慰霊祭祭文

-津市以外-

 

三重縣護國神社で行う慰霊祭では、参列者の代表が祭文を奏上する次第ある場合があります。

その一部をご紹介します。

祭文は「祭文」から始まるのが通例ですが、「祭詞」や「祭辞」、「追悼文」、「追悼の辞」、「慰霊のことば」等という文言から始まるもの、いきなり本文から始まるものがあります。尚、祭文の原文を尊重していますが、文意を損なう明らかな誤字については一部訂正しました。


【歩兵第五十一聯隊慰霊祭】


 祭詞

歩兵第五十一聯隊に所属して戦没された方々の慰霊祭が、かつての戦友であつた人々によつて執り行なわれるに当つて謹んで神鎮まります英霊に申し上げます。

皆さまは私共の郷土部隊であつた歩兵第五十一聯隊が再び編成されたとき、この部隊に加わり、或いは再び下賜された軍旗に縁の深い久居の留守隊から出征されたのでありまして、県民ひとしく聯隊の武勲と皆様の武運とを祈念していたところであります。

御出征以来、華中方面において永く警備と作戦に従事せられていたのでありましたが、戦況の悪化に伴い、南方の急を救うべくビルマに転出せられ、かの極めて困難であつたインパール作戦とその後の撤退作戦に参加せられたのであります。

この作戦は絶対優㔟な敵に対し、特にその制空下において悪疫に悩まされ、補給も受けず嶮山大河の障害を突破しての悪戦苦斗の連続でありまして、皆様の多くは、この間に敵弾に傷つき病魔に冒され、あたら春秋に富む身を異境の地の土と化せられたのであります。

御無念御不運のほど、また御遺族様の御悲嘆如何ばかりでありましたでしょうか、誠に誠に御同情に堪えない次第であります。

どうしてお慰めしてよいか術もないのでありますが、御血潮をもつて染められましたインド及びビルマは戦後それぞれ独立することができ、かつてわが国の悲願であつた東亜解放の一端が実現することができました。

また、わが日本も独立国家として国際社会に復帰でき、近来国力の発展、国民生活の向上等、めざましいものがあり、相次ぐ災害をうけた本県も漸く復興し、御遺族様の生活も一応御安心して頂ける域に達しました。

これひとえに皆様の尊い犠牲の御賜であると共に、英霊のお導きによるものでありまして、これを御報告することができるのが、せめてものお慰めではないかと存じます。

今後、私共一層力を併せ、国力の向上と社会の発展を図り、御遺族様が御多幸になるよう努力いたしたい覚悟であります。

皆様、何卒御安堵のうえ、御静かに神鎮まりますよう御祈り申し上げます。

 

昭和三十六年四月二十三日

三重県知事 田中 覚


【歩兵第百五十一聯隊戰歿者慰霊碑除幕式並びに慰霊祭】


 祭詞

秋風に昔を偲ばせるこの季節、今日のこの佳き日、戦友の皆様の御尽力により、歩兵第百五十一聯隊戰歿者慰霊碑の除幕式並びに慰霊祭がこゝ三重県護国神社の聖域に於いてかくも盛大にかつ厳かに挙行されますにあたり、遺族を代表し、関係者各位の皆様に心からの御礼を申し上げますとともに、御英霊の皆様に謹んで祭詞を申し上げます。

光陰矢の如く、あの痛ましい現実は三十有余年の年月が夢、幻のごとく、かき消そうとしています。

御英霊の皆様、貴殿方は只只、祖国日本の平和と繁栄を念じ、愛しい妻・子、父母をあとにして、あるいは北へ、あるいは南の地獄の戦場に派遣され、夜を日に継ぐ強行軍に寸暇もなく、空腹と悪病に悩まされながら、勇猛果敢に奮戦され、ついに再び祖国日本の土を踏むことなく、雄々しくも哀しく散華されたのであります。

時は移り、世は変るにつれて、人の心の裏から忘れ去られようとしているこの痛ましい出来事は、貴殿方と共に飢えに耐え、病魔をおして、共に生死の境をさまよって、奇しくも生還された戦友の皆様と後に残された私達遺族の胸の裏には、今もって強烈に焼きついて残り、永久に消えることは無いのであります。しかしながら、御英霊の皆様、御安心下さい。今、貴殿方の祖国日本は幸にも、その犠牲によって不死鳥の如くよみがえり、今日、世界にその名を覇せ、人々は平和日本を満喫しています。

この上は、私達遺族戦友相携えて、例い世相がどのように移ろおうとも御英霊諸氏の心を心として平和日本、否、世界平和のため猛進し、永久に皆様の御霊を御奉り申し上げることをお誓い申し上げます。どうか、私達の行く末、お力強い御加護を賜わりますように。

乞い願くば、御英霊の皆様、何卒心安らかにお鎮まりくださることを祈念し、遺族を代表し、祭詞といたします。

 

昭和五十五年十月十九日

歩兵第百五十一聯隊

遺族代表

員弁郡東員町

水谷 直


【三重県消防殉職者慰霊祭】


 祭詞

本日こゝに三重県下消防殉職者の慰靈祭をとり行うに当り、謹んでみたまに申し上げます。諸氏は、生前一身をかえりみず、よく消防の精神に徹して或は、火災出動に際し、火煙の中に毅然として放水の筒先を握りつゝ倒れられ或は、炎熱酷寒のさ中に過激な訓練の犠牲となられ或は、台風に際して暴風雨の下、水防活動中に事故に遭遇せられる等、そのときと処は異なるも何れもその職に殉ぜられた方々ばかりであります。就中、昭和三十四年の史上空前といわれた伊勢湾台風に当り、壮烈な最後をとげ、文字通り水防の鬼と化せられた方々の思出は今尚私共の記憶に新たなるところであります。

諸氏逝いて既に幾星霜、今親しく靈前にみたまを拜し、往年の事績を追想するとき、涙新たに哀悼の念を禁じ得ないものがあります。かけがえのない尊い一家の柱石を失われたにもかゝわらず、社会の荒浪をよく乘り越えて来られました御遺族の御心中を拜察するとき、何ともお慰めの言葉もございません。こゝにその御労苦に対し、深く敬意を表する次第であります。

現下、消防の使命愈々重且大を加うるのとき、諸氏が身をもって示された至誠はわれら消防人の亀鑑として、とこしえに本県消防史上を飾り、その業績と令名は万古に朽ちず残るものと信じます。こゝに招魂の儀式に列し、我等消防人一層発憤興起して地域住民の期待にこたえんことを深く期するものであります。

願くば、とこしえにわが消防界を加護せられんことを祈念し、祭文といたします。

 

昭和三十九年三月十三日

三重県消防殉職者慰霊祭

祭主 三重県消防協会長 田中 覚


 祭詞

梅花におふ今日、三重縣消防殉職者二十三柱の合同慰霊祭を執行せられるに当り、縣下市町村長會を代表して謹んで御霊の前に申上ます。

御霊となられた皆様方には前途春秋に富む青年として郷土より将來を嘱望せられた方々でありますが、何れも地元の消防団員として犠牲的精神に徹し、消防その他の災害の防止に当り、身の危険をも省り見ず、尊い職責に精励せられましたが、不幸にも悲しむべき不慮の災禍によつて職に殉せられ忽然として幽明境を異にせられ、公共の礎石となられました。

ひとしく災害防止の重大なる任務に奉仕する身としては、かねて覚悟を有することヽ申しながら志し半にして其の職に殉せられ、更には御遺族の悲しみを思ふにつけ、痛恨の極みであります、

然しながら、皆様の業績は永遠に郷土消防史上にその名をとヾめ、あとに續く縣下消防団員の志気を振いたヽせるに違いありません。

消防の制度に色々変遷はありましたが、変らないのわ尊い郷土愛にもゆる犠牲的な消防精神であります。自治体消防発足以来すで滿十五年を経過し、縣下消防々災の業務も着々と堅実な歩みをつヽけておりますが、文化の進展と共に愈々範囲も拡大し、災害の実情、更に悲惨の様相を呈して参りました。此の時に当り、消防活動の重要性が一層痛感せられるに到りました。

皆様のこの尊い犠牲を無為に終らしめることなく、これを私等の教訓として、また亀鑑として縣下の消防が更に心を新に粉骨の努力を重られることヽ信じます。

願わくば、皆様の英霊、天上にあつて見守られ、安らかに鎭りませんことを。

 

昭和三十九年三月十三日

三重縣市長会長

水谷 昇


【桑名市遺族会慰霊祭】


 祭文

あの悲惨な大戦が終結してから早や六十年の歳月がすぎました。

かえり見ますれば、父の出征以来私達遺族が歩んできた道は真に厳しく辛いものでした。悲しみに耐え、戦後の廃墟と混乱の中で、母と共に歯をくいしばって、あらゆる苦難を乗り越えて生き抜いてまいりました。幸いにも無事成長し、家庭を持ち、子供と孫も授かり、平和な家庭を築いてきました。この様な平和な生活こそ英霊の皆様が望み夢見て、戦っておられた事と思います。しかしその夢をかなえる事なく、故郷を遠く離れた戦地で死ななければならなかった無念な思いを考えますと誠に辛く悲しい思いでいっぱいです。

今やわが国は世界有数の経済大国となり平和国家として福祉国家をめざして発展しております。市場には物があふれ車は一家に二台三台持つような生活になっております。この様な平和で裕福な生活は多くの英霊の皆様の尊い犠牲の上に有る事を決して忘れてはなりません。

私達遺族の経験した苦しい辛い思いを子供や孫にさせないよう、あの戦争の悲惨さを風化させる事なく後世に伝え戦争の無い平和な世の中が続くよう努力する事が英霊の皆様の尊い犠牲に報いる唯一のことであるとおもいます。

昨年、三重県ではあの悲惨な戦争を後世に語り継ぐため、三重県戦争資料館というホームページを開設されました。これに合せて三重県遺族会においても三重平和祈念館というホームページを開き、遺族会館内に資料展示室を開設し、あの悲惨な戦争を二度と起さない様、後世に伝えて行こうとしております。

私達遺族は決意を新たにし世界恒久平和実現のため、微力ながら一層の努力をする事をお誓い申し上げ、追悼の言葉といたします。

英霊の皆様、どうか安らかに御眠りください。

 

平成十七年十月二十一年

桑名市遺族会

伊藤 充登


【桔梗が丘地区遺族会慰霊祭】


本日ここに桔梗が丘地区戦没者各位の慰霊祭を挙行せられるにあたり謹んで哀悼の意を表します。

私どもまちの平和と繁栄は散華されたみ魂のご加護の賜でございます。

今後遺族会の固い結束をはかり、英霊顕彰を道しるべとして努め御霊の鎮静とご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

平成十八年六月十一日

名張市遺族連合会

会長 山本 芳明


 祭文

青葉薫る、今日の佳き日に戦没者御遺族を始め、名張市遺族連合会会長様のご参列のもと、三重県護国神社の社で桔梗が丘地区戦没者春季慰霊祭を挙行するに当り、遺族を代表し、謹しんで追悼の言葉を申し上げます。

私達にとって忘れる事の出来ない戦争も終戦後六十一年を迎え、この間、我が國は目覚しい経済成長を遂げ、今では世界第二位の経済大国となりました。

その陰には、先の大戦で国家の為めに家族や妻子を残し、祖国のために散華された幾夛の尊い御英霊の犠牲の上に、今日の平和国家と経済の繁栄があることを忘れてはなりません。

ひとへに祖国と家族の安泰を念じつヽ、戦場で戦い散華された御英霊の皆様、今日の国内外の情㔟は不透明で、先の読めない時代が到来しました。国際的にはテロ行為の活発化が核兵器の拡散、エネルギー資源の髙騰、環境の破壊と数夛い問題に直面しています。

国内に於いては、郵便局の民営化が成立し、日本国憲法や教育基本法又、年金改革が議論されています。そして社会面では少子髙令化社会が進行し、治安の悪化、とりわけ若手層の非行が増加し、経済犯罪が表面化して来ました。そして特に私達、遺族にとって関心の深い内閣総理大臣の靖国神社参拝が国内外で大きく取り上げられ、中国、韓国ではデモが起きるなど、世論で大問題となっておりますが、小泉総理は五年連続して靖国神社に参拝されたことが、大きな前進となりました。お母さんや親遺族の方々は終戦の混乱期に食べる物も着る物も住む家もなく、一家が一日、一日を生活する為に汗を流し涙して食せず、毎日、ただただ家族や私達子供の養育の為、働き続けてくれました。このお蔭様でお父さんの顔を知らなかった遺児達も立派に成長し、立派な社会生活を終へ、今は年金生活を送る年となりました。

苦難な日々を送られた母親も、今は最髙令に至りました。今こそ、私達戦争遺児は、英霊顕彰の運動に取り組む時期と思います。戦争を知らない世代が過半数を占める今日、戦争の悲惨さを風化させることなく、私達の子や孫の世代が御英霊に感謝を申し上げ、御英霊の安らかならんことをお祈り申し上げ、追悼の言葉といたします。

 

平成十八年六月十一日

名張市桔梗が丘地区遺族会

会長 山岡 宏久


【員弁郡遺族会慰霊祭】


 追悼の言葉

本日ここに員弁郡戰没者の慰霊祭が斉行されるに当り、合祀関係各町の戰没者遺族を代表して敬々しく神前に額づき、追悼の誠を捧げます。

十年一昔と申しますが、戰爭が終ってはや五十七年。残された妻達も半分以上、ご英霊のお傍へと旅立っていきました。残された子達も立派に社会人として世の中のために働き続け、今や六十才を越え七十才になった者もいます。

この年まで無事務めを果し、元気で過してゐられますのは、みなご英霊のご加護の賜と深く感謝するものでございます。顧りみますれば、ご英霊の皆様には過去幾度の戰いにおいて祖国日本の必勝と郷土の安泰、肉親の幸せを心に念じ乍ら、遠い異国の空の下で、無念の最后を遂げられましたご英霊に思いを至する時、永遠の深い悲しみであり、痛恨の念が胸に迫るを禁じ得ません。

私達遺族は再びあのような悲惨な地獄のような戰爭が起きないよう、又平和の有難さを子々孫々に至るまで、正しく語り継ぐことを固くお誓い申上ます。

終りに臨み、神々しい護国神社の社前で尊霊の檀下に額づき、在天の尊霊の安らかに鎭まりますことをお祈りして追悼の言葉と致します。

 

平成十四年七月八日

員弁郡遺族会

代表 鈴木 清司


【大安町遺族会慰霊祭】


 追悼の辞

長い冬のとばりから解かれて、天地に春色みちてきました本日、大安町戦没者慰霊祭が御遺族多数御出席のもと厳粛に開催されますに当たり、こゝに謹んで戦没者諸氏のみたまに申し上げます。

諸霊は国運を賭した戦争において、ひたすら、祖国の勝利を信じ、一身をも顧みず、危地におもむき、遂に酷寒炎暑の戦陣にたおれ、いたましくも散華されました。まことに痛恨のきわみでございます。

あなたが命をかけてお守り下さいました祖国は、今や復興全く成り、街は旧跡をとどめぬまでに繫栄し活気に満ち溢れ、発展の一途をたどっていますことは、神しずまります諸英霊の御加護の賜であり、御遺族の方々の悲しみと苦難に満ちた御努力の賜にほかなりません。

私たちは今日あらためて戦没諸英霊の御遺徳を偲び、再び悲しみの歴史を繰り返さない決意を新たにし、平和を誓い、諸英霊をお慰めせねばならないと信じこゝに戦没者の霊を皆様方と共にお祭りし、平和を祈り、町民として健やかに生き、明日の日本の為に心を合わせて努力する旨念じますことは、まことに意義深いものがあると存じます。

戦後、わが国はひたすら国の再建と発展に努めてまいりましたが大安町もその中にあって、誰もが住みたくなる明るい街づくりに邁進し、現在、教育、文化、健康な町として、又、天災・公害のない健康で長寿のできる町として、他に誇りうるまでに成長してまいりました。

あたかも本年は町合併十五周年の記念すべき年を迎えようとしており、私どもは心を新たに大安町全町民の幸福を願って、その福祉に万全を期すべく努めてまいりますことをこゝにお誓い申し上げ、今はただ戦没者各位のみたまがとこしえに安からんことまた在天の光として、今後ともわが故郷のまち大安の繁栄と平和を見守り給うことを念じ、併せて御遺族の皆様方の御多幸を祈念いたしまして私の追悼の辞といたします。

 

昭和五十三年三月二十三日

大安町長

萩野 禮治郎


【東員町遺族会慰霊祭】


 追悼の言葉

本日ここに東員町遺族会主催による三百有余柱の戦没者慰霊祭を挙行せられるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。

尊霊には、過ぐる大戦においてひたすら祖国の興隆と同胞の安泰を念じつつ、国のみ楯として散華せられたのでありまして、その崇高なる御精神と勲は、わが国の歴史に深く刻まれ、国民すべて景仰感謝してやまないところであります。

今ここに、ありし日の尊霊のお姿をお偲び申し上げますとともに、最愛の御肉親亡きあと、混沌とした世相の中でただ黙々としてあらゆる苦難に耐え生き抜いてこられた御遺族の御心労をお察しするとき、痛恨の情切々として胸に迫るを禁じえません。

本年は戦後五十年にあたり、我が国の発展は今や世界注視の的となり、郷土東員町も北部丘陵地には大規模住宅団地が開発され、人口急増の町として、中央部には行政・文化・福祉の拠点としての施設が集約され、また、南部には東海環状自動車道の整備計画等、戦前には想像もできなかった繁栄をみておりますが、悲しくも遠く去りましてこの喜びを分かちえないことは、かえすがえすも残念でございます。

しかしながら、これひとえに諸霊の尊い犠牲により培われたことを肝に銘じ、明るく豊かな郷土東員町を築き上げるため、より一層の努力を傾倒いたす所存でございます。

ここに謹んで尊霊に対し、敬弔の誠を捧げ、追悼の言葉といたします。

 

平成七年六月七日

東員町長 伊藤 仁實


【千早赤阪村遺族会慰霊祭】


 追悼の辞

本日、ここ三重県護国神社において、村長様・議長様・ご遺族多数のご参列のもと、千早赤阪村戦没者百六十八柱の平成二十五年度慰霊祭の挙行にあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。

顧みますに、先の大戦において祖国の繁栄と興隆を信じ、散華されました方々を思うとき、万感胸にせまり、目頭が熱くなってまいります。

戦後遠に六十七年が過ぎて今改めて肉親が尊い生命を捧げたご遺徳を偲び、私たち遺族は痛恨の極みでございます。

ここに国難に殉ぜられた親・子・夫・兄弟の尊い犠牲的精神を無にすることなく、今後再び悲しみの歴史を繰り返さない決意を新たにし、平和を誓いそれぞれの分野においてより一層の努力を致すことを英霊にお誓いいたします。

終わりに百六十八柱に対し、安らかなご冥福をお祈り申上げ、ご参列の皆様方のご多幸とご健康をお祈り致しまして、追悼の言葉と致します。

 

平成二十五年五月二十二日

千早赤阪村遺族会

会長 清井 登紀博


【祭典名・斎行日時不明祭詞】


私は今日皆さんの元気溢れるゝこの姿にお目にかゝることの出来た嬉しさで胸が一杯です。

皆さんのすがすがしい明るいお顔、強くたくましいお姿を拝見してほっとしているのは、独り私ばかりではなく、この會場を埋めつくした人々の總べてでしょう。いゝえ皆さん、私達以上に喜んでいる方があります。それは華と散られたあのおやさしいお父さん、あのおなつかしいお兄さんです。すくすくと伸びて清く正しく生いたつ皆さんを御覧になつて、お父さんやお兄さんはどんなに喜んでいられることでしょう。

御覧なさい。秋空の彼方にお父さんのお姿が、お兄さんのお顔が浮んでいます。いつものように微笑んで居られます。

お聞きなさい。

どこかでお父さん、お兄さんがささやいていられます。強く生きなさい、正しく伸びなさいと、あのおなつかしい笑顔で、あのおやさしいお声で。

それにしても皆さん。皆さんのお父さんやお兄さんはそれはそれは立派な方でした。日本人の本分を全うした実に偉大な人でした。あゝした立派な方が、あんな偉大な人が生きていて下さったら、如何に敗戰國とはいえ、斯くまで惨めな世相を見なかっただらうと、今更のように皆さんのお父さんや兄さんの死が惜しまれます。

戰爭。それはのろうべきものであり、また忌むべきものでした。でも、私達は國策に順応しなければならなかったのです。國民である以上、すべてを献げて國策に応えねばならなかったのです。

そして、皆さんのお父さんやお兄さんも敢然として立ち、雄々しく戰って下さいました。そして不幸護國の華と散られたのです。そして、皆さんは強く生きていたヾかなければならなくなったのです。

私はいつも皆さんの上に幸夛かれと御祈りしていたのでした。

今や日本は、平和國家の建設に、民主的な文化國家の再建に大童です。そして、祖國再建の鍵は皆さんの手に、いいえ私達國民の一人一人の肩にかゝつているのです。しかも國策の遂行には私事を顧みることは許されません。個人を考うべきでもありません。あくまでも國策の線に沿い、飽くまでもそれぞれ応えねばならぬことは今も昔も変らないのです。

平和國家の建設といヽ、民主的な文化國家の再建といゝ、共に絶対的なものであり、そして世界人類の永遠の理念なのです。たとえそれが、道ならぬ戰いで、あったとはいえ一命を献げて下さった皆様のお父さんやお兄さんの心を心として、たゞひたすらに御健斗下さい。

言うまでもなく私は、皆さんのお気持は十分に解っています。そして何かとお察ししています。

でも環境は人を作るとか申します。世界を動かす偉人が逆境から生れ出ていることは、明かに歴史が証明しています。艱難汝を玉にす、とも申します。また、皆さんの前途にはまだ幾多の茨の道が横たわって居りますが、しかし、「憂きことのなおこの上に積れかし、限りある身の力ためさん」と歌った古人の歌を胸に秘め、明日の希望に燃えて、強く正しく明るく伸びて下さい。皆さんの身は、皆さんのお父さんや兄さんがしっかりと見護っていて下さることを心して敢然と大地に足をつけて平和國家建設へ邁進して下ださい。では私は皆さんを確く信じています。そして、皆さんの御幸福を心から御祈りしてやみません。

 

(祭典日時・祭典名・奉読者不明)