今年の夏は天候が不順でございましたが、如何がお過しでしょうか。神社では日々の御参拝を迎え、お陰さまでとどこおりなく奉仕を続けさせていただいておりますことをお礼申し上げます。

 秋の深まりと共に、秋季大祭の時期となって参りました。この季節になりますと、秋晴のもとに両陛下の御親拝を賜わりましたことを憶い出します。

 この夏、陛下が終戦の日に武道館での追悼式にお越しになりましたり、那須への御往復のお姿をテレビで時々拝見させていただきました。昨年の御病気が快癒されましたことをお慶び申し上げ、一層の御長寿をお祈り申し上げたいと存じます。

 式年と万灯みたま祭につきましては、三日間の内二日間は雨という状態でございましたが、それでも御遺族をはじめ多くの御参拝をいただくことが出来ました。久しぶりに写真コンテストも行なわれ、八十数点の作品が寄せられました。仲々優れた作品が多く、駅前での作品展は好評でした。例年のように書画や提灯の御奉仕をいただきました方々にお礼を申し上げたいと存じます。

 奉賛会の講演会が開催されました。昨年に続いて第二回目で、今年は東京から名越二荒之助先生をお迎えすることが出来ました。会場はぎっしり満席で、先生の熱意あふれる講演に感銘深いものがありました。時間の経つのを忘れる程で、先生自身も聴衆も期せずして時間の延長を大巾に望み合うこととなってしまいました。

 お話に関連して、月章旗と東郷ビールとの実物を持って来ていただき、購入の希望者が相継ぎ、後刻追加を送っていただきました。

 月章旗は、日本をなつかしみ日本に感謝して、太平洋の真中のパラオの國が日章旗に似せて、その國の旗を青い海原の中に黄色に丸の月を配しているものです。

 東郷ビールは、フィンランドのビールで、東郷元帥の肖像を両面につけて、ヘイハチロウ・トウゴウ一八四七~一九三四と解説して元帥をたたえております。

 フィンランドは面積がわが国と同じ位いで、ナトウ北大西洋条約浅橋の最前線にあり、昔日露戦争を戦った日本に近親感を持っております。それにバイキングの子孫で、アムンゼンをはじめとする海洋探検家も多く、海の開発について今世界でも最も進んだ国と言われております。しかも新らしい海洋牧場・栽培漁業を進めるについて、自然を尊び感謝することを出発点としていることは、これからのわが国として見習わねばならないでしょう。

 前号で申しました当神社の御英霊奉斎に、記念すべき来年がいよいよ近づいて参りました。意義ある年にしたいものでございます。

 益々御健勝で世の中のためお家のため、御活躍下さいますようお祈り致します。

(昭和63年10月1日発行 第51号)


『昭和は終っても』

 

 昨年来、天皇陛下の御不例について、お見舞の署名に参上した国民の数は一千万人にもなるとのことであります。崩御された悲しみの極みにあって、弔問署名の誠を捧げた人々も、わずか数日で四百五十万人を越えたということでした。

 激動の昭和の時代を、国民と苦しみを共にされた天皇陛下の崇高な御聖徳のあらわれと申すべきであります。

 二月二十四日の御儀が、世界中の首脳を迎えて行われ、国民こぞってテレビを通じ遥拝追悼申し上げたことでございました。

 当神社の御社頭に親しく行幸啓あそばされた、あの晴れ渡った秋空のもとでの御温顔を忘れることは出来ません。

 この度靖国神社の方々と全国の護国神社の宮司と共々に、武蔵野の御陵所に私は参上し拝礼をさせていただきました。掘り開かれた山肌の真新らしさに重いかなしみを抱きながら、言葉に盡せぬ思いを込めて深く深く頭を垂れて参りました。

 御在位中のかぎりない御高徳をあらためて偲び、謹んで奉悼申し上げます。

 ところで、かねて申してまいりましたように、今年はこのお社が御創立になりましてから百二十年の記念の年であります。靖国神社も同じ明治二年に御鎮座になりましたが、同じ年に御鎮座創立されました護国神社は全国で十二社と聞いております。

 はじめ藤堂藩により、津の八幡神社境内に御鎮座になりました。それで神職も当初は八幡神社の社家である石上家が奉仕しておられました。

 今年の記念の大祭には先づ八幡神社に正式に参拝し、旧跡を顕彰したいと存じます。

 又、明治四十二年に当地に御遷座になり、官祭招魂社としての御神威が高まりましてから丁度八十年にあたり、更には昭和十四年に現在の社名となって、指定護国神社としての重い待遇を受けられるようになりましてから正に五十年という年にもあたるわけでございます。

 これを機会として、御遺族との連係を一層密にし、奉賛会の充実発展を計り、本来の全県民のお社として御神徳の発揚をはかって参らなければならぬと思います。

 又、御社殿その他建造物の補修、境内の整備を進め、新らしい機器を導入し神務の内容の充実を期して参りたいと思います。

 昭和の御代は終っても、御英霊として更には御遺族戦友崇敬者にとって、このままでは戦後は終ったとは言えません。

 従来から御理解御奉賛をいただき感銘至極に存じておりますが、この際格別の御協力を賜わりたく、職員一同益々の精励を期しております。御健勝祈り上げます。

(平成元年4月1日発行 第52号)


『記念の年に』

 

 御健勝で爽やかな秋の好季節を迎えられましたことをお慶び申し上げます。

 夏の式年みたま祭には、暑さの中を御遺族や奉賛会員の方々を沢山にお迎えすることが出来ました。万灯みたま祭と致しましても、行灯や提灯を御奉納いただき、第三日には雨もありましたが、兎に角盛大に有意義に終始出来ました。永代献灯が年々増加し、子供献書画も年と共に増えており、掛ける場所を心配しなければならないようなことです。御神忠の御誠意を感銘申しております。

 終戦の日には例年の英霊感謝祭を執り行いました。武道館での戦没者追悼式の様子はその感謝祭の中で例年のように参列の方々と共に謹んでラジオで拝聴いたしました。新しい天皇皇后両陛下は、昭和の天皇さまと同じようにこの式典に臨まれ、親しく御拝をされおことばを賜わりました。胸にこみあげるものをおぼえました。

 天皇陛下には喪のあけられました来年、十一月に御即位の礼と大嘗祭とを行っていただかなければなりません。それはわが国の存続について最も大切な儀礼式典であります。陛下が神祖天照皇大神さまの神霊を受けて、真の天皇となられる上古以来の欠かすことの出来ない伝統であります。

 これについて、今年の奉賛会の講演を皇学館大学の新しい学長である谷省吾先生にお願いしました。別項記事にありますように七月二十八日先生をお迎えし、会場一ぱいの聴衆の方々と共に熱誠あふれる大嘗祭のお話をうかがうことが出来ました。何を描いてもこの大礼大祭が立派に実行されなければならないことをあらためて痛感致しました。

 以前から屡申しておりますように、今年は御創祀百二十年、当地へ御遷座になりまして八十年、そして御社名が今の御社名になりまして丁度五十年の記念の年でございます。予定致しましたように、記念のお祭や事業を進めさせていただいております。然しその意義につきまして、関係者さま更には県民一般の方々に充分な御理解を得るまでになって居ないように思い、尚も趣旨の広報を申し上げたく、何分よろしくお願いいたします。

 特にこの際、永い将来にわたっての御遺族との連係、神社としての待遇の永続を計るべきであり、名簿等の充実をして行かねばならぬと存じます。御協力をお願い申し上げます。

 又奉賛会員の増強を更に増進しなければなりません。私共と致しましても努力を傾注致したく、これ亦何かと御助勢下さいますよう願い申し上げます。

 国の内外、時々刻々と変化し極めて多端な時を迎えております。それだけに民族の誇りと使命感を明らかに、御英霊の祭祀を盛にしてゆかねばならぬと存じます。

 寒さに向います折柄、御清祥祈り上げます。

(平成元年10月1日発行 第54号)


『皇紀二千六百五十年』

 

 靖国神社におかれましては、御本殿以下の全面改修を目出度く終えられ、荘厳な神殿を晴れやかに再び仰き得ることになりましたことをお慶び申し上げ度いと存じます。

 造営工事の間はしばらく止められておりました新しい御英霊の合祀が再開され、今春は三重県でも新しい合祀を奉仕させていただきました。

 昨年は式年記念の年として、色々と御協力を賜わり、予定に従いまして記念の祭典をとり行うことが出来ました。又神殿、宝殿、参道、社務所等の造営工事も終了出来ました。工事については社頭の標示を残すのみでございます。

 唯連絡のとれなくなっております御遺族のお家の調査連係のことと、広く県下に奉賛会を発展拡充することとは、短時日で出来ることではありません。昨年を出発の年としまして、毎年目標達成に向って努めて参りたいと思います。御指導御協賛の程をお願い申し上げたいと存じます。

 田村遺族会長さまには、衆議院議長としてその重大な責務を完うされ、護国神社関係として又郷土三重の誇りであり、御国の行手に光明を輝かしていただきました。お蔭でわが国の将来が明るさをとりもどそうとしており、ありがたいことでございます。

 それに対し世界各国の様子はただならぬものがございます。私は昨年夏、パリアッシュサミットの直前、米国のブッシュ大統領が東欧を訪ねました頃、東ヨーロッパ宗教事業視察団の団長として全国の有力な神職の方々と出かけて参りました。

 その頃から、ポーランドの連帯の勝利。東ドイツの人達がハンガリー、オーストリヤを通って西ドイツへの移動にはじまり、遂にはあの冷酷なベルリンの壁が瓦礫と化し、ルーマニア大統領の銃殺となろうとは思い及びませんでした。嘗てのハンガリー動乱やプラハの春や最近の天安門のように、所謂民主化が失敗することなく進んでおります。これからもドイツ統一問題やソ連内部の重要な問題がどのようになりましょうか。

 いづれにしても、あの辺りの各小国は有史以来四方を強大国にかこまれ、第一次第二次大戦の戦場となったり敗れたりしながら共産圏に組み込まれながらも、常に国と民族の誇りを忘れず、昔の王や英雄を尊敬し、戦没の勇士の遺徳を追慕して来ました。それこそが今日まで国民として民族として生きて来得た最大の源泉であり、民主国家成功の基であったと思います。

 わが国は今年皇紀二千六百五十年の佳い年を迎え、秋には御大典を全国民の奉祝をうけて行っていただかなければならぬと思います。

 御英霊奉祀の意義は益々重要なものがありますことを痛感致します。

(平成2年4月1日発行 第55号)


『伝統を現代に』

 

 神社の境内で育っているボーイスカウトは、今年の夏新潟県妙高高原での日本ジャンボリーに参加したり、伊賀町の春日神社でお世話になってキャンプに励んだり致しました。

 そのボーイスカウトが昨年からフラワーオアシスということで、安濃川の堤に植えた花の草木が殆ど枯れてしまう位い暑い夏でございました。

 そんな暑い日々にもかかわらず、みたま祭は例年にも益して多くの御遺族や戦友、県民の皆さんの参拝を迎え賑々しく執り行うが出来ました。終戦の日英霊感謝祭も意義深く終りました。

 ようやく秋の好季節となりましたが、皆さま御健勝何よりと存じます。

 昨年末東欧中欧の大変革を見、ソ連の変化、更に東西ドイツ統一の気運の中で、米ソの対立が一応の道を見出し、世界に明るい平和が見えようとしておりました。

 ところがイラクのクウェート侵攻以来、国連の決議、アラブの諸問題、人質戦略と仲々容易なぬらものがあります。

 わが国内でも色々の問題があり、特に神社をとりまく現状はきびしいものがあります。

 東京で三神社の同時放火があり、奈良でも同様でした。特に大嘗祭の悠紀の国、秋田県護国神社が放火全焼しましたことは、まことに残念でなりません。

 御英霊とその御遺族、そして靖国護国の社に関わる人達は最も平和、世の中の安泰を祈り願っているものでありますのに。

 十一月下旬には両陛下の伊勢御親閲があります。

 昭和三年の御親閲の頃、私は幼児でありましたので、近衛騎兵隊の紅白の旗の列を前後に配して、お馬車の進行は実に厳かにも華かに、太平の絵巻のように記憶しております。

 ところが最近当時の記録を調べて見ましたら、宇治山田は勿論県下鉄道沿線では、警察官や陸海軍将兵その他数千人の厳重な警備を行っております。それが礼儀というもの。

 まして昨今の状勢、特に護国神社として各関係方面の御指導御協力を得て、機器も充実し奉護の実を挙げようとしております。何分の御助勢をよろしくお願い申し上げます。

 昨年当神社奉賛会で貴重な御講演を賜わりました皇学館大学谷省吾学長先生に、その御著作『教育と教師』を頂戴しました。

 その初めの方に去来が伝えた芭蕉の言葉で「不易と流行」ということが書かれております。不易とは千歳にかわらぬ伝統であり、流行とはその時代の姿。不易を知らねば本が立たず、流行を学ばねば風があたらない。両方が備わるべきで、一時の流行に秀でても他日流行の場では一歩もあゆめないという。

 新らしい平成の時代の、伝統にもとづく御大典が盛大に終始しますようお祈りしましょう。

(平成2年10月1日発行 第57号)


『平和な世界を』

 

 ようやく花咲く春となって参りました。暖冬と言われながらも寒い時節が長いように思いました。如何お過ごしでございましょうか。

 昨秋は御大典が行なわれ、即位式・大嘗祭等とどこおりなく執り行なわれ何よりでございました。ニュースで拝見したり、大嘗宮を拝観して、わが国の尊い良さをしみじみと感じさせていただきました。

 引続き伊勢御親閲をお迎え出来ましたこともうれしい事でした。

 当神社でも即位式当日祭・大嘗祭二日前臨時大袚・前月末大袚・前々月末大袚・大嘗祭当日祭等を斎行しました。

 今年二月には立太子の礼が執り行なわれ、神社でも立太子の礼当日祭を斎行することが、出来ました。

 それら奉祝の祭典の他、奉祝行事を行ったり、参加させていただきました。

 それにつけましても、警備につとめなければならないのは残念なことでした。神社としての特別警戒の規則を改正整備しまして、連日連夜の警備に当りました。御遺族や関係者の方々、近隣の方々の御協力をいただき、公安関係方面からも格別の御配慮をいただいたことをお礼申し上げます。

 特に夜間の境内通行を禁止しまして、御参拝に御不自由をかけましたことをお詫び申し上げます。幸い今日まで何の事故も無く過して参りましたことを感謝申しますと共に、今後も充分気をつけて参りたいと思いますので御理解を賜わりますようお願い申し上げます。

 湾岸戦争は実戦となってしまいましたが、幸い比較的短時日で終結を見るようになりましたことは何よりと存じます。

 現代の戦争は、想像も及ばない苛烈なもののようでございます。

 東洋と世界の平和のために自命を捧げられた、尊い御英霊の上を改めて憶いおこすものでございます。

 湾岸戦争で亡くなった方々、傷つき、家を失った方々、家族を亡くした方々の上をおもう時、やはり他人ごととは思えません。

 戦争直後の処理に始まって、何とかして世界中の人類が喜び合い助け合い得る、本当に平和な世の中になりますよう祈らずにはおれません。一層御健勝で御活躍下さいますようお願い申し上げます。

 

 欠員となっておりました当神社の新らしい責任役員に、元三重県出納長の稲森一雄先生の御就任をいただきありがたいことに存じております。今後よろしくお願い致します。

 一方かねてお世話になって参りました小林祢宜が、健康と一身上の都合で退職致します。同君に寄せて下さいました今日までの御高配を私からも感謝申し上げ、同君自身の多年にわたる奉仕の功績を称えたいと存じます。

 これに代って今春から男女各一人の新卒職員が奉職致します。御指導の程願い上げます。

 御参拝の受入れ、行事の推進について、従来からの道筋は真っ直に伸ばすと共に、新らしい時代の新らしい道を開いて行くべき時、よろしく御鞭撻賜わりとう存じます。

(平成3年4月1日発行 第58号)


『もろともに』

 

 御英霊の祭祀に、いつも格別の誠心をよせていただきますことを有難く存じます。

 昨今は交通機関の発展と共に、世界が急速に狭くなり、地球上各地の事情が直接お互いに響いて来る忙がしい世の中でございます。

 そんな時、この社報も発刊以来三十年、第六十号を数えることとなりました。

創刊は昭和三十五年十月十日となっています。林宮司、知事、県議会議長、津市長、県町村会長、神社本庁統理、神宮大宮司、靖国神社宮司、県遺族会長、婦人部長等の皆さんが挨拶を書いておられます。

 その中で、遺族会堀江祥子婦人部長様はお若いことでもありますので、今も益々お元気でお役をおつとめ戴きうれしいことでございます。一層の御健勝をお祈り致します。他の多くの方々は故人となっておられます。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

 創刊の趣旨は、造営の完成報告と、陛下から終戦十五年の御幣帛を頂戴し、臨時大祭を行ったことにありましたようです。

 斎藤昇遺族会長様の御霊賛歌、宮司様の講話の集録が出ております。永代講の勧誘があり、第一番に樋口博様の芳名が載っています。

 第二号までは時代の風として、藁半紙のようですが、第三号からは少し白い紙になって来ます。

 第二号に後の皇学館大学長久保田収先生の文があります。第三号には三重の塔建設成った慰霊祭の文があり、建設に蔭ながら干与した一人として思い深いものがあります。第四号に大村祢宜逝去が見られ、同期であるだけに追悼の意を禁じ得ません。

 十年間程は年一回とは出来なかったようですが、二十数頁、三十頁近くにも及ぶものがあります。

 昭和四十七年三月発行の第九号に林宮司様の最後となった御挨拶があり、病躯懸命の春の慰霊大祭御奉仕を憶い出します。

 次の第十号から年二回となり、その後年三回ということで、六十号を迎えました。

 第二号に、遺族生活体験記録として、鳥羽の近藤菊恵様の「還り来ぬ夫に捧げて」という三頁もの文章があり、二十五首の短歌が入っています。その締めくくりの所に、

「私はいつまでもあなたの座を空けて待っております。諸共に名を並べた墓石には、あの復員を待ちこがれた日のうた、

かへりなばまづ召しませと夏ころも

風とほしつつこころはもとな

をきざみました。」とあります。

 創刊以来の社報を読み返し、常々御参拝いただく御遺族、戦友、奉賛会員、心厚い県民、崇敬の皆さまのお心を思いました。殊に亡き先輩のお姿を追想しました。

 皆様のお力を戴き、御英霊のお祭りをいよいよ盛に、努めて参りたいものでございます。

(平成3年7月1日発行 第60号)


『やすくにへの道』

 

 昭和五十年十月二十七日、先の天皇皇后両陛下が当神社に行幸啓を賜わりました御事跡について、宮内庁から三人の係官が、県市の案内で調査の為に訪れて下さいました。

 当時のビデオを観ていただき、関係書類や写真の他、記念の文書や品々、更に記念碑等の詳細にわたって熱心に調べていただきました。

 予定時刻を大幅に過ぎましても気にすることなく、御乗車御到着の場所から、参道を進まれた現場を案内説明します頃は、夕方と言うよりは夜景となり、神殿の灯火が美しい時刻となりました。

 お話をし当時の映像を共々に拝見しますにつけまして、十五年以上の歳月が昨日のことのように、大きい感激となってよみがえるものがありました。

 それは三月四日のことでしたが、翌五日には恒例の全国護国神社会の総会があり、靖国神社へ参りました。

 靖国神社の御本殿拝殿以下の大改修造営工事が見事に完成し、全国御英霊の神前に昇殿参拝するにつけて、感ひとしおのものがございました。

 御社殿はじめ各所の御造営は、松平宮司さまの十ヶ年計画にもとずき、今回完成を見たものですが、これを期として御自身の予定通り、三月末を以て勇退をされるとお聞きしました。

 その大きい御功績を称える声は多いのですが、松平宮司さまは建物のことよりは、御英霊奉祀のために所謂靖国訴訟等に立ち向って来たことが何よりも第一と申されました。

 今後は名誉宮司等の称号はいただかずに、一国民として御英霊永遠の祭祀のために尽くしたいと申しておられます。益々の御健勝をお祈りいたします。

 三月末日を以て私も本務神社の宮司を、神社の定年制より退任いたします。つきまして当神社宮司としても退職を願出ましたが、責任役員会では今しばらく奉仕をするようにとのこと、神社庁とも打合せ、しばらく奉仕をさせていただくことになりましたのでよろしくお願い申し上げます。

 本務神社の宮司は退任しましても、其処は祖先祭りの場で、祖先祭りには定年はありません。唯、当神社が四月から本務神社となりますので、その事を旧知の各県護国神社宮司さん方に申しましたら、大変喜んでいただきました。

 喜んで下さる諸宮司の言葉を聞くにつけ、この際あらためて心を込め、初心に帰って御英霊の祭祀を盛にし、御遺族御参拝の受入れの向上、奉賛会の拡充を計っていかねばならないと思うものでございます。

 ゆれ動く不安定な世界情勢の中に、御英霊奉祀の道の大切さを再確認し、皆様の御活躍をお祈り致します。

(平成4年4月1日発行 第62号)


『節目の秋』

 

 皇太子殿下の御成婚があり、神宮御参拝をお迎え出来ましたことはうれしく慶ばしいことでございました。皇室御関係で続いての慶事の聞かれますことは、わが国の新しい未来を開くよろこびでございます。

 世界の国々でも王室の厳存する由緒深い国は、さすがにおちついた良さと内政の安定を保っているように思われます。

 伊勢の神宮では、式年御遷宮が極めて厳格に、伝統にもとづきつつがなく執り進められますことをお祝い申し上げます。

 今秋から来年にかけて、御遷宮奉祝の参宮が全国から来県されますについて、県民として心からこれを迎え、共々に佳い年としたいものでございます。

 六十一回に及ぶ御遷宮の歴史は又日本の歴史そのものであり、時代の姿を反映して、夫々に意義深い節目でありました。今わが国の立場は単にわが国に留まらず、世界的に重要な意味を強めております。今回の御遷宮を機として真の世界の平和な発展につながりますよう、一層日々の努力を誓い合い、祈り合いたいものでございます。

 ところで、終戦五十年の年もいよいよ近づいて参りました。実に永い永い年月でありました。同時に又昨日のように忘れられない短い年月でもありました。

 終戦五十年に当っては特に意義深く祭典を進めなければならないと思っております。御英霊にとっても御遺族にとっても県民にとっても大きな節目でございます。

 同時にこの節目で終わるのではなく、永遠にいつまでも御英霊を立派におまつりして行く新しい開始の年としなければならないのでございます。

 又御英霊御自身の個々の五十年祭のお申し込みが近頃次々にございます。前号の記事にもありましたように、神社としましても出来るだけ丁寧なお祭りを奉仕させていただいておりますのでご相談をお掛け下さい。

 近年、年間を通じまして若いご両親とお子さんの参拝も増えており、雛祭や端午祭があったり、七五三詣やお子さんの献書画、或いは子供会のおみこしがあり、ボーイスカウトの活動が境内で行なわれて来ました。

 近々御要望に応えて、ガールスカウトが発団する予定となりました。津市では久々の復活です。この神社へ通い得る地域の女のお子さんの、新しい団へのご参加を、優秀な婦人の指導者がお相手をしますので先づ電話でお問合わせください。

 秋の大祭をはじめとして、日々のお元気な御参拝をお待ちしております。

(平成5年10月1日発行 第66号)


『正しい認識』

 

 神宮の式年御遷宮は昨秋両正宮の遷御が目出たく斎行されましたことを、あらためてお祝い申したいと存じます。

 引続き両宮の第一別宮を終えられましたが、あと十二の別宮の御遷宮が行なわれ、更に百九社に及ぶ摂末社所管社の造修がありますので、未だ御遷宮真っ最中というわけでございます。

 式年御遷宮の奉賛会は、各郡市、各都道府県、そして全国組織が夫々国民氏子の皆さんの赤誠により、立派な成果を挙げて、次々に解散しておりますが、昔からの例の通り、御遷宮翌年は、伊勢は元より、全国の神社参拝が増加を見ております。

 当神社の社頭にも年末年始から春に向い、多くの御参拝をお迎えしております。

 両陛下には昨年の沖縄御訪問、慰霊に続き、この度小笠原等南の激戦の島々を訪ねられ、懇ろな戦歿慰霊を賜わりましたことは、洵に意義深いことでございました。

 当県におきましても、御遺族の御計画によって、今春もグアム・サイパンの現地慰霊が行なわれ、別項報告にありますように、原祢宜が同行させていただき、祭典を奉仕致しました。

 その写真の数々を見せてもらいますだけでも、玉砕の島の尊い熱気を感ぜられてなりません。

 今、世界の真の平和を思い、日本人のなすべき役割を考えるにつけまして、本当の大戦の原因や、身命を捧げて戦われた御英霊の御心を忘れてはならないと思います。

 東京戦争裁判史観でない正しい認識を後世に伝え、日本の正しい伝統を引きつぐと共に、新らしい反省をも加えて行かねばならない重要な時であると思います。

 所で、先号でも少し書きましたように、このお社に関係するガールスカウトの団が、四月一日に発足となりました。

 従来からボーイスカウトの団があり、既に二十年を越え、立派な活動をしておりますが、それと共にガールスカウトが新設されます。

 郷土もお国も世界も、幼い男の子の育成は大切ですが、或る意味で女の子の育成は一層大切です。

 県都津市で唯一の団。御参加を待っており、発展をお祈りします。

(平成6年4月1日発行 第67号)


『真心こめて』

 

 今年はめずらしい程異状な天候が続いて大変なことでございましたが、お元気でしょうか。

 それに国の内外の変化も驚くばかり。変り様と変る早さに、危うく前を見失いそうになります。

 そのような中でも、御英霊に対する御遺族や奉賛会員、更に崇敬者の方々の奉仕の誠だけは変らず続いております。

 神社の責任役員である谷嘉昭先生は、遺族会青壮年部の代表者でもあります。青壮年部はこの秋も丹精の菊花展を奉納されます。又母の像を建立したり、母の日の行事を行う他、特に春秋の大祭での大天幕の設営・撤収等は、今や青壮年部なしには行い得ません。

 同じ責任役員の宇野誠一先生は三雲村長として三重県町村会長であられましたが、この社報四十七号に書かれましたように、戦後間もなく占領軍の軍政下に、春秋の大祭の大祭委員長の制度を定めて下さいました。又その経費の捻出方法も決めて、慰霊永遠の基を建てて下さっております。

 秋の大祭は、県議会議長・市長会長・町村会長が順次に委員長をおつとめいただきます。今回の順は県議会議長の順になり、お願い申しました。

 今、県議会議長は乙部一巳先生です。議長御就任祝賀の盛大な会に青壮年部の方々と参上致しました。乙部先生は遺族会青壮年部の会員であります。加えて当神社の奉賛会長は英霊に応える県議会議員の会の会長が御就任下さる慣例になっており、現在は乙部先生がその奉賛会長でもあります。

 毎春秋の大祭に御奉仕をいただいた諸先生は、皆立派な方々で、真心込めて戴いたわけですが、今秋の大祭はそんな意味で感一入のものがあります。

 終戦から早くも四十九年の歳月が流れ来年はいよいよ五十年。五十年の祭は大きい区切りですが、終結の年でなく、御英霊奉祀の新出発の年でなければなりません。

 一層の御健勝をお祈り致します。

(平成6年10月1日発行 第69号)


『五十年記念』

 

 戦争終結五十年の意義ある年。

 思いかけず関西方面に大震災がありました。罹災された方々に心からお見舞い申し上げます。

 まるで戦災の様だと言う方と、いやそれは又違うと言う方とがあります。昭和十九年の南海地震等は全然報道されませんでした。人それぞれ思いがあるわけです。

 この五十年間。占領が終わってもパレスチナ戦争、朝鮮戦争、ハンガリー事件、スエズ動乱、ベトナム戦争、中東戦争、南アフリカ紛争、アルゼンチン紛争、アフガン侵攻、湾岸戦争等世界の不安が続く中、わが國は兎にも角にも平和と繁栄とを享受出来ました。

 それだからこそ、若くして世の為人の為に尊い身命を捧げられた御英霊の御恩と御遺族の御苦労を忘れてはなりません。

 五十年祭とか、五十年忌法会は一般に最後の法事という考えもあります。確かに、今年は大切な孝養の祭典でございます。

 しかし御英霊のお祭だけは、今年で終わってはなりません。遺徳を偲び、慰め奉る祭を永遠に立派に続け、平和の有難さを語り継がねばなりません。今年はその新しい出発の年でもございます。

 その為に御遺族、奉賛会員、戦友、代表的企業、志厚い県民の方々の御指導御協力を得て、記念の事業を進めて参りたいと存じます。

 その一は記念大祭です。秋の大祭と共に意義深い祭といたします。

 その二は御遺品社頭保存の御依頼を受け、遺品館充実を進めます。

 その三は御英霊と御遺族の続き柄、特に今後お位牌やお墓を守って下さる御遺族を中心に、その周辺の御親族との連係を強めます。

 その四は別のページに稍詳しく書かれますように、拝殿の増設、これは集合参拝で炎天や雨中に立っていただかない為です。お身体の不自由な方の為スロープを造り車を車を備えます。消火防災設備を強めます。境内の整備も心掛けます。

 この記念事業は皆々さまのお力なしで達成できることではありません。どうかよろしく御高配賜りたくお願い申し上げます。

 五十にして天命を知るという昔からの格言は、単に人間の年令のことに限りません。五十年は天の命ずるままに更に正しく新しく邁進すべき年なのでございます。

(平成7年4月1日発行 第70号)


『五十年を意義深く』

 

 天皇皇后両陛下には、戦争終結五十年の今年、苛烈な戦場となった沖縄、原爆の広島長崎を訪ねて懇ろに慰霊をいただきました。

 合せて、護国の御神前に御幣帛を賜わることとなり、これを拝戴して、終戦五十年臨時大祭を、恒例の秋の大祭と共に十月二十一・二十二日両日に奉祀申し上げます。

 大祭委員長は、今春は例年と順が違い、県参議院等の選挙中でしたので、今岡睦之市長会長様に御奉仕を戴きました。そんな事でもあり、特別の大祭でもありますので、お願い申し上げ、新らしく北川正恭大祭委員長様の御快諾をいただきました。

 終戦五十年記念事業につきましては、拝殿の増築が進み、続いて遺品館の充実や御参拝天幕等を納める倉庫の整備、その他予定の通り進捗を見ております。

 これは御神助の下に、御遺族、戦友、心ある県民皆さまの御厚志の賜物と深くお礼申し上げます。

 一方今年は異常な事件が続き、短銃で平和が乱れるのは残念です。

 遠く地球の裏側、南米ペルーでは、日本系のフジモリ大統領が再選され、テロ鎮圧と経済の安定に実績をあげており、ブラジルでは新大統領御夫妻が、日本の移民とその子孫の優秀さを評価し、正直さ勤勉さ、家族制度の良さを称えたと聞きました。

 国内も、将来を安心できるものに改めなければ、身命を捧げられた御英霊に申訳ないことです。

 酷暑の続きました日、愛知県護国神社に、マリアナで水を求め戦没された戦友に水かけ像を造られた村瀬範晃会長様が、その名古屋の隊の戦歴の本を持参されました。三重県からその部隊での戦没が二百餘柱あります。

 戦後五十年で、飯高町小俣町等慰霊の記念碑を書かせて戴きました。又県内はもとより他府県にも招かれ講話をさせていただき、更に各地区の多くの記念誌を奉納いただきました。

 記念誌等の尊い内容は機会を得てお伝え申したいと存じます。

 意義ある臨時大祭に御参拝賜わりますよう、お待ち申し上げます。

(平成7年10月1日発行 第72号)


『新たな決意』

 

 天皇陛下からの御幣帛を賜わり、昨秋は終戦五十年臨時大祭を執り行うことが出来ました。

 三月十一日には、皇居に参内し陛下に拝謁の機会を与えられ、お礼を申し上げさせていただきました。お礼を申しつつ、今後の奉祀に新たな決意を期しました事でございます。

 昨年の戦争終結五十年記念事業は、予定通りと言うより、予定以上の成果を見ることが出来まして御英霊御嘉納と拝察申し上げます。

 お心込めた浄財を御奉納戴き、お励まし賜わりました、御遺族をはじめ、奉賛会員、戦友、県民の心厚い個人・企業・団体の方々に拝眉が本意ながら、取あえず紙面で失礼ながら深謝申し上げます。

 十一月には沖縄での慰霊に同行させていただきました。三重の塔での式の終ろうとする時、一時降りました雨にも、戦禍の神意を感ぜざるを得ませんでした。

 海上慰霊祭、そして米軍が初めて上陸した慶良間の島での慰霊祭等、深い感銘でございました。

 二百五十餘人の御遺族や県の主要な方々と、色々お話出来ましたのも洵に喜しい事でございました。

 今春もフィリピンやハワイでの慰霊団に職員が参上致しました。

 大統領が三重県に最も関係深いパラオ共和国と、県が友好を進めておられます。同国ペリリュー島で日本軍は玉砕し、島民は軍の配慮で移動し生き残った日本の誠意を我々も引継ぎ、世界の人々と広く平和に資したいものです。

 今春、全国護国神社会設立五十周年の式典があり、それに先だち歴代宮司方の慰霊祭がありました。

 本県からも、同会発足以来おつとめ戴きました仲公宮司様林栄治宮司様の御遺族も上京いただきました。

 二十年以上の御奉仕で表彰を受けられた乾英夫責任役員様方と参列をし、戦後奉仕の御苦心を想い御高徳を拝しました。同時に今は亡き遺族会員や神社関係皆々様の上をお偲び申し上げました。

 今年は永久祭祀への新らしい第一年。御鞭撻の程を願い上げます。

(平成8年4月1日発行 第73号)


『天翔ける誠』

 

 一昨年は終戦五十年にあたり、陛下の御幣帛を賜わり臨時大祭を執り行うことが出来ました事をはじめ、終戦五十年記念事業を進めることが出来ました。

 御遺族・戦友・奉賛会員の皆様をはじめ心ある県民の方々の御誠意によって事業を予定以上に進めることが出来ました。

 お陰さまで祭典も奉仕しやすく御参拝にも従来より便宜となりましたことを改めて感謝し続けております。

 昨年は所謂神道指令によって、神社の経営が今のような形式となりまして、全国護国神社会が靖国神社を中心に結成されて五十年でございました。

 今年は三重県遺族会や全国遺族会が発足しまして五十年に当ります。御英霊の祭祀に、戦後の苦しい時代を耐えぬいて最善の努力をして来られましたことを、心から敬意を表したいと存じます。

 戦争直後の当県で、御社殿や境内建物を戦禍に失った一隅に、遺族会と神社庁と神社とが、狭い一つ屋根の下に寄り添い、助け合って苦難を越えて来たことを昨日の事のように憶いおこします。

 過日はインドネシアでの慰霊に参りました。

 江戸時代鎖国日本の西欧への窓口は、長崎の出島を通じてオランダだけでありました。

 当時、オランダは他の西欧諸国に比べ比較的穏かで領土的野心がなかった、と普通には言われております。

 然し、オランダもインドネシアでは、他の国と同じように植民地としてきびしい施策をとって来ておりました。

 先の大戦で日本軍は単にわが国の為でなく、東洋平和、世界の安定の為に戦いました。戦後も独立軍と共に英蘭連合軍と戦い多くの尊い戦没者を出しております。

 今年二月に靖国神社から「天翔ける青春」という新しいビデオを送っていただきました。

 瞳輝く若い若い勇士が、祖国のため人類の幸せのために、再び還らぬ特別攻撃隊に飛び立って行く多くの映像に感激の涙が止りません。加えてパラオ共和国はじめ現地の方々の賛辞にも深い感銘を覚えました。

 今年は御英霊を永遠に盛んにお参りすべき最も大切な年と言いながら既に陽春となりました。御指導御支援を得て努めて参ります。

(平成9年4月1日発行 第76号)


『遺族会五十年』

 

 今年は遺族会が誕生されてから丁度五十年の年であることを、再三申して参りました。

 御遺族の皆さんが、戦後の厳しい苦難の時に耐え抜いて来られた年月は、実に尊いものでした。

 そのような中で、御英霊の遺徳の顕彰慰霊、神社の奉祀につき、常にその中心となってお努めを戴いて来ました。

 この記念すべき年は、極めて大きい節目の年であります。永遠に消滅しない御英霊奉祭のため、一層の御活躍をお祈り申し上げたいと存じます。

 ひるがえって、終戦から逆に五十年前はどんな年であったか。それを憶い返すと、重要な事実を見出すことが出来ます。

 その明治二十八年は、日清戦争が終り、下関で講和条約が締結された年でありました。

 しかし、ロシヤの主唱により、ドイツ・フランスが同調した三国干渉があり、日本の戦利を失った年でもありました。

 日清戦争は、朝鮮半島を属国と考える清国と、日朝修好条規にもとづき半島を独立国と認める日本との、内乱である東学党の乱に関する戦いでありました。

 三国干渉以後、わが国は臥薪嘗胆、隠忍自重していました。しかし具体化して来たロシヤの満州・朝鮮への侵攻が、日露戦争の源となり、次第に大戦へと移行して行ったわけでございました。

 今、国内の凶悪犯罪の急増は目にあまるものがあります。このままではいけない時代です。

 最近或る国際団体で、優秀な約二十人の高校生を外国に学習に出しました。あちらで演奏されたわが国歌を歌えたのは私一人だったと女学生の便りが来ました。選考の時は知っていると答えたが、国歌が君が代と知っているだけで、実際には学校でも歌ったことがないのです。これでは困ります。

 御遺族をはじめ、奉賛会、戦友会、崇敬者、心ある県民の方々と共に世直しに励みたいと存じます。

(平成9年10月1日発行 第78号)


『心に御国の旗を』

 

 今年もようやく春の陽光を迎え花の紅、草木の緑に自然の恵みを感じる季節となりました。

 二月の雪の中では連日長野冬季オリンピックの放映を見たことでしたが、新聞の投書の中に、国旗が掲揚される時外国の選手の多くが国歌を歌っているのに、日本の選手は殆ど歌わないのは残念だったとありました。

 その通りですが、或いは感激の餘り声にならなかったのかも知れません。一人として姿勢を崩している選手が居なかったことは嬉しいことでした。

 今わが国の経済の動向は回復の兆し遅く、暗い風潮が続いております。

 又これまで見聞したことのないような凶悪な犯罪、それも青少年婦人による犯行が続出して居りますことは洵に憂慮にたえません。

 この現況の中で、冬季オリンピックに国旗を仰ぎ得て、世の中が少しは明るくなって来るような喜びを覚えました。

 既にオリンピックは終りました。これからは家々の門口に、そして人々の心の中に、一本でも多くの国旗がひるがえり、一人でも多く国歌の歌声が聞こえて来るような社会をとり戻さねばならないと思います。

 わが国の歴史伝統に誇りを持って、正しく明るい世の中にしていくこと。

 それが本当の平和な安定に向う道であります。自分等の国が平和に安定することは、即ち世界の国々と手を執り合って繁栄をして行く道でございます。

 そのように、もっともっと良い国にする為には、眞心以て若い尊い命を捧げられた御英霊のお祭りを一層盛んにして行くことが第一歩と言うべきです。

 戦後五十年、そして遺族会発足五十年も終って、この春こそは永い未来に向っての御英霊祭への第一年の重大な年でございます。

 御遺族戦友奉賛会員崇敬の皆様の御健勝御活躍をお祈り致します。

(平成10年4月1日発行 第79号)


『真心の祭』

 

 全国的に異常な天候が続きましたが、如何お過ごしでしょうか。

 加えて、食品に毒物混入、経済の長い不況、長距離ミサイルか何かがわが国の上に発射という今年の世相は、このまま放置出来ません。改めて本来の正しい生き方を確立すべき時でございます。

 徳川時代最後の慶喜将軍の話題が、昨今のテレビ番組に合せて続いておりますが、あの明治維新の生みの苦しみは並大抵のものではありませんでした。

 五百年にわたる西欧列強の世界奴隷化、植民地化は、最後に東洋を目ざし、鎖国の中でひとり独立の夢を見ていたわが国にも、鉾先が向けられました。幕府の下に諸藩制のままで良いのか、皇室を中心に挙国体制であるべきか、両論は激しい対立を見ました。話合いがつかず、数次の実力行使の事件が続きました。

 慶応三(一八六七)年、大政奉還となりましたが、最後の事件として翌四(明治元)年の鳥羽伏見の戦から戊辰戦争が始まり、明治二年五月、五稜郭の戦で終りとなり、大教宣布となりました。その明治二年、三重県では津の八幡神社境内に表忠社が藤堂藩により創立され、それが招魂社、官祭招魂社、護国神社となりました。表忠社は御英霊が若い身命を捧げて平和な新国制に尽されたことに感謝し、近代国家を見ず戦没された事をお慰めするお社でした。

 全国の護国神社は一定の時に一定の命令で出来たのではありません。そんな中で靖國神社の前身である東京招魂社は、三重県と同じ明治二年に創建されています。

 靖國神社の創立は明治天皇さまの大御心で出来たと記されますが大御心は又全国民の心でした。

 世界中の神祭は教えの宗教と祭の宗教とあり、西欧の宗教学で言う宗教は殆ど教えの宗教です。

 然し日本の神社、時に靖國護国のお社は専ら祭りの場です。真心を捧げて、世界平和招来の為に、祭り続けなければなりません。

(平成10年10月1日発行 第81号)


『御神威いつまでも』

 

 御英霊の御加護と、御遺族・戦友・奉賛会員の方々はじめ、お心厚い崇敬者や協賛会・桜友会、更には全国神社関係の皆様のお陰を以て、二十七年の間、護国神社の宮司として奉仕出来得ましたことを、ありがたくお礼申し上げます。

 顧みますと、昭和四十七年七月七日宮司を拝命間もない昭和五十年、行幸啓を初めてこのお社に迎えましたことは無上の光栄で、当日好天の下、御遺族が境内いっぱいに座って奉迎される参道を、私先導申し上げ、歩かれた両陛下のお姿は生涯の感動でございました。

 新任の秋の大祭に、例祭用の大天幕の痛みひどく新調を要する事となり、県下有力な方々の御理解御協力をいただいたことでした。

 それが出発点となって、大造営を奉仕しましたところ、大変な誠意あるふれる御奉賛を戴きました。

 当時発足間もない永代祭は、急速に講員の数を伸ばし、又命日祭も日々多くの参列を得ております。

 いつまでも献灯をと私にお申し出がありました永代献灯も増え、みたま祭を照らしております。

 奉賛会発足は意義深く、代々の会長を英霊にこたえる県議会議員の会長さまがお務め戴きます。

 郷土の主要三部隊の慰霊碑が五十年代に建ち、御家族戦友の方々の慰霊祭が続けられております。

 終戦五十年の記念についても、外拝殿の新設その他に格別の御協賛を得、沖縄での記念慰霊祭を勤めさせていただきました。

 その他憶い出は尽きませんが、それもこれも御高配の賜です。三ヶ年保つかと言われ私は倒れるまで御奉仕をと考えました。

 然し従前最も長く勤められたのが、本庁総長までされた立派な先輩の林先生で、十七年でした。時代の変化と共に若い人に交代すべきものと思います。神社庁長退任の時も、猿田彦神社退職の時も、辞退を願い出ましたが入れられぬまま年月を経てしまいました。

 又昨年骨折してから身体の安定悪く、更に足の爪が変形して座るのが不自由になりました。これでは祭典中不作法になりかねません。

 殊に今回神社本庁最高の長老の称号を思いがけず頂戴することが決まり、昨年末本庁評議等を退任致しました。長老は後進に道を譲る慣習の様で、今回は全役員様方気持ちよく御了解賜りました。

 新任の当時を思いますと、遺族会会長であられました斎藤昇先生、責任役員の三谷先生、西口先生をはじめ殆どの先生が亡くなられました。祢宜の村田君も故人となり、当初からの多くの職員ひとり一人が積み重ねて来た努力を追想し感慨深いものがあります。

 今度の後任には長年私と共に奉仕を続けて来ました原祢宜が昇格することを、本庁人事委員会で了承決定し発令戴きました。日常は私以上に判っておりますが、宮司には又別の責任があります。皆様よろしくお願い申し上げます。

 三重県神社庁は、従来通り全神社関係者挙げて御支援下さるとのこと。お礼旁に待望申し上げます。

 宮司を退かせて戴きましても、御英霊の祭祀は後の世かけて務めねばなりません。今後共陰ながら出来るだけ助勢させていただくつもりでございます。

(平成11年4月1日発行 第82号)