例大祭祭文
-秋季例大祭-
三重縣護國神社の春秋の例大祭では、戦没者遺族の代表が祭文を奏上する次第があります。
その一部をご紹介します。
祭文は「祭文」から始まるのが通例ですが、例外的に「祭詞」や「祭辞」、「追悼文」、「追悼のことば」等という文言から始まるもの、いきなり本文から始まるものがあります。尚、祭文の原文を尊重していますが、文意を損なう明らかな誤字については一部訂正しました。
祭文
菊花薫るこの季節にこゝ三重県護国神社社頭に於て、県下戰没者の英霊を招魂し盛大に慰霊祭が催されますことは私達その遺児として誠に感激尚深いものがあります。かえりみますれば、あの敗戰后の混乱した社会の中にあって只々靖国の英霊となりし愛する夫の姿を胸に、ひたすら子供の成長を心のよりどころとして頑張って下さいました母親達の心情は如何ばかりだったでしょうか。その労苦と忍耐は察するに余りあるものがあります。
爾来二十七年幾多の苦難を乗り越えて育てて下さいました私達遺児もこの様に立派に成人をさせて頂き、今はそのほとんどが人の親となり社会人としてその努めに精進いたしてをります。
又我が日本も国民一人一人の努力により驚異の発展を続け今やGNP世界二位の経済大国として国際社会にも認められるまでになり、福祉国家としての基礎も着々と築きつつあります。
これひとえに今次大戰の試練に身を投じ国家のいしづえとなりました英霊の加護によるものと信じて止みません。
又私達遺族も終戰后まもなく英霊の顕彰と遺族の福祉増進を目的に平和国家の建設への寄与を使命とした日本遺族会を結成し数多くの業蹟を残しつつ本年二十五周年を迎えて居ります。
その間昭和三十五年には私達遺児を中心に青年部が結成せられ現在では全国統一組織を以て懸念される諸問題解決に努力致して居ります。わけても我々三重県支部は三千名に近い登録会員を持ち、その組織力、活動力は親会、婦人部に続き全国の代表的組織としてその先頭に立って遺族永年の念願であり未だその実現を見ない靖国神社の国家護持運動又外地で風雨にさらされたご遺骨の収集、今年度で終る妻に対する特別弔慰金の増額と継続運動、その他いろいろと残された問題に若き力を情熱をそゝぎ田村元新会長の三重県遺族会として青年部も一致団結 一層の努力をする覚悟であります。
どうか、永遠に安らかにお眠り下さい。
本日、この慰霊祭に臨み改めて父の勇姿を想ひ英霊の遺徳を偲び決意も新にして益々諸問題解決と使命達成に邁進することを誓ひ追悼の言葉と致します。
昭和四十七年十月二十二日
松阪市遺族会青年部
山田 芳男
祭詞
稔り豊かな秋菊香るさわやかな今日此の佳き日かくも多数の来賓の方々の御臨席を得、県下各地の遺族の人々と共にみたま鎮まる大社の秋季慰霊大祭が斉行されるに当り遺族会青年部を代表して謹んで祭詞を申し上げます。
光陰矢の如く終戦の年から三十二年の歳月が流れましたが春秋に斉行されるこの大祭の度毎に私達遺児は父親に又御英霊の皆様方にお逢い出来る嬉しさで一杯でございます。想い起せば幼き日々片親の子と偏見の目で見られ父の写真を幾度となく見つめた苦い想い出があります。十八年生れの私にとって父を知らない遺児ではありますが家庭を持って子の親となった今父の成した行為の偉大さに感服すると共に又命の尊さを知りました。
国のため郷土の為に尽忠の至誠を捧げて生還の願いも空しく、祖国に思いをはせつつ北辺の吹雪の中に南方のジャングルに散華された、みたまたち朝な夕なに私達を抱えて時には父になり又やさしい母になり一人二役を果し世の荒波にも負けずこの様に立派に成人させて頂きました。
母に一言良くやって呉れたと言って頂きとうございます。又妻や子に一目逢って頂きとうございます。御英霊の皆様、みなさまの尊い犠牲により祖国日本は文化国家として又経済大国、世界の先進国として立派に成長致しました。その尊い犠牲に対して私達や国家は少なからずざんげしなくては成りません。祖国日本に必ずや平和がくるであらうと信じて尊い命を靖国に捧げた二五〇万英霊に対し靖国神社国家護持遺骨収集事業の拡充・又、遺族処遇等、真の平和国家を築く事が御英霊の皆様に応える道だと思う次第でございます。
我々遺族青年は御英霊の皆様の祖国日本で安らかに永眠されるべく遺骨収集団を派遣して参りましたが、多くの御遺骨が今だ収集されず野晒しにされているのが現状です。
今後一刻も早く収集すべく力の限り努力する次第であります。最後に戦争の悲劇を身を持って体験した遺族青年は悲しかった幼少時代の経験とその中から培われた良識とに於いて、国家はもとより世界の恒久平和を念願し努力する所存でございます。
御英霊の皆様どうか安らかにお眠り下さい。
皆様の精神を継承する亊をお誓いしますと共に謹んで祭詞と致します。
昭和五十二年十月二十一日
三重県遺族会青年部
代表 桑名郡青年部長
平野 誠
祭詞
昭和54年度三重県護国神社秋季大祭が、盛大に挙行されるにあたり、戦没者の遺児の立場にある者で組織しております三重県遺族会青年部を代表して、御霊に哀悼の言葉をささげ、併せてわが国の現状と残された遺族の近況について、ご報告申し上げたいと思います。
戦後34年を経過したわが国は、神としてお守りしていただきました御霊のおかげにより今日の平和で、物質的には何不自由のない姿になり、世界の国々からせん望の的となっております。
しかしながら、物質文明の大発展の一方で、自己中心的にそれぞれの心が、御霊の心とは反対の方向に押し流されていることも一つの現実であります。
われわれ遺族と、あなたの戦友の理解ある方々が中心となって叫び続けております御霊の国家護持のこと、今なお異国の地に祖国の、そして残して来た両親、妻、子のことを想いながら寂しく眠るご遺骨の収集のこと、遺族援護のこと等、われわれ遺族にとって、心から満足を覚えるものはありません。
しかしながら、われわれ遺族は、一部のご理解ある方々にささえられ、遺族会という団体のもと、みんなが強く正しく、まじめに御霊のご意志を汚すことなく生活を送っております。
そして日本人としての心を、一日も早く全国民一人一人が取りもどし、御国に奉げたあなたの一念を安んじていただくよう努力して参ります。
わたくしも、お父さんが殉国の英霊となられたときは、満4才と五ヶ月でありました。月日の過るのは早いもので、あなたの孫である長女は、日本人らしい日本人を創りだすんだとの理想のもと、大学で教師になるべく勉学に励んでおります。
また長男は、体内にあなたの血が脈々と流れているのでしょうか、本年国防のため日夜その任務に精励している自衛隊を受験いたしました。一人息子であっても私は、喜んでその道を進ませようと心にきめております。
あなたの孫達も、自己中心の心をもたず、国家のため、社会のためにつくす立派な心をもっています。どうかお父さん、ご安心ください。
遺族会も、だんだんと高令化しています現状であります。われわれは遺児の立場で、高令化の遺族会を助け、田川三重県知事をはじめとするご理解ある方々に感謝しつつ、慰霊に努めて参りたいと思います。
残されました遺族にご加護を賜りますようお願い申し上げ、本大祭の祭詞といたします。
安らかに、三重県護国神社のお社にお眠りください。
九段のみ社に、またこのみ社に、元気に笑顔で時々ご面会に家族そろってお伺いいたします。
昭和五十四年十月二十二日
津市遺族会青年部長
乙部 一巳
追悼の詞
菊の花薫り、天髙きこの季節にあたり、ここ三重県護國神社に於て秋季慰霊大祭が県下の遺族夛数のご参列を見まして盛大に斎行されますことは誠に喜ばしきことであります。こゝに遺児を代表致しまして追悼の詞を申しのべます。
返り見ますれば、あの敗戦后の混乱期を乗り越えて起き上り、新生日本として、めざましい発展を成し遂げ、今や経済大國として世界の平和と幸福のために盡力してゐる我が国の現状を見るとき、これ皆々様ご英霊の國を思ふ御心の加護があったればこそと信ずるものであり、あなた達の一命を賭した第二次大戦も歴史の中に大きく後世に評価されるものと確信するものであります。
しかし乍ら、我が日本の現実は我々遺族会にとって誠に厳しいものが漂っております。発足以来の願望でありこれ無くして遺族会の運動はないとまで言われた靖国神社の国家護持が未だ日の目を見ず、一国總理の公式参拝すら決断されないことは歴代内閣の腰弱さを身を以て痛感してゐるものであります。一身を投げうち家族の行く末を案じ乍ら異国の地に命を散らした皆々私達の父、兄弟、そして我が子の英霊はさぞ歯ぎしりしてゐられることとお察し申し上げます。私達遺族会も敗戰後の混乱期に一早く遺族一人々々の心情を積み上げ遺族救済に努力されました親会の皆様も三十数年の歳月の流れに願望かなわず他界された方々が数多くみられご英霊ともども心を痛めて居ります。しかしご英霊の皆々様…心を通じ志を同じくして団結する遺族会は昨今の婦人部の活躍にも現われる如く全遺族が一丸となって悲願達成に全精力を結集し、努力して行く事をお誓ひするものであります。今ここ護国神社の社頭にたたずむ時、戰后の母をしのび今日の婦人部の皆々様のお顔を思ひ浮かべます。昭和二十年八月十五日、敗戦によって人心共に乱れ食糧も住む家も厳しい中に我が幼な子の手をとり愛する夫を国に捧げた誉を胸に厳しき社会の目を避けて自らを勵まして子供を元気づけ子供に行く末を託したあの母の姿…夜一人ふとんの中で流した涙も決して表に出さずひたすら私達のため、生活のため頑張ってくれた母の姿…これ一つに英霊となられた我が夫、我が父の面影をそして戰地におもむく最后の言葉を心の支え、心の糧として生き続けた母の姿は涙も出ない程の苦しみだったと人の子の親となった現在ひしひしと胸にせまるものがあります。私達青年部が靖国神社の社頭に建立したあの母の像も思ひ浮かびます。お父さん、ご存じでしょう、二人の幼な子の手をとり、一人を胸にしっかりと抱きしめてゐるあの母の像…これこそ戦后の母の誠の姿でありましょう。私達青年部として忘れることの出来ない一ページを受け止めて居ります。私達も母を通じ教わった父の心、英霊のみ心は我が胸にうごめいて居ります。私達も今后一層の努力を惜しまず母をいたわり、社会のため、家族のため盡力して行く覚悟であります。最后に本日参列して頂きましたご英霊皆々様のご遺族、父あり、母あり、妻あり、子供あり皆んな祖国日本の再起に頑張り拔いた英霊のご家族です。これからも世界の平和と共にご英霊が永遠に安らかに眠りたまふことを祈りまして追悼の詞とします。
昭和五十六年十月二十一日
松阪市遺族会青年部
山田 芳男
祭文
秋も深まり行く三重県護国神社の大前に神と鎮まりたまう御英霊に追悼の言葉を捧げます。
毎年春秋のこの良き日に知事殿をはじめ来賓の皆様や遺族の方が、この宮しろに相集い御英霊のありし日をしのび御祈りを致します。
私達にとって、これほど心安らぐ一時はございません。お世話いただく皆様に心より感謝申し上げます。
過ぎる大戦から早や三十七年の歳月は流れ去りました。幾年月変り行こうとも最愛の肉親を戦争の犠牲にされ、苦しい生活をしいられ私達遺族は命ある限り忘れることは出来ません。年老いた父母や幼ない子どもを残して行かれた父の心中はどんなにつらかったことでしょう。
母は長年苦しい生活をたえ忍び私達を人並みに育てて下さいました。
私も二人の父親となり、今にしてあの当時の母の心中が身にしみてわかります。父が果せなかった家業を家内一同懸命についでおります。御安心下さい。
戦後日本はあらゆる面で世界の先進国として成長してまいりました。祖国の繁栄を祈り国の礎となられた幾百万人の英霊のお加護と永久に忘れてはなりません。
私も去る昭和四十五年八月、南大平洋友交協会の山田無文先生を団長としてソロモン諸島の遺骨収集に参加致しました。
父はブカ島で戦死されました。
私達の乗った飛行機は激しいスコールに合い、この島に着陸しました。きっと父の魂しいが私を呼んだと思います。
南のはてに帰らぬ人となった父があわれでなりません。持って行ったお供物をそなえ般若心経をとなえて声なき父と対面し別れて参りました。
靖国神社国家護持も今だ実現できず、母達の心の支えである特別給付金の件など遺族の前途は決して明るいものではありません。国政に携わって下さる議員の皆様によろしくお願い申し上げます。
私達も心新たにして頑張って行かなければなりません。来年からはこの宮しろも木の香りも新しくなられます。御英霊様には心安からにおねむり下さい。
私達も新しい御宮にご参拝出来ますことを楽しみに、私くしのつたない追悼の言葉と致します。
昭和五十七年十月二十二日
飯南郡青年部長
大久保 嘉文
追悼の詞
本日、英霊の鎮座まします三重県護国神社の大御前におきまして、昭和五十八年秋季慰霊大祭が厳かに開催されるにあたり、県下の遺児を代表し謹んで追悼の詞を申し上げます。
顧みますればあの忌わしい戦争からすでに三十八年の歳月が経過、かの民族の興亡を賭けた大東亜戦争・日清・日露の両戦役は多大な犠牲を出しました。
国をあげての戦争という極限状態の社会のなかになって選ばれた軍人として国難に殉じ尊い生涯を捧げられ国の礎となられた御英霊は県下においてその数、実に五万九千九百十一柱を唱えるのであります。一方、これに累し、とり残された遺族は戦中・戦後を通じ唯々艱難辛苦に堪え忍び頑張り通した毎日であったろうと思われます。戦後の物資不足・世情錯乱のなかで私たち遺児にとって、ある時は父親代りの又、ある時はやさしい母親として一人で二役も三役も務めを果して下さった母親の存在は本当に何ものにもかえがたい偉大な人であったことでしょう。
一家の柱であった父親が国に召された時、私はまだ二歳にも未たないヨチヨチ歩きの幼児でありました。父を戦地へ送る母の目には涙があふれ、その横で私たちが無邪気に笑っている姿を見ながら無言で別れを告げていったであろう出征当時の父の思いを想い起こすとき万感胸に迫るものがあります。その父が母に託した遺言がありました。それには次のような事がしるされてありました。
”遺言としては別に何もない、一通りの事は父母にも話してある出征前、時にふれ折にふれて話してある様に戦死の通知があっても決して取り乱す様な事はせぬ様に呉れぐれも話して有る事だから実行して立派な態度を取って呉れた事と思い喜んで戦死することができる 呉れぐれも言う両親も老体のこと故淋しさも一層加わることゝ思うが健康を害する事ある故充分孝養を尽し何一つとして心配を掛けぬように心掛けよ、祖父も余り髙令の為つまらぬことに心配する故、何かにつけて俺になりかわり面倒を見られよ、子供には充分なる養育をし立派な人間にするがお前の務め、人に笑われる様なことのなきように心掛けよ。お前も俺の出征した後は立派に独立しなくては駄目、世間の人様にはできる限り世話にならぬよう人の為にと心掛け銃後の婦人として恥をかゝぬように致されよ、そして強く生きなければ駄目、戦地での万一の場合にそなへ自分の爪、髪、写真が残してある、自分の身にある唯一の遺品だ、俺の遺志を充分守るようにして何はともあれ子供、親を大切に致して呉れ、
自分が造った般若心経が役に立つ時が来たとは、今の亊を予感してのことか、
呉れぐれも言う立派に強く生きて呉れよ”と言う遺言をのこしていった。そして父が昭和十八年五月二十日マーシャル群島ジャボール島東南八マイル附近を作戦輸送中戦死いたしました。この時より私たちの生活は苦難の連続となりました。
実に厳しい風雪の日々でございました。老いたる祖母が体に鞭打ち乍ら、まつわる幼な子の私と姉をあやし母親の働らきに出た留守を守って下された。今は亡き祖母の面影。片親であるが故にひねくれた子にならないようにと或る時はきびしく或る時はやさしくしてくれた母親、その母親も四年前に二十七才で別れさせられた夫のもとへいってしまいました。少しは生活にゆとりが出来、母にとって可愛はずの孫三人も生長しせめて、今日まで長生きしてほしかったなと胸中痛恨の念に打たれる思いがいたします。
これら肉親の吾が子に対する情愛は私たち現在、子を持つ父親となってみて最愛の妻と子供と両親を残して後髪を引かれる思いで戦地へ赴き散華して果てた父親の気持が実感としてひしひしと胸に迫りくるのです。私自身が今この世から居なくなったら三人の子供と妻がどうなるのかと考えをめぐらす時、私自身の幼き日々の町のお祭りの日運動会の時、友だちが父親とつれ添うのを見て、ぼくのお父さんはとたずね母親を苦しめた日のこと。
学校を出て片親故に、就職試験が受けられず悔し涙を流したこと、遺族であり遺児であるが故に社会の偏見からどれ程苦辛をしいられたことか忘れてはならない現実であったのです。
一方この間の日本は、経済的にも著しい発展をとげ世界的にもその地位が確立され経済大国として名実共に成長をとげるに至りました。
今日のこの平和と繁栄は、只一途に祖国民族のために御英霊となられたその犠牲の上に築かれたものであり、私たちはこのことを片時も忘れてはおりません。さらにあなた方御英霊の崇高なご意志は日本が大東亜戦争に敗れたとは言え、民族の開放という使命は単に日本国のみでなく広く太平洋諸国、アジアの国々が戦後次々と独立した亊実がございます。
この人類史上、類を見ることが出来ないであろう偉業に対し只々頭が下がる思いがする次第であります。
しかし、戦争という大きな流れは幾多の大きな犠牲を伴い戦争の悲惨さは、私たちが身をもって受けて参ったのであります。絶対に再びあってはならない犠牲者の家族として我々が訴え続けて来た、戦争のない平和日本を築くことこそ吾々に果せられた使命であります。今こそこれまで頑張って戴いた年老いた祖父母や母に代って真正面から諸問題の解決にあたらなければなりません。現在の遺族運動におきましては三本の柱がございます。その一つは靖国神社の国家護持の問題であり、次に遺族に対する公務扶助料・遺族年金特別弔慰金・特別給付金等の処遇のもんだいであり、次に遺骨収集並びに戦跡巡拝の問題であります。これら遺族運動は、昭和二十二年に三重県遺族互助連盟が結成されて以来、われら遺族が相扶け合い励まし合って相互扶助の最も信頼ある組織として幾多の困難を克服するなかから築いて参ったこの遺族会を私たち遺児は、その活動の歴史と伝統を受け継ぎ諸問題の解決に今後一層努力まい進することを御英霊の御前にその決意を申し述べますと共に本日、多数の御来賓を賜り諸先生、県ご当局、関係各位ひいては遺族会地区役員の方々には日頃大層御高配、御支援を賜わっておりますこと茲に改めて英霊の皆様と共に謹んで厚くお礼申し上げる次第でございます。
終りに臨み、御英霊の永久に安らかにお眠りあらんことを祈念いたし追悼の詞といたします。
昭和五十八年十月二十一日
三重県遺族会青年部
代表 河野 好陽
祭文
本日茲に三重県護国神社秋の慰霊大祭が、かくも盛大に且つ厳かに挙行されるにあたり、意義深く謹んで三重県出身の戦没者のみたまの御前に感謝の誠を捧げます
光陰矢の如く終戦から三十九年の歳月が流れ、敗戦の苦しみを味った国民も不撓不屈の努力により今や平和国家として力強く弛みない歩みを続け、平和と民主々義の上に今日のめざましい発展をとげることが出来ました。これもひとえに祖国のために尊い生命をさゝげられました諸英霊の限りない御加護のたまものと堅く信じている次第であります。
しかし、この間においてあの戦争により父を失い親なし子と言われた私達遺児も幾夛の困難を乗り越えて今では立派に成長して全国で活躍しております。しかしその陰には、子供だけは不自由な思いをさせない、又させまいと力一杯頑張ってくれたお母さん達青春をかけ父の身変わりとして一家の柱となっていばらの道を生きぬき、これまでに育てゝくれたお母さん達……
たゞ感謝の念で一杯です。そして二度と再びこのような悲惨な戦争を起こさないよう私達遺族青年部一同、御霊前にお誓い申し上げます。それから近況について一言申し上げます。本年戦後三十九年、八月十五日を迎えるにあたり八月十三日より全国戦没者遺児が五十時間の断食祈願を行い父の遺影を胸に「もう待てない」と靖国神社に公式参拝をよびかけました。三重県選出の藤波官房長官は午前八時三十分に参拝されたあと夛くのマスコミやSPにとりかこまれ「総理も事故でもあったらと大変心配されている」と中曾根首相の心情を伝え「皆様方の気持を体し政府としても公式参拝の正しい結論を導き出すよう努力する」と力強く挨拶をされた。そして先日の秋の大祭にも、内閣総理大臣である中曾根康弘として就任以来七回目の参拝をされ公人的立場を強調したのち「英霊の御霊に対し心から感謝申し上げご遺族の繁栄と世界人類の平和を祈願した」と述べられています。公式参拝が一日も早く実現するよう英霊とゝもに静かに祈願したいと思う次第であります。
甚だ粗辞では御座いますが、こゝにみたまの御冥福を祈り併せて一層の御加護を心から御願い申し上げ祭文といたします。
昭和五十九年十月二十一日
員弁郡遺族会青年部長
三林 繁広
祭文
菊薫る今日の護国神社の御前において、秋季慰霊大祭がご遺族多数ご参列のうちに厳粛に斉行されるにあたり、県遺族会青年部を代表してご英霊に謹んでご祭文を申し上げます。
顧みますれば、あのいまわしい戦が敗戦という形で終結してから、三九年を数えるに至りましたが、今ご英霊の御前にぬかずいて想いを遠く往時に馳せるとき、祖国の勝利を信じ、安泰と繁栄を胸に決然と立って国家に従い、寒風肌を刺す酷寒の地に、あるいは灼熱の南海の島々に、そして果てしなき洋上に、または紺碧の大空に勇戦奮闘せられたことも、むなしく生き再び祖国の土を踏むことなく、異境の果てに平和の礎として散華せられたことは、まことに万感胸に迫り痛恨の極であります。
戦後我国は、比類なき経済成長をとげ、戦争が生んだ数々の非情な傷あとは、ほとんどいやしたかにみえますが、この間父を戦争に失った私達遺児は、人知れぬあらゆる苦難の道を堪へしのび、母と共に手をたづさえ雄しく生きぬいてこられたのは、ご英霊のご加護のたまものであります。その母も父の年令より倍も長生きし、日夜健康な日々を送っております。私達遺児も社会では中堅として家庭にあっては一家の支柱となり、父亡きあと立派に成長してまいりました。
遺族念願である靖国神社国家護持どころか要人の公式参拝すら政府は今だに決定しておりません。かつての激戦地には、なお多数のご遺骨が、風雨にさらされ、祖国に帰る事なく、今や土に還らんとしております。私もマリアナ、そしてフィリピンへ二回それぞれ遺骨収集に赴いております。そのご遺骨を一片残すことなく祖国日本にお迎へしてこそ戦後は終るのではないでしょうか。我国の人口も戦後生まれの人が2/3をしめるようになり、親会や婦人部の皆様方もずいぶんお年を召されました。そのお元気なうちに靖国神社国家護持が実現出来ますよう努力いたします。遺骨収集・遺族処遇改善等私達青年部に果せられた問題は多くあります。英霊顕彰の後継者として実現努力することをお誓いもう上げます。
悲惨な戦争を再び起す事なく平和国家日本が永久に続き、そしてご遺族皆様の上にご英霊のご加護があらんことを念じつつ、そして護国神社に眠っておられるご英霊のご冥福を心から祈念し、ここに祭文をお捧げいたします。
昭和五九年一〇月二二日
伊勢市遺族会青年部長
築山 新生
捧 三重県護國神社之御魂
三重県護國神社の昭和六年秋季大祭に際し、ご英霊に一言申し上げたてまつります。
軍恩連盟のみなさん、傷痍軍人のみなさん、戦友会のみなさん、神社庁関係のみなさんその他国民の多数のみなさんと遺族会会員のみなさま方のご協力を得て英霊にこたえる会を結成して以来 十年間 靖國神社公式参拝実現請願運動に努力してまいりましたが、昭和六十年八月十五日に中曽根康弘内閣総理大臣が歴代首相にして初めて靖国神社に公式参拝を十八閣僚ともども終戦四十周年記念日にしていただき 全国民の熱い願望がここにようやくかなえられましたことを先ずご報告申し上げます。
私達は遺族会結成以来遺族会として英霊顕彰問題を先ず第一とし國の礎となられた戦没者のみたまに対し、靖國神社問題を運動の中心として今日まで数々の運動を決議し、断食祈願活動等を始め血の出るような運動を続けてまいり全國民多数の願望にこたえられ靖國神社への公式参拝が行われたのであります。
思えばあの日、届けられたった一枚の赤い色をした紙切れが家族の運命をかえてしまったのです。
御國の為めとは申せ、出征されたお父さんのご心中は残して行く家族に対し心を引かれた亊でしょう。戦地にありましては敵の弾丸はもちろんのこと、飢餓と、病に苦しめられ あらゆる障害がお父さんに付纏いご苦労をされたことでしょう。
私したち家族の者も不安におびえながら、朝な夕な神や仏にすがって幾千万里彼方のおとうさんのご無事をお祈りしていました。そうしている郷里にも次々と戦死の公報がもたらされ、次は自分のお父さんの番ではなかろうかと不安と焦燥の毎日でありました。
昭和二十年八月十五日、日本の最悪の事態を迎えたのであります。戦いの最中は、お父さんは國の為に征き國のために殉じたという誇りを持っていましたが、又社会もそれ相当の敬意を表してくれていたのですが、敗戦ともなりますと人は我身を守るに精一杯となり、戦没者家族などかまっていられないと云う様な事態となったのであります。秩序を失った社会では弱い者程みじめな事はありません
私達子供兄弟も母を助け格別食糧難等のつらい生活でした。子供の頃村祭りなどには、近所の友達は、お父さん、お母さんに手を引かれ喜々としてお詣りに行くのに、お母さんは家の中で泣きくずれ外えも出してもらえませんでした。
又、大きくなり進学問題・就職問題・結婚問題等相談するお父さんは居ません。お父さんが居ないのだから我慢しなさいと母に云われしんぼうしたものです。
私達遺児に共通して云えます事は進んで苦しみの中に身を入る程、積極性と忍耐を兼ねそなえた者が多いと云うことです。
戦没者の皆さん、私達遺児は三重県遺族会青年部を結成しすでに二十五年余を過ぎ、お父さんが亡られた年令を過ぎておりそれぞれ社会に家庭に微力を尽くしております。
こん日の遺族会は戦没者の親の年令は九十才に達し、戦没者の妻の年令は七十才を過ぎようとしており次の世代の遺族会の後継者は私共青年部だと決意し遺族諸問題も今だ山積をしておりますが、これを受継ぎ立派に遂行し日本の平和と発展のため尚一層の努力をすることをお誓い申し上げます。
護國のみたまよ、御照覧あらんことをお願い申し上げます。
昭和六十年十月二十一日
三重県遺族会青年部
桑名市支部
中村浩彦
ご英霊に捧げる辞
深みゆく秋と共に菊の香がひときわ漂よう今日の佳き日、ここ三重県護国神社に於て昭和六十年度秋季大祭がご来賓多数のご臨席のもと、県下各地より遺族がご参列を得て、盛大に挙行されるに当り青壮年部を代表して謹んでご霊前に辞を捧げます。戦後四十年という長い歳月が流れ、過去の悲惨な事実が忘れ去られようとして居ります。しかし、戦争がもたらす悲劇を語り、その痛みを分ち合う私達には、時の流れはなく、今もなお生々しい思い出がよみがえって参ります。故郷に思いを残しつつ、遠い南の島にだれ一人家族に看られることなく、さみしく死んでいった父に、一度でも逢いたいと、昭和四十六年、南太平洋慰霊団に加わり、激戦の跡も生々しいニューギニアの地を訪れました。そしてすでに戦没者の碑の立てられた、海の見える高台にて「お父さんお迎えに来ましたよ」と涙をこらえて叫びました。そしてあとは恥じらいもなく大声で泣きました。その声は必ず父に届いたことでしょう。このあと四十八年、弟が四十九年母と親子三人が父の眠るこの地を訪れ断ち難い肉親の情を味わいました。本年は私達青壮年部結成二十五周年に当り母えの感謝大会と「二度と戦争遺児を作らない、世界の平和に役立とう」とのスローガンのもと意義のある大会を行いました。
父を戦火に失い、赤貧をよぎなくされた母娘の言葉に絶する苦しみ今日をどの様にして生きのびてゆくか、そのすべもわからない悲惨な事実を体験発表され会場の涙をさそいました。年老いた私の母も今では昔の苦しい思い出は話さなくなりました。しかし、その身に受けた戦争の悲しい記憶は深い傷あととして生涯消ゆることはありません。
戦後の厳しい時代をひたすら我が子の成長を願って生き抜いて来た母は私の宝であり、大切に守って行かねばなりません。
そして母も私達も又ご英霊の皆様と共に、待ちわびて居りました靖国神社の公式参拝が戦後四十年と云う歳月を経てやっと実現いたしました。しかしこの願いにも「戦争えの道につながる」と反論される人の少なからぬを知り、残念に思へてなりません。報われるを求めずしてたゞたゞお国の為にと尊いいのちを捧げられたみ霊になぜ公人としてお参りしてはいけないのでしょうか。
私達は理解に苦しみます、戦争がもたらす悲しさ、苦しさは、身をもって味わった私達が一番よく知って居ります。今後は全国の遺族が力を結集して二度と過去のあやまちを繰り返さぬ事を、又新らしい遺族を作らぬ為にも断固として平和を守り拔くことをここに、お誓い致します。ご英霊の皆さまの永遠に安らけくお眠り下さいますようお祈りして私の辞といたします。
昭和六十年十月二十二日
飯南郡青壮年部長
松本 充雄
追悼の辞
菊の香薫る今日三重縣(護國神社)主催、郷土出身戦没者追悼式を厳かに挙行されるにあたり、三重縣遺族会青年部を代表し謹んで追悼の辞を捧げます。
英霊のみなさま、いや、父とお別れしましたのは頑是ない子供の時でありました。日頃から常に英霊に恥しないようにと母や親族に励まされ今日に至りました。
英霊のみなさまは祖国愛に燃え我身をも顧みず、敵地に赴き只々祖国の栄光を念じつヽ再び郷土にまみえることなく、散華され真に痛恨の極みであったとろうと存じます。
私達も既に一角の社会人として祖国愛を心とし英霊のみなさまに代り、郷土の発展と平和日本の建設こそ英霊に応える唯一の道と確信し『複雑な要素を多分に含んでいる世界情勢の中で二度とあの悲惨な過ちを繰り返す事のないよう』心して郷土の繁栄と世界の恒久平和のために努力することをお誓いするとともに御霊のご冥福をお祈りし追悼の辞といたします。
昭和六十一年十月二十二日
三重縣遺族会青年部
代表 西尾 卓男
追悼文
秋も深まりゆく十月の今日、三重県護国神社の秋季慰霊祭が執り行われるにあたって、多数のご来賓方々のご参列をいただきましたことを心よりお礼申し上げます。
遺族会青年部を代表して、亡きみたまに謹んで追悼のことばを述べされていただきます。
毎年、柿が色づくころになると思い起すのは、どっさりとれたさつまいものことです。わたくしの幼い頃、おとうさんの牛車に乗せてもらって、よくいも畑へ行きましたね。夕方になると、さつまいもをいっぱい積んで、ほくほく顔で帰ってくるおとうさんがなつかしく目に浮かんできます。
もう一つ、おぼろげな記憶ですが、昭和十九年の五月、阿漕の海岸で面会したのが最後でしたね。
あの時のおかあさんは、朝早くからおとうさんの好物のお寿司をつくって幼いわたくしたち三人の子供をつれて満員列車にもまれながら、必死で会いに行ったのでした。大勢の兵隊さんの中から、おとうさんを探し当てた時のうれしかったこと、そして別れる時のつらかったこと。そんな思い出も、はるか昔のことになってしまいました。
おとうさんがいなくなってからのわが家は、母が一家の中心となって昼間は田んぼや畑の仕事に追われ、夜は家事仕事が山ほどあって、わたしたちには母がいつ寝ていつ起きたのかわからないような毎日でした。そんな母のお蔭で、三人とも人並みに成長させていただきました。
母は今年七十才になりますが、すこぶる元気で畑仕事も今だに続けております。こうして、みんなが無事に暮せるのも、おとうさんのみたまが守っていてくださるやと母はつねづね口にしております。
今一度目を外に向けてみます時、わが家よりも、もっともっと悲惨な暮しをしいられている人が沢山ありました。終戦後の混乱期に歯をくいしばって頑張りぬいた人たち、そんな人たちの努力が実ってか戦後の復興は目覚ましく都市化が急速に広がりました。かって、おとうさんがつくっていた、いも畑も、すっかり工場に変ってしまいました。牛車でよく通った狭い道も立派に舗装されて自動車道路になりました。町には物があふれ、人々の暮しは豊かになりました。
この平和と繁栄の中から、もう戦後は終ったのだという声も聞かれますが、中国にとり残されている孤児や原爆後遺症で苦しんでいる人たちを思います時、胸の痛む思いがいたします。
また、かって激戦地となった南の島々には、数多くの戦没者の遺骨が残ったままになっていると聞いています。わたくしたちが今日平和で豊かな暮しをさせていただいているその蔭には戦没された方々の大きな犠牲があるのだということを心に深く留め、そのことを子孫に、しっかりと語り伝えていかなくてはならないと思います。
これから先も平和の礎となってくださった戦没者の死を無駄にしないように平和国家を維持してゆくのがわたしたちの使命だと思います。今のこの気持ちをいつまでも忘れずに謙虚に生きることを英霊のみなさま方にお誓いいたします。
輝かしい二十一世紀が迎えられますよう一層の御加護を心よりお願い申し上げます。
甚だ粗辞でございますが、みたまのご冥福をお祈りしつつ追悼のことばとさせていただきます。
昭和六十二年十月二十一日
遺族会青年部
川北 喜代子
祭文
先の大戦がおさまり、日本に平和がよみがえってより、四十二年の歳月が過ぎました。本日、茲に秋の慰霊大祭が執り行われるにあたり、県下、戦没者の遺族会青年部を代表して、謹んで、ご英霊に祭文を捧げます。
今日、我国は著しい発展を遂げ、平和と繁栄を得ました事は、一重に戦没者の皆様の只一途に、祖国の繁栄を夢に念じつゝ散華された尊い犠牲の賜であり、私達は片時もこの事を忘れてはいません。
御霊の前に深く頭をたれ、当時を忍びますとき、祖国と民族の安泰の為に、殉ぜられた崇高な至情に万感胸に迫り痛恨の極みでございます。
私達も、あの戦後の痛ましい苦しみから、やっと、落着きをとり戻しました。
私達、遺児も母親との苦しい生活から子供を持つ親として成長して参りましたが、今、父さん達が妻や子供を残して戦地へ赴いた氣持が、ひしひしと実感として胸を痛みつけます。
未亡人として苦しんだ母親達、父親のない子供として、何度も涙を流した私達遺児、さぞかし戦地で散華されたお父さん達も、どんなに無念な気持であったであろうかとお察し申し上げます。
再び私達はこのような苦しみや、悲しみを世界の誰にも味わせない為に、二度と戦争は繰り返してはなりません。
然るに、この戦没者の遺骨が未だ異国の地に累々として放置されていることは、私達遺族として誠に忍び得ないところであります。この上は一刻も早く故国へお迎えする様努力する事が、皆様方犠牲者へのさけびにお答えする唯一の道であります。
また、遺族会は、靖国で逢おうと散華していった英霊の為にも、靖国神社の公式参拝の問題を、責任をもって政府に果していただかなくてはなりません。
そうして、遺族の処遇改善の問題も同じく政府が責任をもって解決していたゞく問題であります。
戦没者の方々が、身を捧げて国家の為、散華していった尊い心を心として、一致団結し、祖国の繁栄と世界の恒久平和に努力する事をお誓いし、各種関係者の方々の何時も変りない厚いお心づかいに感謝申し上げます。
最後に、戦没者の方々の御冥福をお祈り申し上げ、祭文といたします。
どうか安らかにお眠り下さい。
昭和六十二年十月二十二日
尾鷲市遺族会
青年部
田仲 三千昭
秋も深まりゆく本日三重県護国神社のご神前に多数のご来賓のご臨席を仰ぎ、県下の遺族の皆様と共に集い、かくも厳そかに秋季慰霊祭が執り行なわれるにあたり遺族会青壮年部を代表し謹んで、ご英霊に敬弔の誠をささげます。
顧みますれば、あの痛ましい大戦からすでに四十三年の歳月が流れ、この間我が国は経済的に著しい発展をとげ、今日世界的にもその地位が確立されたのでありますが、今日の平和と繁栄はただひとすじに祖国の繁栄を念じながらお国のためにと身をもって国の礎となられたご英霊の尊い献身と犠牲のたまものであり私達は片時もこの事を忘れてはおりません。
ご英霊に深く頭をたれ当時を忍びますとき、祖国と民族の安泰のために命をささげられた崇高な至情が万感胸に迫り痛恨の極みでございます。
一家の柱を失った私達遺族も困難辛苦の連続でありましたが、これを乗り越え乗り越えて今日にいたりました。
当時五十歳前後の働き盛りで一家を支えておられました祖父母は高齢に達し大半は他界されております。
また夫を国にささげられた私達のお母さんも七十歳をすぎたおばあさんになりました。
当時父の顔も知らなかった私達遺児も五十歳近くの年齢に達し、英霊の皆様の出征当時を考えますとき正に今昔の感に堪えないものがあります。
今日まで言葉で言い表せないほど実にきびしい風雪の日々でございました。
戦死の公報を受けとったその日から老いの身に鞭打ちまつらう幼な子をあやしながら家業を支え留守を守って下さった祖父母、女は弱し母は強しの言葉の如くうしろ指をさされぬよう、ひねくれた子にならないようにと或る時は父親代りとして又或る時はやさしい母として悲しみをのりこえ一人で何役もの務めを果たし幾夛の苦難もたえ今日まで育んでくれた偉大な母親のお陰で私達遺児も子を持つ親として成長してまいりました。
子を持つ親となって初めて最愛の妻と子供を残して後髪をひかれる思いで戦地へ赴いたお父さん達の気持ちがひしひしと実感として胸を痛めます。
日頃から何故僕にはお父さんがいないのと訳もわからず母親を苦しめた子供のころ家がまずしいゆえ進学への夢の実現もきびしく、また父親がいないという理由で思うように就職ができず悔し涙を流した青春時代 お父さんさえ生きていてくれたらと何度思ったか わかりません。
しかし、今日まで苦労の連続に頑張ってくれたお母さん山よりも高く海よりも深い母のご恩は一時も忘れてはなりません。
年老いた母の残された人生を一日でも長生きされ幸せな人生が送れるようにお父さんに代ってがんばります。
また私達の子供にだけはこの苦しみや悲しみを味わさせてはならないと思います。
国に父をささげ、あらゆる逆境にめげずに生きぬいた私達戦没者遺児が身をもって訴え続け戦争の無い平和日本を築くことが私達に果せられた使命であると考えます。
年老いた母に代って私達青壮年部ががんばって遺族の皆様方の諸問題解決のため尽力し遺族会の中心となって働かしていただくことをご英霊にお誓い申し上げます。
ここに遺族運動の概要と現況をご報告申し上げたいと存じます。
靖国神社国家護持をはじめ遺族処遇改善、遺骨収集ならびに戦跡巡拝が運動の柱でございます靖国神社の問題につきましては、未だ実現を見ていないことは我々遺族にとりまして誠に残念でなりません。
靖国で会おうと誓い合いながら殉死されたご英霊の皆さんに申し訳なく存じますが、昭和五十一年六月に発足しました「英霊にこたえる会」はその後国民の間に意外の反響と共感を呼び靖国神社公式参拝慰霊の日制定の運動として一千万署名運動もほぼ目的を達しておりますが今後一層関係機関の深いご理解とご協力を得て靖国神社国家護持法案制定に至るまで根強く力強く運動を進めていく決意を固めております。
次に公務扶助料、遺族年金、特別弔慰金、特別給付金、遺児に対する補償、未処遇者の処遇等適正な待遇改善を国、関係機関にお願いし遺族会関係者各位とともに努力いたしております。幸い関係ご当局のご理解のもと遺族に対する認識が深まりつつあることは嬉ばしく感謝に堪えません。
次に遺骨収集並びに戦跡巡拝につきましては、毎年政府主催により南方各諸島に派遣され相当のご遺骨が故国の土に返されておりますが一体でも多く、一体でも早く故国日本へお迎えするよう今後可能な限り徹底的に収集されるようご要望してまいりたい所存でございます。
ご英霊の皆さん、これらの運動が一日も早く実現しますよう陰ながらお助け下さらんことをお願い申し上げます。尚平素誠に有難く思っておりますことは三重県ご当局や関係各位、また地区の役員さん、皆様方からは手厚い慰霊の行事やその他各般にわたりご高配ご支援を賜わっておりますこと遺族一同、心より感謝申し上げる次第でございます。
ここに改めて英霊の皆さんとともに謹んでお礼を申し上げる次第でございます。
終りに臨みご英霊のご冥福をお祈り申し上げ謹んで祭詞といたします。
昭和六十三年十月二十一日
三重県遺族会青壮年部
代表 岡田 功
秋深し紅葉の季節、本日こゝ護国神社の御前に秋季慰霊祭がおごそかに執り行われますにあたり、戦没者の英霊に対し敬弔の誠を捧げます。
顧み見ますれば英霊は、あの大戦においてひたすら祖国の勝利を信じ一身をも顧りみず、危地におもむきいとしい肉親や伊勢の郷里を遠く離れ各地を転戦苦闘を続けられ、遂に酷寒炎暑の戦陣たおれ、いたましくも散華されましたことは、私たち遺族にとって、永遠に忘れることのできない深い悲しみであります。
英霊の皆さんが命をかけてお守り戴きました。祖国 日本ははや四十三年の歳月が流れました。
この間、今や祖国は世界の経済大国としてその地位が確立され、自由民主々義国家として世界恒久平和をめざして、力強くたゆみない歩みを続けておりますが悲しくも尊霊の皆さんは遠く去られ、この喜こびを分かち得ないことは、かえすがえすも残念でなりません。
私たち遺児は今新らたに戦没者英霊のご遺徳をしのび、靖国神社国家護持の実現、又遺族処遇の問題改正に努力をいたす覚悟でございます。
又こゝに御列席の関係各位代表者役員、皆様方の御髙配、御支援に対し遺族一同心より感謝致します。
今はたゞ英霊のみたまが安らかん事、私たちの明日のいしづえとして導き下さらんことを念じ、こゝにご列席の遺族御一同とともに、ひたすら英霊の御冥福をお祈りいたしますと共に一遺児としてつゝしんで哀悼のことばを申しのべます。
昭和六十三年十月二十二日
久居市遺族会
青壮年部
木原 仁
祭文
菊花薫る好季節となりました。本日ここに三重県護国神社秋季慰霊祭にあたり、ご来賓各位をはじめ戦没者遺族の方々の参列を多数いただき遺族会を代表し謹んで祭文を申し上げます。
戦後五十年一口に申しまして短くもありまた長くもありました。
その間数々の困難と幾多の障害にも屈せず私達遺児は社会の発展と民主国家建設のため努力してまいりました。
今日のような驚異的な発展を遂げることができましたこと日本国民として誠に喜ばしいことであります。
しかしそれは祖国の安泰と民族の繁栄を念じつつ異国の地に尊い生命を捧げられたご英霊のご加護が今日の平和の礎になった事を忘れてはなりません。しかし戦後五十年目の本年は一月からの阪神大震災からはじまりオウム問題に見る社会的不安、円髙による輸出不振、バブル崩壊からの金融機関の倒産等の経済的不安定、これらは自然現象もありますが政治が不安定であるように思います。英霊を祭り上げられていますが靖国神社の国家護持も今だ出来ません。
戦犯と合祀しているのも一つの問題であろうと思います。
あげくのはてには先の戦争は侵略戦争であったと断言しています。
祖国の安泰と家族、民族の繁栄を念じて異国の地に尊い生命を捧げた英霊はどんな思いで眠っているのでしょうか。我々遺児は何を真実として生きて行けばよいのでしょう。
父が戦死したのは私が四才の時でした。顔も知りません。姿形もりしません。面影がないのですから思い出すこともありません。
しかし強い母親のおかげで遺児は責任をはたしてまいりました。
近年戦没者又遺族に対しても風化させる様な社会的発言が懸念される今日です。
私達遺族は過去の戦争を忘れることなく一致団結し英霊に誠を捧げ、二度と犠牲者を出さない様人類の恒久平和に向けて努力して行かなければならないと思います。
靖国神社の公式参拝の早期実現と英霊のご冥福をお祈り致しまして三重県護国神社の大祭に捧げ祭文といたします。
平成七年十月二十一日
三重県遺族会青壮年部
阿山郡代表 森 保紀
祭文
菊の花が、豊かにかおる今日のよき日、三重県護国神社に於いて平成七年度、秋季慰霊大祭がご来賓多数、ご臨席のもと県下各地より戦没者遺族のご参列をいただき、盛大に挙行されることになりました。
ここに三重県遺族会壮年部を代表して謹んで、ご霊前に辞を申し上げます。
終戦後五十年、我が国は、ひたすら国の再建と発展に努めてまいりましたが、この平和と繁栄は、過ぐる大戦においてひたすら祖国の興隆と、同胞の安泰を念じつつ、国のみ楯として散華せられたご英霊の皆様の礎の上に築かれていることを決して忘れてはなりません。
私達の母は一家の支柱を失い困苦と欠乏に耐えながら、立派に子弟を養育し、また、家業に精励して、この悲惨な戦争の犠牲の中、人生の大半を過してまいりました。
その母も八十才を超え、過ぎし苦難の数々を語ることもありません。家を守り、私達を立派に育て孫の成長を唯一の楽しみに、幸せな今日です。残り少ない人生を、何思うことなく長生きをしてもらいたいと願うばかりです。
終戦後、半世紀を経た今日、大きな戦争の傷跡も、次第に小さく見えるようになってきましたが、国のため、尊い命を捧げられたご英霊の崇髙なる御精神と勲を忘れてはなりません。
「お国のために」「戦死したら、国の手で靖国神社に、まつって頂けるもの」と、信じ切って居られた、その御心と、その遺志に応えるため、靖国神社の国家護持と、公式参拝の実現に向け、私達は与えられた使命と、責務の重大さを十分認識し、遺族運動の後継者として、重要な役割を荷なっていきたいと考えております。
国のために、尊い命を捧げた父達の意思に応え、また老いた母達の人生を見守り、社会のために尽くす事をここに報告すると共に、ご英霊の皆さんのご冥福をお祈り致しまして、私の慰霊の辞とさせていただきます。
平成七年十月二十二日
三重県遺族会壮年部
紀伊長島町壮年部
橋倉成庚
祭文
山野の樹々草々も色づき菊の香もひときわ漂よう今日の佳き日に三重県護国神社に於いて、平成八年度秋季慰霊大祭がご来賓多数のご臨席のもと県下各地より戦没者遺族のご参列をいただき盛大に挙行されることになりました。
ここに三重県遺族会上野市壮年部を代表してご霊前の皆様と父達に謹んでご報告できますことは、この上もない喜びであります。
先さきの大戦後五十一年を経過した今日、我が国は平和と繁栄、世界の先進国としての地位を築いてまいりました。この平和と繁栄は大戦の焦土の中から国民のたゆまぬ努力により幾多の苦難を乗り越え民主国家建設のため一致協力して邁進してきた結果であります。
この今日の日本の姿こそ お国のため尊い生命を捧げられたご英霊の上に築かれていることを決して忘れてはならないことであります。
しかしながらこの平和と繁栄の道程は 私達遺家族にとって決して平坦なものではありませんでした。
今日戦没者の妻の平均年令は八十才余となりますが、半世紀前には、亡き夫にかわり一家の生計の柱として親・子の為に懸命な日々を過しました。私の母も例外でなく父の死後大津市から母の実家上野市に戻り祖母に家事を任せ 農家の柱として田畑作業に、農閑期には 日雇労働者として兄弟二人を支えてくれました。幸いにして食生活には困ることはありませんでしたが 父の死の三年後二才上の兄の病死、昭和二十五年には祖母が脳溢血で三年間の病床につき、看病のかいなく回復せず天命と厳しい状況が続きました。私もその頃には、小学校高学年になっていて少しは家事内外のことがわかりかけ、父がいないから母に無理も言えない。そして母の助けをせねばと思うようになっていました。そうしたことで休校日や下校後は田畑の手伝いに出ることが多かったと記憶しています。
また中学生になった頃には、他家より機械化の遅れた農家の力作業を母に代ってやっていました。その後は中学校を卒業、地元の企業に就職して夜間高校に進み、通信制大学を終えることができましたが中学校からの進学、通信制時の一ヶ月半の東京でのスクーリング、母はその時々何も言いませんでしたが辛かっただろうと思います。寡黙な母でした病気一つせず頑張ってくれました。
その間、母も私も「忍耐」ということを忘れることはなかったと思っています。
私の母も、八十三才になりました。忘れることの出来ない苦難な過去はあまり語ることはありません。しかし母は家を守り私を育ててくれました。そして今は自分なりに老後を楽しんでいるように思います。今日の姿を一目見てほしい、一度聞いてほしいと思っているかもしれません。
残り少ない人生を何思うことなく長生きをしてもらいたいと願うばかりです。
戦後半世紀を経た今日、大戦の傷跡も風化して見えるようになってまいりました。しかし国家の安泰と郷土の発展に尊い命を捧げられたご英霊の国を思う心を忘れてはなりません。
「お国のために」と散華された多くのご英霊の御心とその遺志に応えるため靖国の国家護持と公式参拝の実現に向けると共に平和国家の永続の為、私達壮年部は与えられた使命と責務を認識し、県下の多くの仲間と共にその役割を果すとともに、遺族運動の後継者として自覚してまいりたいと考えています。
おわりにあたり、私達は社会の為に立派に尽くし、母達の人生を見守り、ご英霊の遺志に応えることを報告し、ご英霊のご冥福をお祈り致しまして、私の慰霊の言葉とさせていただきます。
平成八年十月二十一日
三重県遺族会
上野市壮年部
代表 松井 謙二
祭文
天高かく馬肥ゆる秋晴れのすみきった青空のもと、来賓の方々をお招ねきし遺族多数ご参集し、ここ護国神社の境内において秋季例大祭がおごそかにとり行われますにあたり、三重県遺族会を代表して戦没者のみ霊に謹んで祭文のことばを申し上げます。
かえりみますれば皆様方は、あの激しかった戦において戦陣にたおれ職域に殉じ、また戦後異境の地にたおれられ郷土に再び悲しくも帰らざる身となられました。無念のあなた方の心情を想うとき哀惜の念、新たなるを禁じ得ません。
光陰は矢の如しと申しますが、戦後すでに半世紀が過ぎ今や我が国の国勢もいちぢるしい進展をみせ世界に類例のない繁栄をみるに至りました。
諸霊の故郷三重県もごたぶんにもれず政治、経済、産業、文化等各般にわたりすばらしい発展をみせ、県民福祉の充実が着実に進められております。
尊霊遠く去り今日の平和のこの喜びを分ち合えないことは、かえすがえすも残念でなりません。
しかし此の間うれしいニュースが入ってきました。それは私達全国戦没者遺族の念願でありました総理の靖国神社参拝であります。
橋本竜太郎内閣総理大臣は去る七月二十九日午前十一時靖国神社に昇殿参拝をされました。ここにご報告申し上げます。
此の間本新聞に次ぎのような文章がのっていました。ご紹介しましょう。
幼い時、父に抱かれた肌のぬくもりを思い出し写真の父の顔が浮かんでは消え頭の中を五十年間母と妹と寂しく過ごした出来ごとが走馬灯のように駆け抜けました。ルソン島の南部にある二千メートルの高い山「パナハオ山」のふもとに立った時いつも消えることのない霞が消え山頂がくっきりと姿をみせました。父が成長した私をしっかり見ようと姿を表わしたのだと思いました。「お父さんやっと会いにきました、つらかったでしょう、ひもじかったでしょう。今日はふるさとの水も、我が家のお米も持ってきました、思う存分食べて下さい。飲んでください。」と父の大好物を並べました。「こんな遠いところで家族のことを思ったら死にたくはなかったでよう、どんなにか日本へ帰りたかったでしょうね」父の思いは限りなく浮かんできます。五十年ぶりにしっかり親子の対面ができ「父と子」として一層固い絆で結ばれることができました、これは一例でありますが、事業計画の一つとして、戦没者遺骨収集、戦跡慰霊巡拝の拡充等まだまだやらなければならないことが沢山あります。
ごらん下さい、あなた方の妻の方々が皆さま亡き後、我が家を守り、あなたの分まで頑張りましたと報告されておられます。ここで紹介するのは遺児の立場で書かれたものです。私が小学生の頃母は保母の資格に挑戦見事一度で合格して保母の職についた、私をことさらに厳しく育てながらいつの時も私に父を忘れさせなかった。この洋服はねお父さんが買ってくれたのよ、お父さんからいただいたお金で買ったのよ学資もお父さんがちゃんと出して下さるから心配しないで勉強してね…
わずかに国からいただく父の恩給を母は私にこんな風に話した。
いつも計画性を持ってわずかずつでも貯金をし、私にまとまったお金が必要な時は「お父さんからね」とポンと出してくれた。おかげで決してぜいたくは出来なくとも私は十分満足のいく子供時代学生時代を過ごすことが出来たのである。母は偉かったと思う。
以上のように遺児の諸君も立派に成長され、お父さん、この姿を一目見て下さいと胸を張っておられます。
あなた方の弟さんが妹さんが生前のやさしかった皆さんの面影を思いうかべて涙しておられます。
激動の世相の中で諸霊におこたえせねばと耐え抜いたこのご遺族にできることなら一言、よく頑張ったと声をかけていただきたく思います。
われわれは今後一層、ご英霊の顕彰事業に会員の福祉向上に全力を傾注することをお誓い申し上げます。
戦没者のみなさま、どうかこの決意がつらぬき通せますようお導ちびき下さい。そしてどうか安らかにお眠り下さい。
参列のご遺族の皆さまと共に諸霊のご冥福と世界の恒久平和をお祈りして祭文のことばと致します。
平成八年十月二十二日
三重県遺族会
熊野市遺族会
壮年部長 久保十三生
祭詞
深み行く秋とともに、菊の香がひときわただよう本日、三重県護国神社の大前におきまして、秋季大祭が執り行なわれるにあたり、遺族会青壮年部を代表して、謹んで御霊に申し上げます。
時は過ぎ、戦後から早や半世紀、当時は幼かった私たち遺児も五十路も半ばを迎え、子を持つ親となり、また、孫の顔を見るようになりました。しかしながら、私たち遺族の悲願であります靖国神社の国家護持と公式参拝は、いまだに実現を見ず誠に残念の極みであります。
祖国の繁栄と家族の安泰を信じ、ただひたすらに戦地に赴き、ついに再び郷土に見えることなく、ふるさとの山河、肉親の上に偲いをはせ、望郷の念断ちがたきまま、酷寒炎暑の地に散華されました。
かけがえのない尊い生命を国に捧げた、その崇高な心と勲を思うとき、追慕の情切々として胸に迫り、私たちはそのくやしさ、無念さを終生忘れることはできません。
私たち母子にとっては、その日から悲しい毎日が続きました。雨の日も風の日も、母は毎日田畑で男並みの重労働を余儀無くされ、精神的、体力的な苦労と毎日毎日戦って参りました。
その母の背中を見て育った私は、早く母を助けて父亡き後の幸せな家庭を築くため、懸命に生き抜いてきました。その母もやがて八十になろうとしております。
その母の御恩に報いるため、これからもお父さんの分まで長生きをしていただくために、明るく、幸せな家庭を築くよう、今思いを新たにしておるところであります。
私たちは、悲しかった幼少時代の経験とその中で培われた教訓を生かし、再び悲しみの歴史を繰り返さない決意を新に、世界の恒久平和のため、一層の努力を傾注するとともに、末永く後世に語り継ぐべきことをここにお誓い申し上げます。
今はただ、各位の御霊がとこしえに安からんこと、また在天の光として私たち遺族の繁栄と平安を見守り給うことを念じ、祭詞といたします。
平成九年十月二十一日
三重県遺族会青壮年部
桑名郡代表 伊藤 功
祭詞
財団法人三重県遺族会は、昭和二十二年四月二十五日結成発足以来本年で五十年目を迎えます。この意義ある節目の年にあたり、三重県護国神社の大前で秋季慰霊大祭が御来賓の方々の御臨席を賜わりしめやかに執り行われることに謹んで慰霊の誠を捧げ祭詞を申し上げます。
我が国が今日平和と自由の恩恵を享受できるのは、偏えに幾多の戦没者の尊い犠牲によってもたらされていると思います。
ただひとえに祖国の興隆と残された家族の安泰を念じながら非業の最後を遂げられた父や夫や兄弟に思いを馳せる時、戦争の悲惨さと愚かさを平和な時代にあってなお深く思い知らされます。
遺族が高齢化し、つつがなく暮らしていられる事はそれだけ我が国が平和であった証であり誇るべき事柄であります。戦争さえなければ戦没者の人生も又家族も違ったものになったでありましょう。慰霊祭は遺族のためのものではない。戦没者に対して行うのであります。各ご家庭では祖先を敬い年回忌を行い日々香をたむけ手を合わせていると思います。
戦没者をお祀りするのは、それと何らかわらないのです。
遺族は年をとり足腰が痛くまともに歩くこともままならず慰霊祭に参列することが少なくなりました。私の母も女手一つで子供達二人を育ててくれましたが、若い時の苦労が元でか最近めっきり身体が弱ってまいりました。
このような家族を残し、国の平和と繁栄を信じて生命を捧げられたその御心は永遠に顕彰されてしかるべきであります。
靖国神社への公式参拝の実現にむけては多くの国民の期待を裏切ることなく戦没者に対する国及び心ある国民の期待に公約どおり応えるべきであります 私達遺児の願いはご英霊のみたまに報いるよう一致団結する覚悟でございます。
国家のために命を失ったご英霊に報いることは憲法以前の人道にかかわる基本的な倫理であり日本人の原点であります。
今後の本会における壮年部の役割は極めて重要であります。後継体制確立のためにも三者一体となった組織の運営強化につとめ本会との活動の一体化を図り充実していくことを誓います。
改めて日本の将来が平和であることを祈念し、その精神を継承することをお誓いして謹んで祭詞といたします。
平成九年十月二十二日
三重県遺族会壮年部
度会郡代表 東 征士
祭文
本日ここに三重県護国神社秋の大祭が斉行されるに当り、合祀関係市町村の戰没者遺族を代表して敬々しく神前に額き追悼の誠を捧げます。
本年は九月に入ってから殊の外雨が多く長雨、大雨の異常気象でありましたが、ようやく秋風の吹くさわやかな季節となりました。 この清々しい季節の今日神々しい護国神社においてご来賓各位のご臨席と関係市町村遺族、多数ご参列のもと秋の大祭を斉行されましたことを、深く感謝するものでございます。
顧みますれば、ご英霊の皆様は過去幾度の戰いにおいて祖国日本の為酷寒、炎暑に耐え、遠い異国の空の下で無念の最後を遂げられ 悠久の大義に殉ぜられましたご英霊に、想いをはせるとき永遠の深い悲しみであり痛恨の念が胸に迫るを禁じ得ません。
戰爭が集結して早くも五十三年の歳月が過ぎました。今や国民の大部分が戰爭を知らない世代となりました。私達遺族は再びあのような悲惨な地獄のような戰爭が起きないよう子々孫々に至るまで正しく語り継ぐことを固くお誓い致します。
終りに臨み、神々しい護国神社の社頭で尊霊の檀下に額づき在天のご英霊の安らかに鎭まりますことをお祈りして慰霊のことばといたします。
平成十年十月二十一日
員弁郡遺族会
代表 石川 時雄
祭詞
菊花香る今日の良き日に平成十年度秋季慰霊大祭がご来賓多数のご臨席のもと、県下各地より戦没者遺族のご参列をいただき盛大に挙行されるにあたり、三重県遺族会飯南郡壮年部を代表して謹んで、ご霊前に祭詞の誠をささげます。
先の大戦後五十三年を経過する今日我が国は平和と繁栄、世界の先進国としての地位と役割を構築してまいりました。戰爭を体験し計り知れない苦難の数々を忍耐と努力によって残された家族の幸せを守り続けてくれた母も昨年七回忌を終えました。私達地域に健在されるお母さん達も戦後半世紀の苦労の積重ねによって次第に身体の不調を訴える方々が見受けられるようになって参りました。
長年の苦労に報るためにも子や孫に囲まれて安らぎのある生活を一日でも長く続けてほしい、と願わずにはいられません。
遺族の高齢化と裏はらに戦爭の悲惨さをしらない年代が圧倒的に占める時代となっていることも見逃すことができません。
原爆の悲惨さを身をもって体験した広島や長崎の方々を軸とする日本人の悲痛な願いや訴えもむなしく実行された核実験や、大陸間ミサイルの発射等を知るとき誠に慚愧に耐えません。
祖国日本国家の平和と繁栄を願い尊い生命を捧げられた英霊の犠牲はもはや我が国の安泰にとどまらず世界各国に住む人間平和につなげていく時代へと移行しています。
オゾン層破壊によって温暖化する地球、ダイオキシンによる生物の生殖機能変異等々環境問題ひとつとらえても憂慮すべき課題が山積しています。経済最優先を基調とする我が国も半世紀のたゆまぬ国民の努力と英知によって、その成果を得た今日、世界のリーダーシップを発揮し世界人類の平和と繁栄に寄与することこそ過ぐる大戦で尊い身命を散華された英霊へ、お報いするひとつの道だと信じています。
決して忘れてはならないことは、如何に我が国が平和であっても、祖国日本のために身命を捧げた英霊の殉国の史実を過去に葬り風化させてはなりません。肉親の崇髙な死を教訓として受けとめ、平和を祈念しつつ、そのありのままを語り継いでいくことの責務は重大であります。
いま靜かに在りし日の面影を偲びながら、私達一人ひとりが更に覚悟と結束を固めて、皆様が願われた我が国の平和と自由を守り続け、進んで世界平和のために力を尽くしご遺志にお応えすることをお誓いし祭詞といたします。
平成十年十月二十二日
三重県遺族会壮年部
飯高郡代表 福本 馨
秋季慰霊大祭々辞
日の光もおだやかになり深みゆく秋、庭先の菊の花もすがすがしい香りを漂よわせる今日この頃でございます。
本日ここに夛数の来賓のご臨席をいただき平成十二年度秋季慰霊大祭が県下遺族の皆様と共に集いおごそかに挙行されましたこと大変嬉しく思います。終戦から数えて五十五年当時幼子であった私達遺児もいつの間にか国を預かる重要な年代になっています。広く世界に目を転じますと今だに紛争が堪えず胸が痛みます。我が国も今日あの戦争の傷跡が嘘の様に大きく成長を遂げましたが、ここに来て失った所が傷口をひろげ今後に禍根を残そうとしています。私達は命がけで国を守った戦没者に想いを致し平和で住みよい郷土を次世代へ橋渡しをせねばなりません。
時あたかも目前に二十一世紀であります。高令化社会もドンドン進み、私どもの遺族会も例外なく、その道を歩んでいます。現在まで陰になり日なたになって育ててくれた母の慈愛に深く感謝をし、青年部の活動を一層強化、長年続けている靖国神社国家護持に、親会・婦人会共に力を合わせ、その実現に最大の努力を致します。ここに霊の心安らかに、お鎮まりを願うと共にお運こびを賜りました夛くの皆様へのご加護を謹んでお願いし祭辞とさせていただきます。
平成十二年十月二十一日
鈴鹿郡関町遺族会壮年部
代表 岡田 昭重
ありがとうございました。
祭詞
秋桜が乱舞し日毎に秋の気配が深まってまいりました。本日ここに三重県護国神社秋季慰霊大祭が厳粛かつしめやかに執り行われますに当たり、遺族を代表して謹んで慰霊の誠を捧げます。今年は今世紀最後の年と共に終後五十年を迎えたわけですが、各地において地震あり、火災あり、最後に東海地方を襲った都市型大水害と大変な年となりました。
今こうして拝殿にぬかずく時、身が清められるのを感じるのは私だけでしょうか。
お父さん見て下さい 母の背で手を振ってお別れしてから五十五年の歳月が過ぎ去りました お父さんが出征する時、母の体には私の弟が宿っておりました 俺は太平洋の彼方へ行くから、もし男の子であれば太平と名づけよと言い残し、赤紙一枚で弟の顔すらも見ることなくフィリピンミンダナオ島ダバオにて永遠の別れとなり、石ころ一つで我が家へと帰られました。その弟も今では孫をもつ身となりました その母も七十二才の若さでお父さんのもとへと旅立って行きました。
日本の平和と安全を願い、多数の尊い命が戦場にて散華され、三万余の英霊がこの護国の社に安置され、皆の手で守られております。英霊の皆さん あの戦争の苦しかった時、家族が力を合わせ生きてまいりました。残された母達に一言、大変だったなあと声をかけてやって下さい。
今や遺族会も高齢化し、お母さん方のすこしでも永く生きられることを願いつつ、私達遺児の手で遺族会を受け継いでいかなければならない時になってまいりました。
世界の永久平和と靖国神社・国家護持とあわせて私達が今最大の願いであります。総理の靖国神社への公式参拝をぜひとも実現させたく頑張っております。
又、政府の力添えにて戦没者遺児による慰霊友好親善事業が毎年とり行われ、多数の遺児達がお父さんの散華された戦地に赴き慰霊の誠を捧げ、父との再会を実現されております 一人でも多くの方達が参加されます事を願ってやみません
十年位前でしょうか、先の戦争は侵略戦争であったと一部の政治家の方がおられましたが、国家の繁栄と国民の幸せを念じ、戦場にて散華されました多くのご英霊の皆様方、また多くの戦没者遺族への冒涜だと思います。国でも家庭においても、先人をないがしろにして未来の繁栄はありません。
私達は、今日の平和や繁栄の影に、尊いかけがえのない命まで国家に捧げられた多くの戦没者があることを忘れてはならないと思います。今、戦争を知らない人達が多くなってまいりましたが、先の戦争を真実に伝え、二度とあの悲しみを繰り返すことのない平和な社会、国づくりに励まねばなりません。
決して風化させてはいけないと思います。ご英霊の皆様が願われた郷土の平和と発展のため頑張っていくことを、みたまの前にてお誓い申し上げます。
どうかこの私達をいつまでもお導きください そして年老いてまいりました母達に、ご加護を賜り、お父さんの分まで長生きをさせてやって下さい。どうかご英霊の皆さん、安らかにお眠り下さい。
お別れに皆様方のご冥福と世界の恒久平和をお祈りいたしまして、私の祭詞と致します。
平成十二年十月二十二日
多気郡遺族会壮年部
西井 良文
祭文
本日ここに三重県戦没者慰霊祭の開催にあたり謹んで戦没者の霊に追悼の言葉を申し上げます。
戦後すでに五十数年、三重県もかつては想像も出来なかったほどの繁栄をしてまいりました。しかしながら戦争のために尊い命を捧げられ多くの英霊が犠牲になっていることを忘れることはできません。
ただひとえに郷土の興隆と家族の安泰を念じながら前世のむくいではない最後をとげられた父や夫や兄弟に思いを馳せる時に戦争の悲惨とおろかさを平和な今の時代にあってなお深く思い知らされます。現在がいかに平和であっても祖国のために風化させてはならないと思います。
肉親の崇高な死を教訓として受けとめ、その有りのままを今後語りつぐことが残された私たちの責務で有ると同時に私たちは亡くなられた人々の思いを深く肝にめいじ世界人類の一員として平和国家のために不断の努力をしなければならないと思います。
思えば全世界に爪跡を残した戦争でありましたが今では日本は世界の平和と経済の安定など国際社会の中で中心的な役割を果たすまでに至っております。
これもひとえに戦没者ご英霊のご加護によるもので改めて感謝を申し上げ、再び悲しみの歴史を繰り返さないよう私たちは決意を新たにし平和の貴重さを後世に語り継ぐと共に恒久的な平和の維持のためより一層の挑戦と努力することをお誓い申し上げる次第でございます。いろいろと私達の過ぎし日の事と思いををお話いたしましたが少し現在の社会状況を簡単に報告させていただきます。
戦後半世紀が過ぎて二十一世紀が始まり時と共に科学の進歩と新しい技術の開発により私達の生活環境は少しずつ変化してまいりました。
変化の内容は特に二十世紀後半におきまして生活を豊かにしてくれました代表的な物として住宅、自動車、家電製品の普及であります。このような発達の時点で残された課題として「自然環境の破壊」と「ゴミ処理」及び「保健福祉」があります。二十一世紀には「市町村合併」「アイティ革命」等が検討課題になって来ております。今後私達はこのような課題を責任をもって解決するために一生懸命にがんばって行く覚悟でございます。
そして日本の歴史と文化を生かし自然と共に生活をして行くことの大切さも忘れてはならないと思います。どうかいつまでも私達をお導き下さい。そして年老いた母親にご加護を賜りお父さんの分まで長生きをさせてやって下さい。
最後にご英霊の皆様方のご冥福と全世界の恒久平和をお祈りいたしまして私の追悼の言葉とさせていただきます。
平成十三年十月二十一日
安芸郡安濃町遺族会壮年部
代表 小宮 弘
深まりゆく 秋の気配はものさびしげで なんとなく人が恋しくなる季節となりました。
本日はここに 井上哲夫大祭委員長様 始め多数のご来賓をお迎えして 盛大に執り行われます、平成十三年十月三重県護国神社秋季例大祭に遺族会壮年部を代表して謹んで祭文を申し上げます。
光陰矢の如しと申しますが、本当に時の流れが早いもので、あの悲惨な大戦の終結から、五十余年が過ぎ去りました。
私達遺児も人生の中ばが過ぎ、又毎年行なわれる戦没者追悼式に、年を追うごとに お母様方の出席が少なくなり、遺族の方々においても高令化が進み、その数も段段と減少しておるのが現状であります。
又、それに伴なって戦争の悲惨さが年々忘れられようとしております。私達遺児にとってけっして忘れることができません。
私の父は 私が三才妹が生後一週間の時 召集されました。
その時の状況は幼少のため記憶に残っていませんが母から何回となく聞かされております。
現在残されているのが召集の際の撮影された軍服姿の父の写真一枚であります。そしてついに帰らぬ人となってしまいました。
父を失った遺児にとって戦後の生活は大変厳しいものであり、苦労した母の姿が今でも目に浮んでまいります。その母も八十二才になりました。このことについては、遺児家庭全体に言えることと思います。
国家の安泰と郷土の繁栄を願い、家族の無事を祈りつつ亡くなった父達は英霊となり、私達を見守って下さいます。
日本も世界の経済大国となりましたが、その礎となられたご英霊のご加護であることを忘れてはなりません。そして、私達が成人し今日まで歩んでこられたのも、国をはじめとする関係機関の手厚いご支援と、地域の皆様方の温い隣人愛に育まれた支えがあってことであります。まずは、感謝申し上げる次第でございます。
戦後我が国は二度と戦争という過ちを起こさない信念のもとひたすら平和国家をめざして歩んできました。戦争を知らない子供達の「国」日本は誠に喜ばしい限りであります。
真に豊かな平和が いつまでも続くよう努力しなければなりません。しかしながら 地球上から宗教民族、文明等の違いの原因から、地域間の紛争が跡をたちません。特に本年九月十一日に発生した米国に於ける同時多発テロ事件は全世界を巻きこんだこれまで例をみない最大のテロ事件であります。
私達平和を願う者として大変残念でなりません。一日も早くこの地球上から戦争のない平和が訪づれることを心から願うものであります。
今後靖国神社参拝をはじめ その他諸問題が早急に解決できるよう努力する事をお誓い申し上げます。
年々老いてゆくお母様方がいつまでも幸せに過せますよう護国神社の社よりお守りください。
最後になりましたが戦没者の御霊の冥福を謹んで お祈り申し上げると共に関係各位に深く感謝を申し上げ 私の祭文とさせていただきます。
平成十三年十月二十二日
三重県遺族会壮年部
尾鷲市代表 野田 強
祭詞
本日茲に、三重県護国神社秋季例大祭の祭典が厳かに執り行われるに当り、県下の遺族を代表いたしまして謹んでみ霊の御前に敬弔の誠を捧げ心からご冥福をお祈り申し上げます。
日本の今日の繁栄は国民の勤勉努力と相俟ってみ霊の尊い犠牲と御加護の賜である事を深く感謝いたしております。
経済大国としての我が国も予期せざる内外よりの難問題に直面し今こそ国民各層が一致団結して、これを解決に当らねば二十一世紀に於ける日本の展望が開けない事は国を憂える国民の均しく認識しているところであります。
今や経済優先の時代より平和を推進すべき時代に入っておりまして世界人類も均しく求めて止まないところであり、このことは即ち殉国の英霊の真の心であり悲痛なる叫びであることに想いを致して居るところであります。戦後五十七年の歳月と共に遺族も高齢化して参りました。
我々遺児も平均年齢六十二歳と言う年令になりました。
子供の頃は小さい乍も苦労を重ね、片親と云うことで世間からの目も厳しく、進学、就職も満足に出来なかったのも現実でありました。
しかしご安心下さい、あの忍耐力で今は立派に成長して後継者として英霊顕彰及び遺族の福祉増進に努め道義の昂揚と平和な日本建設の為益々親睦を深め団結を固めて英霊の遺族たるの誇りを持って所期の目的に向かって邁進する所存であります。
此れすなわち御英霊の御加護の賜である事は云うまでもありません。
我々遺族は心の豊かさを求め乍、心の故郷でもある英霊の祭られている靖国神社の公式参拝実現に向けて共々に頑張ってまいりたいと考えております。
小泉総理大臣が二年に亘って靖国神社を参拝されました、すぐさま外国から不信表明がされ、国内世論が湧き戦前の軍国主義への回帰等と云われております。
我々遺族は唯一の戦争犠牲者なのです、其の遺族が最愛の肉親を奪った痛ましい戦争を一番忌み嫌い二度とこの様な事のない平和な世界を熱望している者の集まりであると云う事を強く申し上げておきたいと思います。
幸いにいたしまして我が三重県におきましては県御当局を始め議会関係の各位及び各地区の市町村、自治会、神社、寺院、の皆様が平素英霊顕彰や我々遺族に対しまして格別のご指導を賜り英霊と共に衷心より厚く御礼申し上げます。
終わりに臨み、御霊の安らかにお眠り下さらんことを希い祭詞と致します。
平成十四年十月二十一日
上野市遺族会 壮年部
部長 山本 久夫
祭文
今年も、また、三重県戦没者の秋季例大祭が、多数のご来賓のご臨席の下、厳粛にかつ盛大に執り行われますことは、私たち戦没者遺族にとって、この上ない幸せと慶びの極みであります。
先の大戦から、五十八年を過ぎた今も、あのときのことを片時として忘れることができません。それを思うとき、言葉では言い尽くせない悲しみと哀惜の念が体中を駆け巡ります。
家族や地域の人たちに見送られながら、元気に戦地へと出発したときの、あの姿、あの笑顔、目に焼き付いて、今も鮮明です。
前途洋々の若い命を、戦火の中に突っ込ませた、そのときの心情を思うとき、身の震えるのを禁じ得ません。妻のこと、子どものこと、家族のこと、また、自分の将来への希望などなど、その無念をただひたすらに戦場にぶつけ、還らぬ人となられました。
私が父を見送ったのは、五歳のときでした。心情など分からず、ただ別れるのがいやで、泣いたことを覚えています。
今、その父親の倍以上も歳を重ねてしまいました。時々、その命を父に分けてやりたいと思うときがあります。
「今は、自動車に乗って旅もできますよ」「おさしみも好きなだけ食べられますよ」「電灯のたくさんある家にも住めますよ」、語りかければ語りかけるほど、その無念は大きくなります。
そんなとき、いつも父を背中に背負って、二人力で歩きます。今もそうやって、この祭文奏上をさせていただいています。父への感謝感謝の毎日です。
今、わが国は、あの焦土の中から立ち上がり、世界でも類を見ない目覚ましい復興を遂げ、平和と繁栄を勝ち取りました。そして、世界への貢献を強く求められる地位にまで登りつめました。
衣食住の満ち足りた今、先の大戦のこと、命をささげて戦ったひとびとのこと、などなど、忘れかけている人のいかに多いことか、その事実すら知らない世代も、増加してきています。
我々遺族は、これらの尊い命のおかげで今日があることを強く認識し、この風化しかけた尊い英霊の思いを次代の人々に語り継ぎ、その火を消さないように、守り続けることが使命であると思います。
本日参列の方々とともに、戦没者皆様に心から感謝の誠を捧げ、平和への決意を新たにし、そのご意志に背くことなく、努力する所存です。
心に受けた傷を糧として、平和日本、いや世界平和めざして、まい進することをお誓い申し上げます。
皆様、どうか安らかにお眠りください。
平成十五年十月二十一日
遺族代表 河村友信
祭文
天高く馬肥ゆる秋来賓の方々をお招ねきし、遺族多数が参集しここ護国神社の境内において、秋季例大祭がとり行われますにあたり三重県遺族会を代表して戦没者のみ霊に謹んで哀悼の誠をささげ心からご冥福をお祈り申し上げます。
かえりみますれば皆様方はあの激しかった、戦において戦陣にたおれ職域に殉じました。戦後異境の地にたおれられ郷土に再び悲しくも帰らざる身となられました無念のあなた方の心情を想うとき哀惜の念新たなるを禁じ得ません。光陰は矢の如しと申しますが戦後すでに半世紀が過ぎ今や我が国の国勢はいちぢるしい進展をみせ世界に類例のなき繁栄をみるに至りました。諸霊の故郷三重県もごたぶんにもれず政治、経済、産業、文化等各般にわたりすばらしい発展をみせ県民福祉の充実が着実に進められております。
尊霊遠くに去り今日の平和のこの喜びを分ち合えないことはかえすがえすも残念でなりません。此の間本、新聞に次のような文章がのっていました。ご紹介しましよう。ある遺児の記録です。何かと辛いとき母に手紙を書くと「お前が辛いのなら帰ってきなさい。だけど近所の笑い者にならないように親類に迷惑かけないようにしなさいよ。男は一生涯の仕事として、一度選んだ仕事を途中でやめるような弱い男に育てた覚えはない。よく考えなさい。」と教えられました。
又、母を東京観光に呼び都内見学最後に靖国神社を参拝したとき母は賽銭箱の前でいきなり正座し誰の目をはばかることなく合掌し約五分くらいそのままの姿勢で参拝しました。
修学旅行生等参拝者が多くいる中で私は母に早く参拝を終わるように合図したがこれを無視参拝をした。参拝後「色々見学させてもらったが此処が一番良かった。早くお参り来なければと思っていたが、やっとお参り出来て本当によかった」と笑顔でお礼を言われたとき、私は母の参拝姿を恥ずかしいと思ったことを、母の気持ち子知らずで理解出来ていない自分が恥ずかしいと思った。その後子供が誕生してもお宮参りは靖国神社ときめ参拝した。年に一回母を東京に呼び靖国神社参拝、これが我が家の恒例行事になった。
私達の父が別れ際名誉の戦死を遂げたときは九段の靖国神社で待っているからと言い残していきました。その靖国神社には国民の代表である総理大臣の公式参拝も近隣諸国の不当な内政干渉に屈していまだに定着しておりません。
又最近は魂のない施設だけの戦没者追悼施設構想が取り沙汰されておりますが、私たち遺族、いや国民の多数が靖国神社こそ慰霊の唯一の施設とし、靖国神社に代わるような施設を造ることは国民の考えにそぐわないものと確信いたしております。
我々は今後一層ご英霊の顕彰事業に会員の福祉向上に全力を傾注することをお誓い申し上げます。
戦没者のみなさまどうかこの決意がつらぬき通せますようお導ちびき下さい。そしてどうか安らかにお眠り下さい。
参列のご遺族の皆さまと共に諸霊のご冥福と世界の恒久平和をお祈りして祭文のことばと致します。
平成十五年十月二十二日
三重県遺族会
熊野市遺族会壮年部長 久保十三生
祭文
ご英霊の皆様、今年もまた護国神社の秋の大祭がやってまいりました。安らかにお過ごしいただきましたでしょうか。ご英霊の皆様が、お仕事を離れ、家族を残し、ふるさとを後にされて既に六十有余年が過ぎました。戦後わが国は、ご英霊の皆様の尊い犠牲を無駄に出来ないと、国民一人一人のたゆまぬ努力により、幾多の苦難を乗り越えて、今日の平和で豊かな社会を、築き上げることが出来ました。ご英霊の皆様にこの喜びを分かち合えないのが残念でなりません。家を守り、家族とともに、わが国の復興に大きく貢献してこられた母たちも八十の峠を越える高齢となりましたが、多くの方々が、今なお健在でございます。お母さん方にはこれからも一日でも幸せで長生きをしていただきますよう、努力してまいります。どうぞご安心くださいませ。戦後五十九年が経ち、数多い尊い犠牲者や、戦争の傷跡など、今の世の人々には、忘れられつつありますが、現小泉内閣総理大臣は、戦没者に慰霊と感謝の誠を捧げ、世界の恒久平和を祈ることは、日本人としての心の原点であり、今後も折に触れ靖国神社には必ず参拝すると明言されました。われわれ遺族には、この上もない大きな喜びでございます。
小泉総理の信念と勇気ある行動に敬意と賛辞を惜しみません。しかしこれを機に、宗教色のない新たな戦没者慰霊施設建設の論議が高まってまいりましたが、いかに立派な施設が出来ようとも、ご英霊の魂は靖国神社、護国神社におわすのでございます。われわれ遺族にとりましても、護国神社のご英霊の霊前において、話しかけの出来ることが、最大の望みでもあり、心洗われるひと時でもございます。最近中国の若者の中に、反日感情が高まっておりますが、中国は共産主義から資本主義へ移行する中で、国の秩序を守り共産主義を守るために、歴史教育の中で、日本人と勇敢に戦ったことを強調する必要があります。しかしわが国も主権を守り、国益を守るために外国の言いなりになってはなりません。歴史を後世に忠実に伝えていかねばならないことを、国を司る政治家の皆様にはよくご理解賜ることを切望いたします。護国神社の大祭には、また来年も参ります、どうぞその日まで、心安らかにお過ごしくださいますよう、ご祈念申し上げまして祭文といたします。
平成十六年十月二十二日
度会郡遺族代表
祭詞
深み行く秋と共に鈴鹿の山なみも日毎に彩りをましてまいりました。
菊の花薫る本日ここに三重県護国神社の御前に多数の来賓のご臨席を賜り遺族の皆様と共に秋季慰霊祭が執り行われるにあたり、三重県遺族会を代表して御霊に謹んで申し上げます。
去る十月十七日午前、小泉純一郎首相が就任以来五回目の靖国参拝を実現、御霊に哀悼の誠を捧げていただきましたことは私たち遺族に取りまして何より慰めでございます。
終戦後六十周年を迎え、今ここに、祖国日本の存続と平和確立のために、純粋に戦場に散華されたご英霊におもいをいたしますと今なお胸が痛み万感胸に迫るものがございます。
私達遺族に取りましてあの深い悲しみと無念さは六十年を経た今日も決して忘れることができません。むしろ年と共にその悲しみ深くなる思いがいたします。それだけに私達遺族はだれよりも平和の尊さを身にしみて知っております。
松阪市においては、祖国の安泰を願い、その尊い命を犠牲にされた戦没者の冥福を祈り悲劇が二度と繰り返されることなく世界平和が一刻も早く実現されることを願い、昨年十一月十三日、平和の塔の建立をいたしました。
しかし六十年の歳月は戦争を知らない世代の増加にも従い、日本人の心の中からは、祖国を護るために尊い命を捧げられた人々への感謝の思いや戦火がもたらす諸々の惨禍の思いが薄れつつあります。日本の平和と繁栄の基礎となられた御霊に感謝の誠を捧げるのは国民の務めであると思います。
私達は微力でありますが、英霊の顕彰と再びあのような悲惨な戦争を繰り返すことのないように、また私達のような悲しみをもつ遺族を再びつくらないように、この平和がいつまでも続きますように各々の立場でこの思いを次の世代に引き継いでいくよう頑張ってまいりたいと思っています。
本日この秋季慰霊祭のご霊前において、ここにその決意をお誓い申し上げます。
最後に、御霊のご冥福をお祈り申し上げ謹んで祭詞といたします。
平成十七年十月二十二日
三重県遺族会代表
松阪市 氏木久子
祭文
稔りの秋、菊の香り漂う今日、各界の代表の方々のご参列のもと三重県護国神社秋季慰霊大祭が厳粛に執り行われるに辺り、戦没者遺族を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
先の大戦が終結し平和がよみがえって早くも六十一年の歳月が流れ去りました。
戦後 混迷する社会の中で皆様方を失った私達遺族の歩んだ道は筆舌に尽し難い苦難の長い歳月でした。
皆様方が最後まで案じられたわが国も、焦土の中から国民一丸となって立ち上がり、幾多の困難を乗り越えて平和な美しい日本を築き上げました。
この陰にはひたすら祖国の興隆と同胞の安泰を念じ身命を捧げ、散華して行かれた皆様方が築かれたものであることを私たち国民は決して忘れてはいません。
また、総理の靖国神社参拝の問題に付きましては諸外国との政治および経済の摩擦をも引き起こしています。
しかし、私達遺族の英霊顕彰の根幹であります総理大臣の靖国神社参拝に付きましては、五年続けて小泉前総理が参拝され御英霊に感謝と不戦の誓いをされました。私達遺族は心より感謝いたしております。又、安倍総理に於かれましても処々の動向を見すえながら、参拝を強くお願いしていかなければならないと思っております。
又、今年に入り元宮内庁長官の手記が各新聞に大きく報道されたのは記憶に新しいところですが、何故今頃との感を抱かざるを得ません。
赤紙1枚で出て行った父親達、又帰って来たときも白木の箱に名前を書かれた紙1枚。
『天皇陛下万歳』と言って散っていったことを思うとき、言いようのない寂しさと、悔しさがこみ上げてきます。
更には、戦没者追悼施設の建立案、繰り返される靖国訴訟、そして、その違憲判断など私たち遺族会は今後一層気を引き締めて英霊顕彰運動を進めて行きます。
わが国においてもあらゆる面において構造改革が進められていますが、一日も早く政治・経済を安定させ過去の体験から学んだ教訓を忘れることなく、国際社会の一員として、世界の恒久平和と人類繁栄のため努力してこそ、皆様方にお答えする私達の責務であると信じています。
又 半世紀を超える時の流れとともに高齢化した遺族一人一人が充実した福祉のもとで暮らして行ける事が、御英霊の皆様方に御安心していただけるものと思います。
最後に臨み皆様方の御冥福をお祈り申し上げますと共に、御遺族皆様方の御健勝と郷土発展の御加護を賜りますよう心より御祈念申し上げまして私の追悼の言葉といたします。
平成十八年十月二十一日
名張市遺族連合会
会長 山本 芳明
菊薫るこのよき日に、平成十八年度三重県護国神社秋季慰霊大祭が多数のご来賓のご臨席を賜り、県下各地より戦没者遺族の参列のもと盛大かつ厳粛に挙行されるに当たり六万三百四十六柱のご英霊に、三重県遺族会遺児を、代表して謹んで祭文の言葉を申し上げます。
過ぎし大戦において祖国の安泰を願い、断ち難き恩愛の絆を振り捨てて、我々の住むこの日本を守るために一身を犠牲にせられましたご英霊たちを想うとき、まことに万感胸に迫るものがあります。
顧みますれば、私たち戦没者遺族の道程は癒しがたい苦悩と永い試練の日々でありました。
今や戦後もすでに六十年余りが過ぎ去り、我国は平和憲法のもとに世界の先進国として、又経済大国として目覚しい発展を遂げました。この平和と繁栄は国民のたゆまぬ努力と共にご英霊のご加護によることと感謝に堪えません。この平和で豊かな今日の礎に、ご英霊たちの尊く重い犠牲があることを、私たちは深く胸に刻み、決して忘れてはなりません。
私亊でありますが、私が三才の時に父は出征しましたので父の記憶がありません。父は昭和二十年六月中国大陸に派兵され、終戦後行方不明とのことであり、昭和三十年に(昭和二十一年八月三十日に北朝鮮にて戦病死)との公報がありました。その十年間は、母にとっては不安な日々であったことと思います。これで靖国神社に祭られることになり安堵しました。母は一人で姉弟二人を立派に育ててくれました。その母も平成十三年に八十四才でなくなりました。本年の護国神社の命日祭には、家族六人で参拝(子供夫婦、孫夫婦、曾孫二人)ですと報告いたし、父も喜んでくれたことと思います。
今後も護国神社においてお会い出来ることを楽しみにしてまいりたいと思っています。
終わりに、悲惨な戦争の苦しみを身をもって体験した私たち遺族は、この悲しい歴史を絶対繰り返さないことをお誓いいたしますとともに、ご英霊のご冥福とご遺族各位のご多幸とご健勝を心から祈念し、日本の限りない発展を心から念じ、私の慰霊の詞とさせていただきます。
平成十八年十月二十二日
三重県多気郡遺族会遺児代表
田中 紀正
追悼の辞
野辺にコスモスの花が咲き乱れ、垣根越しに金木犀の香りが一面に漂いやっと秋らしくなった本日ここに、県護国神社の六万三百有余の御霊の御前に額いて、哀悼の誠を捧げ、追悼のことばを申し上げます。
多くの国民、とりわけ私達遺族に幾多の苦しみや悲しみをもたらせた先の大戦から六十二年目に当り、今過ぎし往時を偲びます時、赤紙一枚の片道切符を貰い、新婚の妻や、乳のみ子を後に、老いたる両親を気遣い乍ら後髪ひかれる思いで、故郷を後にし激戦極まる極寒の大地で、又は灼熱の南洋の島々や海洋で武器や食料もなく、ひたすら故国の安泰を願い、家族を案じつヽ、戦場に散り戦火に倒れた御霊の御心情をお察し申し上げ深い悲しみを新たに致します。
顧みますれば、私達遺族は家の柱とも杖とも頼む人を失い、乳のみ子を抱えて一家の生活を支え、自分の青春を犠牲にした妻、貧困と片親と云う事で学校も満足に行けず、一流の会社にも就職出来ず、残った祖父母を扶ける為に家業に就いた子供達、そんな中誉れの家として誇りを持ち、遺族同志が励まし合い扶け合って悲しみに耐え、苦しみを凌び、歯を喰いしばった日々が幾年続いた事でしょうか。
ふり返えれば、我国は戦後の焦土の中から、国民のたゆまぬ努力と不屈の精神により、驚異的な発展をとげ、世界有数の経済大国として、国民は等しく平和の中に浸っています。
しかし、今のこうした平和が尊い生命を愛する国の為に捧げられた御霊の犠牲の上に築かれた事を私達は決して忘れてはなりません。
私は父の眠るサイパンでの遺骨収集作業に参加し、多くの御遺骨を胸にし、くぼんだ目から大きく開けた口から叫ばれた事は、御英霊の皆様が望まれた国に果してなっているのかと云う事でした。釦一つ押し間違っていないのかと云う事でした。
自衛隊の機密漏洩事件や国民年金の横領等モラルの低下は国を愛すると云う事から遠く離れた悲しい事実で有ります。釦一つ押せば目的が達せられる世になり、目前の楽しみや幸せに目をくらませて居ります。
携帯電話や薄型カラーテレビは薄型人間迄が奥行きの無い薄型になってしまったのだろうか。
物足りて心貧しく、公より個を重んじる世相を憂い自然と心の破壊を案じ乍ら、今だに侵略、謝罪、歴史的認識と云う事が聞かれ、靖国問題に於いて、英霊が今も尚刃に立された居る事は私達遺族にとって、耐え難い悲しみで有り、英霊の御心情如何ばかりかと お察し申し上げます。
時代も移り人も代り、かっての戦争が有った事すら知らぬ世代になった今、国の憲法や定めがどんな歴史的な環境や背景の中で作られたかを、もっと国民の納得の行く形で語り伝えられて居ったなら、そして又日本古来の文化や伝統、しきたりが絶え間なく伝えられて来て居ったなら、人を慈しみ、国を愛する心や心の豊かさも、そして国旗や国歌、靖国の事も今改めて騒ぎたてたりする事では なかったのではないでしょうか。
私達遺族も国民の一人として、御霊の崇髙なお心を心とし戦争の悲惨さと平和の尊さを風化する事なく、次の世代へ伝え乍ら、過去のあやまちを再び繰り返さぬ様努力し、更なる平和国家づくりに邁進する事が、御霊の御心にお応えする唯一の責務で有ると信じています。
我が三重県も産業と自然、文化と歴史の薫る県として大きく発展しようとして居ります。今しずかに有りし日の御霊の面影を偲び、国破れて山河有り、皆様方がこよなく愛された故郷の山や川を大切にお守りし皆様の崇髙な御心を国民の侭きぬ平和への道標として故郷の発展と住みよい国づくりに努力する事をお誓い申し上げ、これからは千の風の様になって、花になったりある時は鳥や星になって私達遺族の幸せに限り無き御加護を賜ります様お願い申し上げ追悼の言葉と致します。
どうか永久へに安らかにお眠り下さい。
はろばろと みたまかけゆく
はらからの いのちかなしも
殉国の さきもりのうた
ひしとばかりに
平成十九年十月二十一日
遺族代表 川本眞澄
伊賀市遺族会
会長
祭文
記録的な厳しい暑さだった今年の夏も終わり、ようやく涼風が肌に心地よい秋がやってまいりました。幾千年、幾百年と巡ってきたわが日本の四季こそ、歌や俳句によまれ、日本人の類まれなる感性を磨き、自然への畏敬をはぐくんでまいったのですが、今年はどうしたことでしょう。加速する地球温暖化のせいでしょうか。心配は絶えません。
自然のうつろいはともあれ、本日ここに三重県護国神社秋季例大祭が斎行されるに当たり戦没者遺族を代表して謹んで哀悼の誠を捧げ、諸霊のご冥福をお祈り申し上げます。
昭和六年九月十八日、当時満州と呼んだ中国東北部で勃発した戦火が、中国全土に、さらに太平洋各地、東南アジア、そして日本本土へととどまるところを知らず、多くの血が流され、尊い命が失われました。昭和20年8月15日正午、天皇陛下の玉音放送と共に、15年に及んだ苛烈を極める戦争がようやく終わりを告げましたが、前線に送られた兵士のみならず、沖縄の地上戦、広島・長崎に投下された原爆、全国をおおた空襲の被災者などなど、300万人を超える国民の尊い命の犠牲のもとに、やっと平和がきたのです。
しかし、遺族をはじめ国民の苦難の道は、その後も長く続きました。わが国が焦土の中から立ち上がり、奇跡的な経済復興を遂げて、もはや戦後ではないといわれたのは昭和三十年代ですが、遺族や国民の多くは、欧米人から「ウサギ小屋」と呼ばれたような小さな家につつましく暮らし、生きるために必死に働き続けたのです。
私の母は、戦死公報によって夫が中国で死んだと知らされたにもかかわらず、ひょっとしたら間違いかもしれないと思い、戦後も復員列車が着くたびに駅まで迎えに行ったと聞いています。そんな思いを抱き続けた父母や妻、子、兄弟姉妹は、きっと大勢いたに違いありません。
それも遠い昔のこと。いまでは年老い、数少なくなった妻たちが、亡き父に会えるのは、靖国神社と護国神社だけになってしまいました。今年8月15日朝、三重県の遺族は靖国神社を訪れ、父、夫と面会いたしましたが、一行のなかにはよわい90歳を数える妻たちもいました。あの炎熱の中、杖も引かずに九段の坂を登った妻たちの心中はいかばかりだったでしょうか…。
さて、この十月六日、三重県遺族会は結成60周年の式典を挙行いたしました。この機会に私たち三重県の遺族は、1冊の本を世に送りました。結成60周年記念誌「証」です。県下2万6847人の遺族会員を代表して、つたない私が編集責任者をつとめさせて頂きました。
私たち編集委員は、この記念誌を「祖国のために出征し、戦火に倒れた”ものいわぬ兵士たち”の遺された家族の思いや戦後の生き様」に焦点を当て綴ることを編集方針に定めました。ここには、兵士の勇ましい戦いぶりなどは、一切取り上げてありません。人と人とが殺しあう残酷さ、愚かさを決して風化させず、戦後62年の平和が、幾百万の犠牲の上に築かれたことを、若い世代や子どもたちに伝えることを目的にしています。意図したところが書き尽くせているかどうか分かりませんが、最愛の妻と顔も知らない息子たち、そして兄弟たちからの、英霊の皆様へのメッセージです。
あの不幸な時代に生を受け、苦難に満ちた戦中戦後を生きた私たちの経験を「証」として、今や国民の大多数を占める「戦争を知らない世代」に語り伝えなければなりません。二度と私たちのような「遺児」を生み出してはなりません。
さいわい、あの不幸な時代から学び、世界に平和を訴えて行こうと取り組んでいる子どもたちが増えています。「証」は、この子たちを導く小さな一本の「ともしび」になってくれれば、と願っています。
私たちの願いにもかかわらず、中東など、今なお世界に戦火が絶えることなく、北朝鮮の核武装や毎日のように世界各地で発生するテロ事件など、平和をおびやかす問題が次々と発生しているのが現実であり、残念でなりません。
私たちは、戦没者の皆様が、かけがいのない命をもって示された教訓である、戦争の悲惨さと平和の大切さを心に刻み、二度と過ちを繰り返すことのないよう全力を尽くすと共に、「証」の出版とあわせて一層、子や孫に語り伝えていくことを、ここに改めてお誓い申し上げます。
終わりにあたりまして、皆様方のご冥福を心からお祈り申し上げ、私たち遺族の上にもご加護賜らんことを念じつつ、祭文といたします。
平成十九年十月二十二日
三重県北牟婁郡遺族会
会長 北村博司
祭文
今年の夏は、全国的に記録的な猛暑に見舞われましたが、最近、漸く秋らしくなって参りました。
本日ここに、三重県護国神社の秋季例祭が斎行されるに当たり、戦没者遺族を代表しまして謹んで追悼の誠を捧げます。
先の大戦において、国難に殉じ、数多くの方々が国の内外において散華されたことは、私達遺族にとって、我が命が明日にも絶たれる思いで、決して永遠に忘れることができません。
一家の大黒柱を失い、二十歳代で青春を犠牲にして、乳飲み子を抱えて言葉では言い尽くせぬ苦難と欠乏に耐え、ひたすら家業に精励し、歯を食いしばって生きてこられた戦没者の妻の皆様も、今では九十歳を超えられ、生存されている方も少なくなってきました。戦没者の妻として、立派に家族を護り、国の繫栄に寄与されたことに、我々は、心から労うと共に、既に物故された方々のご冥福をお祈りするほかありません。
終戦直後は、国中が食糧難に襲われ、米の増産に追われた農家も、今では減反で困っている状態です。しかし、国の食料自給率は四割そこそこだと言われ、半分以上を外国からの輸入に頼っています。今は安い物がたくさん輸入されておりますが、皮肉なことに食べ物の中に毒物が混入されており、食べ続ければ、知らぬ間に体が蝕まれてしまい、やがて早く死ぬことになるかもしれないと、日本中が大騒ぎになっております。
これからは、世界の人口が増え、地球の温暖化により、化石燃料に変わり穀物から燃料をつくる時代になり、この結果、世界中が食糧不足に見舞われると言われております。言わば食料戦争が始まろうとしているように思えます。わが国も食糧対策を真剣に考えることが肝要かと存じます。
戦後、我が国は国民のたゆまぬ努力と不屈の精神により、今日では世界の先進国として、後進国を援助するまでに発展してきました。しかし、その影にご英霊のご加護があることを決して忘れてはならないと思います。
今、静かに考えますと、国のために命を捧げられたご英霊は、靖国神社でどんな思いでお眠りでしょうか。戦争が終われば靖国神社で家族や戦友に会える、国を挙げて祀ってくれる、ただ、そのことだけを信じて散華されたご英霊に、A級戦犯が合祀されているから参拝も出来ないと言われる国の要職者もおられます。全国遺族会の協議においても分祀することも考えることが必要とのご意向もございます。一日も早くお話をまとめて頂き、日本の要職者が外国でその国の戦没者に花輪を手向けて慰霊されているように、外国の要職者を始め、国内の誰もが日本のために命を捧げられたご英霊に、靖国神社で堂々と参拝できるようにして頂きたいと思います。
これが実現されて始めて、遺族にとって真の終戦になり、ご英霊も安らかにお眠りになることと信じます。
終わりに臨み、護国神社の社頭で世界平和と日本の繁栄、そして私達遺族の幸せを永遠にご加護賜りますようお祈り申し上げまして追悼のことばと致します。
平成二十年十月二十一日
木曽岬町遺族会副会長
伊藤 好博
祭文
本日ここに、三重県護国神社秋季例大祭が、多数のご来賓及び遺族の皆さまのご参列のもと、盛大に執り行われるに当たり、戦没者遺族を代表いたしまして、追悼の言葉を申し上げます。
さきの大戦において、いとしい父母や、妻、子、そして兄弟姉妹と別れ、ある時は野や山に、またある時は海に、空にと、散華された六万有余のご英霊に対し、心から哀悼の誠をささげます。
さて、私の父が、戦死いたしました時、私はまだ二歳でありました。母は、私が五歳の時に、祖父の願いもあり、ロシアで捕虜になったあと、復員してきました父の弟と再婚いたしました。
その後、二人の弟が誕生し、五人家族での生活が始まりましたが、十五年前に、継父が亡くなるまでの四十五年間、亡き父と切り離された生活が続きました。その間、継父と衝突し、父の墓前で涙した日も幾度と無くありました。
おひとりで子供を育てられた戦没者の妻の皆さまは、大変なご苦労をされたと思いますが、私の母と同じく再婚された皆さまも、夫と子供の間にあって苦しいことが、多かったと思います。
いずれにいたしましても、私たち遺族は、戦争の悲惨さを痛感し、二度と過ちを繰り返すことの無いよう、努力いたしますとともに、子や孫など戦争を知らない世代の人たちに、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り伝えて行かねばならないと思います。
幸い、昨年、三重県遺族会結成六十周年記念誌として刊行されました「証」(あかし)には、祖国のために出征し、戦火に倒れられた兵士たちの思い出話や、戦中戦後を生き抜かれた苦労話が、遺族の皆さまのてによって赤裸々に描かれておりますので、若い人たちにも、ぜひ、読んでいただきたいと思います。
一方、二百四十六万六千余柱のご英霊をお祀りしている靖国神社では、「靖国神社崇敬奉賛会」が結成され、子々孫々にまで変わることの無い英霊顕彰を国民的運動として展開しようとしております。
私たち遺族は、今日の平和な日本が、英霊の皆さまの尊い犠牲によるものであることを忘れることなく、戦争の無い平和な社会が永久に続きますよう、一層の努力をいたすことをお誓い申し上げます。
終わりに当たり、英霊の皆様のご冥福を心からお祈り申し上げ、私たち遺族にもご加護を賜らんことを念じつつ祭文といたします。
平成二十年十月二十二日
熊野市遺族会木本地区会長
栃尾和弘
祭文
先の大戦に於いてこのはなれ難き故郷をあとに出征され激しい戦場に於いて壮絶な戦いで無念の戦死をとげられたご英霊の皆様に対し思いも新らたに謹んで哀悼の言葉を申し上げます。
終戦から早や六〇有余年の歳月が流れました。祖国の安泰を念じながら尊い二つと無い命と引き替に我国の繁栄をもたらし又ゆるぎない平和の礎を築いて頂いたこのご恩はご英霊のお蔭こそあれ特に私達戦争遺児にとっては如何に世が移り変わろうとも決して忘れ去るものでは、ありません。
私の兄は、この世に生を受けてわずか二ヶ月でこの世を去り、そのあと私が生まれ、妹が生れる一ヶ月前の昭和十九年九月十三日中支方面で戦死と聞かされました。幼い子供を残して死にたくなかったであろうと思うと心が痛みます。
残された祖母に母そして幼い子供達女ばかりの生活がどんなに大変だったか想像を絶する苦しみの始まりです。その時母は、28才だったと聞いて居ります。
力いっぱい働いて働いて父の身代わりとして、一家の柱となっていばらの道を生きぬいてこられた母も94才という高令になり余生をゆったりと過しているうしろ姿を見るたびたゞ感謝の念でいっぱいです。戦争は多くの人の命を奪い災難と不幸を招きます。
戦争の残酷さを風化させないよう後世に語り継ぐべく平和の素晴らしさを私達戦争の犠牲者は声を大にして伝えなければならないと思って居ります。二度と再び悲惨な戦争を起さないよう神前にお誓い申し上げ慰霊の言葉と致します。
(平成二十一年十月二十一日)
いなべ地区遺族会参列者
代表 中島 貴美代
祭文
すっかり秋の気配が漂う中、平成二十一年度、三重県護国神社の秋季例大祭に臨み、先の大戦で惨禍されました御英霊の皆様に、三重県遺族会を代表いたしまして、謹んで哀悼の誠を捧げます。
御英霊の皆様が、仕事を離れ、家族を残し、故郷を後にされて早や、六十有余年が過ぎました。
あの苛烈を極めた戦いの中で、わが国、300万余の方が祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは戦後、遠い異郷の地になくなられました。
これら戦没者御英霊の方々に思いを馳せ、心からご冥福をお祈りいたします。
戦後わが国は、一貫して平和国家としての途を歩み、国民一人一人のたゆまぬ努力により、平和と繁栄を享受してまいりました。
そして今や、故郷三重県を始め、わが国は、世界の経済大国にまで発展してまいりました。
私たちは、今日の平和と繁栄が、戦争によってかけがえのない命を落とされた、御英霊の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、片時も忘れる事はありません。
御英霊の皆様に敬意と尊崇の眞を捧げるものであります。
私たちはこれからも、過去と謙虚に向き合い、悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、過ぎし日の史実を、未来に正しく引き継いでいく事こそ、多くの御英霊の思いに答える道であります。
先般の衆議院選挙では、長年続いた自民政権から、民主政権へと政権交代がなされました。
私たちが、長年求め続けてきた靖国問題や、英霊顕彰に進展があるよう、強く望みたいとおもいます。
又世界のリーダのアメリカオバマ大統領も、全世界から核兵器を無くそうと呼びかけています。
唯一の被爆国である日本は常に叫び続けてきた事の実現に向け、遺族会も国民の一人として、尚一層の努力をして行かねばなりません。
家を守り、家族の中心となって頑張ってまいりました母たちも、九十歳前後の高齢となり、年とともに他界される方が増加いたしております。
今、靖国神社の国家護持が叶わぬなら、せめて国の代表する総理、閣僚による公式参拝の実現をと、願いながら、それも叶わないまま次の世代へと旅たたねばならない侘しさは、いかばかりかと存じます。
私たち遺族は、終戦から六十四年を経た今日、不戦の誓いを新たにして、平和国家として、国際社会に貢献するとともに、命の続く限り、御英霊の顕彰に勤めてまいります事を、堅くお誓い申し上げます。
終わりに当り、本日ご参列の遺族会各位のご健勝、ご多幸を祈念いたしますと共に、毎年春、秋の例大祭並びに数々ご奉仕を賜ります宮司様を始め、関係各位に深く感謝申し上げ祭文と致します。
平成二十一年十月二十二日
三重県遺族会代表
度会郡遺族会 大北幸松
本日ここに三重県護国神社秋季大祭が斎行されるに当り、戦没者遺族を代表して謹んで哀悼の誠を捧げ諸霊のご冥福をお祈り申し上げます。
私の母は父が死亡した報告は帰国した戦友からフィリッピンのレイテ島にてなくなった事を知りました。母は祖父母、父の妹二人の家族、私と妹の七人で暮らしていたので、私と妹はさびしい思いをした記憶はありませんでしたが、戦争に行っていた長男が帰国した為、本家と新家を入れかわり母の負担を軽減して貰らい母の苦労が始まり、夜遅く迄働き疲れた素振りを見せた事は記憶にない、子供二人を育ててくれました。今思えば毎日ひもじい思いをしていた事ばかりが記憶に残っています。父を亡くした、家族は大なり小なり同じ生活を送っていたものと思っています。私の家族は祖父母、伯父、伯母又、親戚の御蔭で今の私がある事を決して忘れる事はありません。しかし今の世の中ご英霊の皆様が命を捧げて守って下さった、平和な国に果たしてなっているのでしょうか。いまの世相はどこかでボタンのかけ違いがあるのではないでしょうか。昨今のマスコミで毎日の様に報道される不正事件等、モラルの低下は愛国心から遠く離れた悲しい事実で有ります。裕福すぎてお金さえだせば何んでも手に入る世の中になってしまった、そのつけが物足りて心貧しく、自分本位の物の考え方しか出来なく、命の尊さや敬う心とか分厚い心を忘れてしまった。日本人悲しい事実です。ご英霊が一番大切な家族、愛国を思い命をおとされた戦争が本当に憎い。戦後は遺族同士で助け合い、励まし合って精一杯生きて来た遺族今后も前を見て遺族会に残された諸問題解決に…お世話になった世間に…絆を大切にする平和な日本作りに微力ながら邁進する事が、英霊の御心にお応えする、唯一の責務であると信じます。
ご英霊の皆様どうか、心安からにお眠り下さい。
私達遺族の上にもご加護を賜ります様お願い申し上げ追悼の言葉と致します。
平成二十二年十月二十一日
四日市市遺族会代表
水谷文隆
祭文
本日ここに、三重県護国神社秋季例大祭が斉行されるに当たり、戦没者遺族を代表して、ここに鎮まります六萬三百四十七柱のご英霊に、謹んで哀悼のことばを申し上げます。
思い返せば、先の大戦が終わりを告げてから、六十五年の歳月が過ぎ去りました。
海ゆかば
水漬くかばね
山行かば
草むすかばね
大君の
辺にこそ死なめ
かえりみはせじ
過ぎし戦いにおいて『祖国日本の安寧を願い、家族の安泰を祈りつつ』勇敢に戦い、そして散っていかれた英霊の魂は故郷に帰られましたが、未だ多くの方々のご遺骨は、遠く離れた異国の山野や、海底に眠っていられます。
ご英霊の、最後の心情に思いを馳せるとき、今もなお哀惜の念が胸に迫るのを禁じえません。
衷心より、みたまのご冥福をお祈り申し上げます。
私共遺族は、紙切れ一枚の入った遺骨箱を受け取りましたが、肉親の遺骨を手にしない限り、何十年経っても私共の戦後は終わりません。
振り返って、当時のことを思い起こしますと、私たちは、唯ひたすらに、父、夫、子供の無事帰還される日を、一日千秋の思いで待っていました。
私も、遺骨の帰らない父の戦死の公報を受けた後も、玄関の戸の開く音、家に近ずいてくる靴の音を聞くたびに、父が帰って来たのではないかと、外に出て、父の姿を探した事が何度あったことか。また成人してからも、父と子の仲睦まじい情景をみて、父がいてくれたらと、羨ましく思ったこと等、当時の深い悲しみと無念さは、六十五年を経た今日も決して忘れることはできません。
今、我が国は、平和で豊かな国となりましたが、これも諸英霊の尊い犠牲の上に築かれたことを決して忘れてはならないと思います。
しかし、世界の情勢は、ソ連、中国、北朝鮮は、軍備の増強を図り、中近東で紛争が絶えず、世界の恒久平和は前途多難の様相を呈しております。我が国においても、戦後の自由主義教育のはきちがえで、個人の人権尊重のみが、高々と叫ばれ、一部の政治家の道義、倫理も欠落し、道徳が地に落ちて、国を愛する心が失われている今の日本を、御英霊がご覧になれば、さぞかし、なげかわしく思われるでしょう。
戦後六十五年を経た今日、戦争を知らない世代が、国民の七五%を超え、ともすれば、数多くの尊い犠牲があった戦争の記憶が薄れつつありますが、小泉元総理の靖国神社参拝以後、周辺諸国の内政干渉に遠慮し、参拝がありません。特に現民主党政権は、靖国神社に参拝しないと公言して、靖国神社に代わる新たな国立の戦没者追悼施設を建設するとしております。この事は、死して会う時には靖国神社でと、散って行かれた御英霊を冒涜するものであり、決して見過ごすことが出来ません。私共遺族は建設阻止に向けて全力を尽くしてまいります。
今後も私達は、一致団結して、御英霊の遺徳顯彰と、かっての戦争体験を風化させる事なく、尊い経験として後世に語り継ぎ、再びあのような悲惨な戦争を繰り返すことの無いように、また私達のような、悲しみをもつ遺族を、再びつくらないように、それぞれの立場で、この思いを次の世代に引き継いでまいりたいと思っております。
最後に、ここに御参列の三重県遺族会の皆様と共に、御霊の御冥福をお祈り申し上げ、謹んで祭文といたします。
平成二十二年十月二十二日
松阪市遺族会連合会
会長 河合忠雄
祭文
本日ここに三重県護国神社秋季例大祭が執り行われるに当たり、戦没者遺族を代表して謹んで哀悼の誠を捧げ、在天の御霊に申し上げます。
我が国は、今を去る三月十一日東北大震災という大変な災害に見舞われ、東北地方を中心に地震・津波のため一万以上の住民の命が奪われ、財産が失われました。
更に原発事故も発生して最悪の事態に世界の多くの国から援助を得て、国民総力となって復興に取り組んでいるところであります。
また私どもの三重県でも、台風十二号により南勢地区が災害に見舞われ、現在県民一団となり復旧に邁進しております。
六十六年前、我が国存亡の危機に際し、英霊の皆様方は一身を投げ打って目前の困難に当たり、希望を未来に託して散華されました。
私たちは子々孫々皆様のことを語り伝え学び、そして感謝の気持ちを捧げて参らなければ成りません。
ただ今、悲しみや困難を乗り越えて災害復興に取り組んでいる現地の人々の気持ちも、皆様に通じる精神であると思います。
必ずや復興は成し遂げられるでありましょう。
戦後六十六年間私たちは皆様方英霊の貴い犠牲の上に築き上げられた平和を基盤に国の再興、発展のため努力して参りました。その結果、物質的・経済的には歴史上稀に見るような発展を遂げて参りました。しかしながら今世界では、民族・宗教・貧困などに起因する争いごとが後を絶ちません。
一方国内においては政権交代後、政治、外交、安全保障など国の骨幹をなす分野において混迷が続き、国を揺るがす規模の災害発生等も相まって、我が国の国際的地位が大きく揺らいでいるのが現実であります。
我が国の今の混迷は戦後復興の過程において、物や金にとらわれすぎて本来の日本精神を見失ってしまったからかも知れません。
今や日本の価値観は日本古来の教えに大きく反する方向に偏ってしまった感があります。あの不幸な時代に生を受け、苦難に満ちた戦中戦後を生きた私たちの経験を今思い出して、再度立ち上がらなければ成りません。
日本が古来育んできた歴史、文化、伝統から培われた、和を尊び、毅然とした正義を貫く精神でもって、今目前の災害復興に邁進しなければなりません。
そして私たちの次の時代の子供達にも、この教訓を伝えていかなければなりません。
最後に私事で恐縮ですが、私の母が今年五月十三日に九十七歳で天寿を全うしました、そして父の眠るニューギニアに旅立ちました。母の戦中戦後はこれで終わりました。
終わりにあたり、在天の英霊におかれましては我が国の進路のあり方、復興のためなお一層の加護と御霊の安らかならんことを心からお願い申し上げるとともに、ご遺族の皆様方のご多幸を祈念いたしまして祭文奏上を終わります。
平成二十三年十月二十一日
鈴鹿市遺族会神戸分会
会長 花井 錬太郎
祭文
本日ここに、三重県護国神社秋季例大祭が斎行されるに当たり、戦没者遺族を代表して、謹んで哀悼の誠を捧げ、我らが国の礎となられました、英霊の皆様に謹んで祭文を奏上いたします。
過ぎし大戦におきまして、国家の安泰と国民の幸せを願い、また自らの家族を守る為に戦場に赴き、命を落とされました英霊の皆様を想う時に感じます、この心の痛みは、それだけの年月が経とうとも、決して癒えることはありません。
昭和十八年一月、雪の降る日に私の父は戦場へ赴きました。私は、その時小学校一年生でありましたが、あれから六十有余年経とうとも、あの日、最後に見た父の姿は、決して忘れません。そして、父の戦死の報が入りましたのは、昭和二十三年六月の事です。何度間違いであって欲しい、夢であって欲しいと願った事でしょうか。父が亡くなり、三人の姉、一人の弟、私達五人兄弟を、母は、女で一つで立派に育ててくれましたが、母の苦労は、どれ程のものだったのでしょう。また、家族が戦争の犠牲になり、悲しんだ方々が、どれだけいるのでしょうか。
戦争が終わって六十年余り、自然は蘇り、建物は再建され、戦争の傷跡は無くなっていますが、戦争の犠牲者の心の傷は、無くなることはないでしょう。
先の大戦が終わりを告げてから、六十六年の歳月が過ぎ、国民の大半が戦争を知らない若い世代になりましたが、このまま大戦の傷跡が忘れ去られ、風化していくのでしょうか。そうだとしたら、私たち遺族は、何をしていくべきなのでしょうか。
私たち遺族がしていくべきこと、それは私たちの悲劇・経験、そして戦争の悲惨さ、愚かさを次の世代、そのまた次の世代へと伝え続けていくことであると思います。戦争の悲劇は、決して忘れてはなりません。戦争を知らない世代に戦争の悲惨さ、愚かさを伝え、私達のような遺族を生み出さない事。それが、私たち遺族のしていく事であり、英霊のご遺志に報いる、ただ一つの途と信じております。
あの辛く苦しい時代を生き抜いた、我々の苦労と経験を、英霊の皆様が、その命をもって示された教訓を、子子孫孫伝え続けていきますことを、ここに改めてお誓い申し上げます。
終わりに当たり、英霊の皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げ、我らが国の行く末を見守り下さり、私たち遺族に、ご加護を賜りますようお願い申し上げ、祭文といたします。
平成二十三年十月二十二日
多気郡大台町遺族会遺児代表
田端洋司
祭文
平成二十四年三重県護国神社、秋季慰霊大祭にあたり、遺族を代表し、護国神社に祭祀せられる六万三百余柱のご英霊に対し、感謝とお慰みを申し上げます。
かつてあの悲惨を極めた先の大戦から既に六十七年が経過しようとしています。
顧みますと、昭和二十年八月、我が国は有史以来初めての敗戦、占領という悲運に遭遇し、戦没者遺族は戦争罪悪人視され、恩給は停止される等、そのおかれた境遇は文字通り、言語に絶するものがありました。
加えて、昭和二十年十二月十五日に連合軍最高司令官総司令部から発布された神道指令は、国家神道、神社神道に対する、政府の保証、支援並びに弘布の廃止を命令したものでありました。
而して、思想的圧迫、物資不足の極限社会の中で、戦没者遺族の辿った茨の道のりは、殊に家族の柱を亡くし、若きみ空で戦争未亡人となり、私達戦没者遺児のおさな児を抱えて、路頭にさまよいながらの塗炭の苦しみに耐え抜き、我が子の養育に命を賭けて、尽くしてくれた母たちの女手一つで逞しく生き抜いて下さったお母さんたちに遺児の立場として心より感謝と御礼を申しあげます。そして昭和二十二年には戦没者遺族が相集い、三重県遺族会の前身である三重県遺族互助連盟を結成し、同胞相助け合い、励ましあいながら、英霊の顕彰と生活福祉の向上に奔走してまいりました。
歳月の経過は、戦争を知る復員軍人も希少となり、私達戦没者遺族もまた減少の一途をたどっております。
親兄弟、母たちが喪われるのやむを得ないことではあるが、こうした現実を直視し、最後の戦争を知る者として残された戦没者遺児の立場を考えるとき、今の平和な生活と社会の安寧を享受できるのは、正にあなた方ご英霊の国家存亡の危急に際し、かけがえのない我が命を散華せられ、護国の神となられたあなた方ご英霊の、正義と大愛のお気持ちがあったことの歴史の真実を後世につたえなければならない、その義務と責任があります。
その為には、英霊の顕彰の機会を通し、またあらゆる機会をとらえて、日本国史上最大の歴史事実としての世界大戦について、より多くの人達に伝えるよう最大限の努力をしなければなりません。
戦没将兵の現身は亡くなってもその魂が宿る、戦地からの手紙、遺言、遺品は残されている。
一方靖国神社に祭祀される二百六十万余柱のご英霊の声なき声の中に、未だ戦地に眠る半数にもなる未帰還遺骨が、ふるさと母国への帰国を待ちこがれている。
日本青年遺骨収集団が結成されたのは、戦後の昭和四十二年でした。大学生を中心にした若い世代と、戦没者遺族が共々、この遺骨収集事業の激労を重ね、無名将兵の亡きがらを現地で荼毘に伏し、遺骨として遺留品と共に、帰還させ東京千鳥ヶ淵の無名墓地に弔るという事業はいまも続けられている。
この戦争を知らない、若き世代の人達が、ボランティアとして激戦地に赴き、さまよえる将兵の霊魂と向きあって、そこに戦争のあった真実を知るという得難き行為は極めて貴重であります。
戦死者が累々と発生したのは、戦争の天王山ともいうべき、昭和十七年六月ミッドウェイ海戦に日本連合艦隊が敗れ、さらに同年八月にはアメリカに占領されたガダルカナル島の飛行場基地を奪還しようと、陸軍は各戦場に配備した方面隊、師団、旅団を大本営の指示のもと、稼働できる全ての軍隊をガダルカナル戦地に送り込んだ。
上陸した将兵は、飛行場周辺の敵軍陣地に向かって、一週間分の食糧と、兵によっては重機を分解して脊に背負い、工作隊員がジャングルに通路を切り開くのを先頭にして、昼夜の強行軍を敢行し、敵陣にたどり着いたときには、極度な疲労で思考能力すら無く、ある一人の少尉の日記には「今朝もまた数名が昇天する、ゴロゴロころがっている死体には、はえがぶんぶんたかっている、どうやら俺たちは、人間の肉体の限界まできたらしい、生き残った者は、顔は土色、頭の毛は赤子の産毛、入れ歯は外れ完全に顔相が変わっている」と書かれている。
こうした中で突撃し玉砕していった悲惨且つ哀れな将兵たち。
一方、皇居内に置かれた大本営では、こうした戦地の実態が把握されておらず、撤退命令が出されず将兵たちはしかばねとなった。
こうして、太平洋上の島々に孤立した守備兵は、後方支援を断たれ玉砕し果てたのでありました。
その数は、ガダルカナル島を含むソロモン諸島で十一万八千七百人、加えて中部太平洋上の島々を含むと、約五十万人に達する戦死者となる。
さて、八月十五日は、戦没者を追悼し平和を祈念する日であります。この日の靖国神社は全国からの参拝者での混雑を避け、明くる十六日に参拝しようと、私の家族、ひ孫の四才から六才の三名を含む直系親族十二名で、マイクロバスをレンタルし、十五日の昼過ぎ東京に到着、日本遺族会の紹介を受け九段会館に替わるKKRホテルで一泊し、早朝の昇殿参拝を行って参りました。
はたしてこの幼児たちに、戦争や靖国神社の意味は今は理解できないにしても、いずれ思い出として英霊顕彰に繋がることを期待しながら、子々孫々に継承できることを切に願っての記念の旅でもありました。
いずれ戦没者遺族としての思いは一つ、ご英霊の永久に安らかならんことを、ひたらすご祈念申し上げまして、祭文とさせていただきます。
平成二十四年十月二十一日
亀山市遺族会長
川戸真一
祭辞
猛暑が続いた夏も終わり、ようやく涼風が肌に心地よい秋がやってまいりました。太平洋戦争が終わりを告げた8月15日、三重県の遺族団は早朝、東京九段坂の靖国神社に詣で、亡き夫や父、兄弟と語り合ってまいりました。今年の靖国の庭は、例年にも増して激しい警戒態勢の中にありました。と申すのも前日、お隣、韓国の大統領が、日韓両国でせめぎ合う島根県竹島問題にからめて、天皇陛下に対して無礼ともいえる発言をしたと伝えられたからです。皇室を尊崇するわが国民感情を逆なでするもので、しかも、国民全てが戦没者を悼む、かけがえのないその日を的にしたと思えるだけに、私たちは言いようのない気持ちに襲われたことは否定できません。しかしながら、日本武道館にお迎えした天皇皇后両陛下は、静かに英霊の前に立たれて哀悼の誠を捧げられ、世界の平和を祈られたのです。
世の動きはともあれ、本日ここに三重県護国神社秋季例大祭が斎行されるに当たり戦没者遺族を代表して謹んで哀悼の誠を捧げ、諸霊のご冥福をお祈り申し上げます。
昭和六年九月十八日、当時満州と呼んだ中国東北部で勃発した戦火が、中国全土に、さらに太平洋各地、東南アジア、そして日本本土へととどまるところを知らず、多くの血が流され、尊い命が失われました。昭和20年8月15日正午、天皇陛下の玉音放送と共に、15年に及んだ苛烈を極めた戦争がようやく終わりを告げましたが、前線に送られた兵士のみならず、沖縄の地上戦、広島・長崎に投下された原爆、全国をおおった空襲の被災者などなど、300万人を超える国民の尊い命の犠牲のもとに、やっと平和がきたのです。
しかし、遺族をはじめ国民の苦難の道は、その後も長く続きました。わが国が焦土の中から立ち上がり、奇跡的な経済復興を遂げましたが、遺族や国民の多くはつつましく暮らし、生きるために必死に働き続けたのです。
五年前の十月、三重県遺族会は結成60周年の式典を挙行し、1冊の本を世に送りました。60周年記念誌「証」です。県下の遺族会員を代表して、つたない私が編集責任者をつとめさせて頂きました。先日の紀北町戦没者追悼式で追悼のことばを述べられた地元県議は、「証」について深く触れられ、遺族の思いを代弁してくださいました。
「証」の巻頭ページには、毎春この護国神社の神前に咲く桜の花と、玉砕の地、サイパンの戦場跡に散乱する兵士の遺骨の写真を掲載してあります。平和のシンボル、桜の花が、物言わぬ兵士たちの犠牲の上に咲き誇っていることを象徴したのですが、私たちの思いをきちんと伝えてくださいました。
あの不幸な時代に生を受け、苦難に満ちた戦中戦後を生きた私たちの経験を「証」として、今や国民の大多数を占める「戦争を知らない世代」に語り伝えなければなりません。二度と私たちのような「遺児」を生み出してはなりません。銃後に残された子どもであった私たち「遺児」も、戦後67年、すでによわい70歳を超え、あるいは超えようとしています。今年の全国戦没者追悼式参列者の最年少は、英霊のひ孫の世代でした。
さいわい、あの不幸な時代から学び、世界に平和を訴えて行こうと取り組んでいる子どもたちが増えています。子から孫、そしてひ孫へと、平和への祈りを絶やすことなく続けていかなければなりません。老いつつある私たちの残された人生における最大の使命であると思います。
私たちの願いにもかかわらず、中東など、今なお世界に戦火やテロが絶えることがないのが現実です。わが国と友好関係にあったはずの韓国が、竹島問題を先鋭化させ、あまつさえわが国と共にアジアのリーダーであるべき中国が、沖縄県尖閣諸島の領有権を主張して、不当な圧迫を加えてきています。中国の一部の民衆は、わが国との開戦や原爆使用までも叫んでいると伝えられています。中国国民の多くは、平和を希求していると信じますが、大変心配なことです。
戦没者の皆様が、かけがいのない命をもって示された教訓である、戦争の悲惨さと平和の大切さを心に刻み、二度と過ちを繰り返すことのないよう全力を尽くすことを、ここに改めてお誓い申し上げます。
終わりにあたりまして、皆様方のご冥福を心からお祈り申し上げ、私たち遺族の上にもご加護賜らんことを念じつつ、祭辞といたします。
平成二十四年十月二十二日
三重県北牟婁郡遺族会
会長 北村博司
祭文
本日ここに、ご来賓の皆様のご臨席を賜り、多くの遺族の参列のもとに、三重県護国神社の秋季例祭が斎行されるにあたり、戦没者遺族を代表しまして謹んで追悼の誠を捧げます。
先の大戦からはや六十八年が経過しました。それを当事者として語る人達が、年々減りつつある今日、国の安泰と繁栄を願いつつ、国難に殉じられた方々が、今日の日本の礎となっていることを、忘れてはなりません。
今年の夏は、気温四十度を記録する場所もあるなど記録的な猛暑や水不足、局地的な豪雨や竜巻による災害などの暗いニュースが多い一方、二〇二〇年のオリンピックの開催都市が東京都に決まるなど明るいニュースもありました。
戦争がいかに多くの命を軽視し、多大な犠牲を敵、味方の区別なく要求し、その痛手から立ち直るのに、どれほどの歳月がかかるのか、世界中の良識ある人々には、この先の大戦の歴史が教えてくれたはずです。最前線で戦った兵士、理不尽な最後を強いられた若者達、沖縄の塹壕で散った乙女等、原爆の被害を受けた人々、歯を食いしばって家を守った年老いた両親、妻、子供達に何が残されたかを考える時、戦争のあまりにも悲惨な思いのみが残されています。
今日、日本は世界の先進国として発展途上国に援助するまでに発展しましたが、二〇一一年に発生した東日本大震災からの復興や原発問題、領土問題など多くの課題が山積しております。また、団塊の世代が高齢世代となる二〇二五年問題では人口構造の変化で若い世代が減る中にあって、人と人との「絆」が薄れているのではないかと感じています。戦後の復興ではお互い助け合い、支え合って生きてきました。それが強い「絆」となり、復興への原動力となりました。
「絆」は人と人だけでなく、国と国とも繋がりあることができます。ある政治家は「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目になる。」と述べています。多くの犠牲の上に築かれた日本が、二度と過去の愚かな過ちを繰り返すことなく、人と人とが繋がりあう平和な国として存続し、また、微力ながら国と国とが繋がりあう世界平和のために尽力することが、私達戦没者遺族の責務であると思います。
人の生きた証は様々ですが、今なお、熱帯林の苔むす地に、また極寒の地に、あるいは南海に眠るご英霊が安らかに憩わんことを、心からお祈りいたします。
終わりに臨み、護国神社の社頭で世界平和と日本の繁栄、そして私達遺族の幸せを永遠にご加護賜りますようお祈り申し上げまして追悼のことばと致します。
平成二十五年十月二一日
木曽岬町遺族会会長
伊藤 好博
祭文
本日ここに、三重県護国神社秋季例大祭が、多数のご来賓及び遺族の皆様のご参列のもと、盛大に執り行われるにあたり、戦没者遺族を代表いたしまして、謹んで追悼のことばを申し上げます。
ご英霊の皆様は、祖国、家族を案じつつ戦禍に倒れ、その無念さと痛ましい犠牲に対し、心からの哀悼の誠を捧げます。
私の父が戦死した時私は一歳でした。
振り返って見ますと、誠に申し訳ないが、少年時代は父親のことは何も考えずに育ったものでした。
私は本当に戦争のことは何も知らないのです。
田舎で無邪気に育った私は、竹の棒を持って厳しくしつける怖い母と、やさしい笑顔の母、若くして夫を失った寂しさと痛手に耐えて、父親と母親を一人で使い分けて家庭を守っていたのだと気付きました。
とりわけ、英霊の家族として遺族会の組織を頼りに生き抜いた私たちの母は、夫を追慕し続けてなお、現在も生きています。子供を育て上げ、ささやかな幸せを得た母たちもすでに平均年齢九十五歳前後となり、さびしい老境にあります。
また、多くの妻の方が夫のもとに旅立っていく。
そうした反面、豊かな生活を送ることが出来る現在では、祖国を守るため、尊い命を捧げた人々への感謝の想いや戦争による惨禍の想いが薄れてしまっているのではないでしょうか。
戦後六十八年、戦争の犠牲の重みすら風化させるに充分な歳月が過ぎてしまっています。
しかし、私にとって、今も心に残っているのは、中学三年生の時に遺児として、靖国神社参拝に連れて行ってもらったことです。
このことが、現在、私の遺族会活動の源となっているのかも知れないと感じています。
遺族会組織の存続を掛けた対策として、難しいこととは思いますが、遺児の孫たちの靖国神社参拝企画なども実現できないものでしょうか。
戦争で命を無くしたご英霊への感謝は今後も忘れてはならないと思います。
私たち遺児は、戦没者の妻、並びに兄弟の方たちの意思を引き継ぎ、母親が生存している、いないに関わらず、遺族会組織の後継者と自覚し、今後も英霊顕彰に努めて頂きたいと願っています。
今後は、戦争のない平和な社会を願い、この想いをさらに子、孫へとバトンタッチが出来ますよう努力いたします。
おわりに、御霊の皆様のご冥福とご遺族各位のご健勝と心から祈念いたしまして祭文といたします。
平成二十五年十月二十二日
熊野市遺族会
会長 立嶋昌洪
追悼のことば
多くの尊い命が失われた、先の大戦から、早くも六十九年の歳月、過ぎ去りました。本日、御来賓の皆様のご参列を賜り、三重県護国神社秋季慰霊大祭がかくも厳かに執り行われるにあたり、遺族会として誠に意義深く厚く御礼申し上げ、戦没者の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。
戦後、我が国は敗戦という混乱の中から立ち上がり、幾多の国難を乗り越えて、今日の平和と繁栄を築きあげました。私たちは今、当たり前のように享受している平和と繁栄、そして、水と緑に囲まれた自然豊かな郷土のこの美しい姿が、戦争によって心ならずも命を落とされたご英霊の犠牲の上に築かれていることを、ひとときも忘れてはなりません。
多くの尊い人々が祖国の安泰を願い、家族を案じつつも厳しく激しい戦場に散り、戦禍に倒れ、或いは、愛する家族を思いながらも再び郷土の地を踏むことなく遠い異国の地で亡くなられました。私たちは、こうした尊い犠牲を次の世代にしっかりと伝え、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、恒久平和の実現に努めていくことこそが、遺族会にとって大きな使命であると確信しております。
また、最愛の肉親を亡くし、悲しみに耐え、多くの苦難に立ち向かいながら、家族を守り、平和な社会の実現に寄与してきた戦没者の妻も平均年齢九十五歳を超え、最も若い戦没者遺児でも六十九歳になります。国民の大半が戦争の悲劇を知らずに育った世代である今、改めて先の大戦で学んだ多くの教訓を心に刻み、平和の大切さや戦争の悲惨さを、次の世代にしっかりと語り継ぎ、ご英霊の顕彰と、戦後の苦難を乗り越え、祖国の復興に努めてきた我々遺族の福祉の向上、恒久平和の確立に全力を尽くしてまいりますことを、ここに固くお誓いいたします。
終わりに、尊い命を捧げられました多くの御英霊に対し、永久に安らかならんことをお祈り申し上げますとともに、本日ご臨席を賜りましたご来賓の方々、お世話を頂きました皆様に厚く御礼申し上げ、今後尚一層のご指導、ご鞭撻、ご協力をお願い申し上げまして追悼の詞といたします。
平成二十六年十月二十一日
桑名市遺族会
副会長 伊藤功
祭文
今年も護国神社の秋季例大祭を迎えました。先の大戦に於いて、祖国の平和と発展、家族の安泰を念じながら戦場に散り、戦火に倒れ、あるいは戦後、異郷の地に於いて還らぬ人となられたご英霊のご無念、苦しみを思うとき 尽きることのない悲痛な思いが胸にこみあげてまいります。最愛の肉親を失った私達遺族の悲しみは、言葉では語り尽くせないほど深く悲しいものでございます。残された私達は深い悲しみに耐え励ましあい助け合いながら、遺族としての誇りをもち、幾多の苦難を乗り越えて懸命に生き抜いてまいりました。戦後我が国は国民の皆様の叡知とたゆまぬ努力により廃墟の中から立ち上がり、平和で豊かな社会を築き上げてまいりました。しかし私たちが享受しております平和と繁栄は、戦争によって図らずも命を落とされた方々の尊い犠牲に築かれていることを忘れてはなりません。戦後六十九年を過ぎた今日も世界各地の状況に目を向ければ未だに領土拡張の風潮、テロリズム、核の脅威、宗教や民族の違いによる地域紛争は、絶えることがありません。我が国をとりまく国際環境も目まぐるしく変化し、力による現状変更の現実は予断を許さない状況にあります。このことに鑑み平和国家として、国際社会から高い評価を受けてきた我が国でありますが、憲法解釈の変更すなわち、集団的自衛権の行使容認による大きな課題が生じてまいりました。自衛隊の戦闘地域への派遣は絶対にあってはなりません。今後も注意深く見守ってまいります。三重県護国神社の秋季例大祭に於いて、戦没者を追悼し平和を祈念することは誠に意義の深いものと存じます。本日は多くのご来賓をお迎えし厳粛に大祭を挙行していただき、御霊に捧げて下さいまして誠に有難く、また私達遺族にとりましても、無上の慰めでございます。遺族一同に代わりまして心よりお礼申し上げます。ここに新たに過去の悲痛な戦争から学んだ教訓と平和の尊さを次の世代にしっかり伝え、この悲しい歴史を二度と繰り返さないことをお誓い申し上げます。終わりにご英霊のご冥福と祖国日本の平和を祈念しまして祭文といたします。
平成二十六年十月二十二日
三重県遺族会代表 田中俊彦
祭文
本日は、平成二十七年十月二十一日です。
世界の国を敵に回した戦争で、三百万人以上の戦死者を出した悪夢の時代が終わって、もう既に七十年の歳月が過ぎ去りました。昭和二十年八月十五日と言う日を境にして、人と人とが殺し合う戦争と軍国の時代が終わって、そして、平和な時代が訪れて、世の中は大きく変わりました。
私は今日、名張市の遺族の代表として、護国神社の秋の大祭に参列させていただき、お祀りされている御霊に対しての言葉を読むことになりました。
フィリピン・レイテ島で亡くなった私の兄貴も、ここにお祀りされています。
三重県内の戦没者がお祀りされている御霊の皆様。
あなたたちが記憶した七十幾年前の故郷には、今年も変わらず、春の若葉と桜の花咲く季節が訪れて、そして暑い夏が過ぎて今、野山の風景が紅葉の秋を迎える季節になりました。終戦の日を境にして、七十年前の暗い暗い軍国の時代の記憶と、今の自由と平和な生活の故郷の風景は、大きく大きく変わりました。今日の、平和で自由という時代を与えてくれた、戦争犠牲者の皆様。
こんな平和な時代を与えてくれた戦没の皆様には、ただ済まない気持ちで一杯です。
二十代、三十代の若さで、お国のためにと命じられて、戦場に送り出され、生まれ故郷を離れ、家族を思いながら、弾に向かって戦い、密林で食料を求めて苦しみながら、亡くなられたことを想うとき、私達は、ただただ済まない気持を持ち続けねばならないのです。
国も、県も、地域も、家庭でも、永久に、生きている限り御霊のお祀りと、感謝の気持ちを続けなければならない責任があるのです。七十年もの月日が流れた今は、あの真っ暗な悲惨な戦争と軍国主義がぼうした時代を、すっかり忘れて知らない世の中になりました。お祀りの言葉を読む私も、遺族の各位も、随分と歳を執りました。
あの戦争当時の私は、十三歳から十五歳の頃でした。
戦争の時代の空気を、ほんの少しですが、いろいろと体験した男です。
暗黒の時代から七十年をへて、戦没の皆様には、現在の自由と平和な時代を、ぜひ見せてあげたいと思います。
終戦の日を境にして、軍国時代の、あの真っ暗で悲壮な住民の顔と、ここ三重県内の住民の暮らしぶりと、その変わりようを、ぜひ見てほしいのです。
現在の充実した社会福祉と、地域作りで自由で平和に暮らす、わが町の住民の顔と。こんな時代を与えてくれた戦没の皆様には、ただただ済まない気持ちで一杯なのです。
ありがとう、戦没の皆様。
お祀りされている御霊の皆様。
もう、絶対に戦争は起こしません。暴走した軍国時代の独善を、絶対に許しません。
現在の平和で豊かな生活とを比較しながら、少しずつ戦争の記憶が薄れて行く事実を、当時を思えば思うほど複雑な思いが去来します。当然、若くして戦没の面影どころか、悲惨な戦争の事実も、戦争と言う言葉すらも、すっかり忘れきっている現在の平和な暮らしを思うとき、私たちは、更に次の世代になっても、悲惨な戦争を忘れず、戦没者の御霊を永久にお祀りする責任があるのです。
喜ばしいことに、日本の国には、あの終戦の日から七十年間に亙り戦争がありません。もう絶対に戦争は致しませんと誓います。護国の神としてお祭りされている戦争の犠牲になられた戦没の皆様。
人と人とが殺し合う戦争の無い日本の平和が、いつまでも続きますように願って止みません。あなたたちのお陰で、私たちは今、平和の中で満ち足りた生活を甘受しています。
生きている私たち遺族は、あなたたちを決して忘れる事なく、永く永くいつまでも、お祀りしていくことをお約束し、心からご冥福をお祈り申し上げます。
どうか、安らかにお眠りください。
それから、私たち住民と、我がふるさとの地域を、とこしえにお守り続けてください。
平成二十七年十月二十一日
名張市遺族連合会
会長 山口繁一
祭文
本日ここに、三重県護国神社、終戰七十年臨時大祭並に秋季例大祭が斎行されるに当り、戰没者遺族を代表して、ここに鎮まります、六万三百四十七柱のご英霊に、謹んで哀悼の誠を捧げます。
先の大東亜戰爭が終りを告げてから、七十年の歳月が過ぎ去りました。
顧みますれば、ご英霊は、先の戰において、父母を思い、妻子を案じ、祖国日本の将来を憂いながら、北は酷寒の地のアリューシャン列島から、南は、酷暑の赤道直下の島々で戰い、我に利あらずして敵弾に倒れ、或いは病魔におかされ、家族の誰一人に見守られる事なく、さみしく散華されました。そして散っていかれたご英霊の魂は、故郷に帰られましたが、未だ大半の方々のご遺骨は、遠く離れた異郷の山野や海底に眠っていられます。
ご英霊の最後の心情に思いを馳せる時、今もなお哀惜の念が胸に迫るのを禁じ得ません。衷心よりみ魂のご冥福をお祈り申し上げます。
振り返って、当時のことを思い起こしますと、私たち遺族は、唯ひたすらに、父、夫、子の無事帰還される日を、毎日氏神様にお参りし、一日千秋の思いで待っていました。しかし願いはかなわず、白木の箱の無言の帰還となりました。肉親の遺骨を手にしない限り、幾年経っても私共の戰後は終わりません。
戰後、遺族に対する国の援助も無く、社会の冷たい風に耐えて頑張って来たことは決して忘れることは出来ません。私共遺児たちは、それぞれが努力し、世間から後ろ指を指されないように、戰争遺児の誇りを持って生き抜いて参りました。
私たちは、世界の恒久平和を念願しておりますが、近隣の北朝鮮は、核開発や長距離弾道ミサイルの開発に走り、中国は南沙諸島の軍事基地化をして、海軍力を増強し、太平洋への進出を虎視眈々とねらっているのが現状であります。一方中近東では、イスラム過激派による武力闘爭により、難民が欧州にあふれ、無差別なテロ行為の危機感を全世界の国々にもたらしており、世界平和の確立は前途多難の様相を呈しています。
悲しい事ですが、我が国においても、人命を軽視し、簡単に人の命を奪う残虐な事件が新聞に載らない日はありません。利己主義で、身勝手な人が多く、国を愛するという心が薄れた今日の日本をご英霊がご覧になれば、さぞかし嘆かわしく思われることでしょう。
戰後七十年を経た今日、戰爭を知らない世代が、国民の八十%を超え、ともすれば、数多くの尊い犠牲があった戰爭の記憶が薄れつつあります。そして今日、私たちが受けている平和と繁栄は、ご英霊の尊い犠牲の上に築かれたことを決して忘れてはなりません。
私たち遺族会活動のうち、英霊顕彰運動の根幹であります内閣総理大臣の靖国神社参拝につきましては、平成二十五年十二月に参拝されて以来、中国、韓国の内政干渉により、実施されていない事は、残念の極みであります。ご英霊を祭る靖国神社を国家においてお祭りし、内閣総理大臣や閣僚の参拝を定着させ、天皇陛下のご親拝の途を開くことが遺族の多年の念願であります。
今後も私たちは、一致団結して、ご英霊の遺徳顕彰と、かつて戰爭体験を風化させることなく、尊い経験として、後世に語り継ぎ、再びあのような悲惨な戰爭を繰り返す事のないように、また私たちのような悲しみをもつ遺族をつくらないようにしなければなりません。
しかし遺族会も高齢化が進み、存続すらが怪しくなってきており、後継者の育成が急務であります。そのため、戰没者の孫、曽孫を中核とした「新世代の部」の結成を行いました。
最後にここにご参列の皆様と共に、ご英霊のご冥福をお祈り申し上げ、謹んで祭文といたします。
平成二十七年十月二十二日
遺族代表
松阪市遺族会連合会
会長 河合忠雄
祭文
本日ここに、三重県護国神社秋季例大祭が斎行されるに当たり戦没者遺族を代表し、護国神社に鎮座まします神霊の御前に謹んで祭文を奏上いたします。
過ぎし大戦において、国家の安泰と国民の悠久の幸せを願い、郷土に残した家族の身を案じつつ戦場に赴き、戦火の華と散り、あるいは病魔に侵され、また帰国を待ちながら遠い異国の地において亡くなられた、三重県出身戦没者の尊い生命は永久に帰ることはなく、ここに戦没された皆様方の心情に思いを致すとき、万感胸に迫り痛恨の極みであり、先の戦争が悔やまれてなりません。
唯々、御霊のご冥福をお祈り申し上げるのみであります。
平成二十六年二月十七日からインド戦跡慰霊巡拝団に参加し、イギリス軍との激戦地、コヒマ、インパールで慰霊祭を斎行致してまいりました。
インドは四十度を超える暑いところと聞いて行きましたが、高地のため防寒着が必用なほどの気候でした。百キロを超える道のりを私たちはバスにて半日がかり移動しましたが兵隊さんは徒歩でご苦労なされたことがしのばれます。
先の大戦が終わりを告げてから早や、七十一年の歳月が過ぎ去り、国民の大半が戦争を知らない世代となり、ともすれば、あの過酷な戦いの影、体験の風化が進み、英霊の貢献と遺訓が忘れ去られようとしていないでしょうか。
戦後、我が国は、国民が一丸となり目覚ましい発展を遂げてまいりました。
今、私たちは未だかつてない自由と平和で豊かな生活を享受するなかで、過去を謙虚に振り返り、あの戦禍の悲惨な体験を忘れることなく、若い世代に語り継いでいかなければなりません。
「天災は忘れた頃にやって来る」と言う言葉がありますが戦争は絶対に忘れてはなりません。人間が犯した罪により人間同士が殺しあう戦争の悲惨さを心に刻み、忘れることなく、二度と再び悲しみの歴史を繰り返さない思いを新たにし、新しい時代にふさわしい平和を築き上げることが私たち遺族に課せられた重大な責務であり、これこそが、犠牲となられた、英霊のご遺志にお報いする唯一の途と信じております。
私たち遺族会員も老齢化が進み会員の減少化に苦慮致しておりますが、若い世代の力をお借りし、英霊顕彰が続けられるよう頑張って参ります。
本日ここに県内各地より遺族代表が集い英霊各位に心から感謝の誠を捧げ、ご冥福をお祈りし、関係の皆様方に深く感謝申し上げますと共に、今後とも皆様方のご支援をお願い申し上げます。
終わりに当たり、重ねて神霊の御冥福を心より祈念申し上げ、今一度日本の国を御加護あらんことをお願い申し上げ祭文と致します。
平成二十八年十月二十二日
志摩市戦没者遺族会
会長 羽根弘夫
祭文
本日ここに、ご来賓の皆様のご臨席を賜り、多くの遺族の参列のもとに、三重県護国神社の秋季慰霊大祭が斎行されるにあたり、戦没者遺族を代表しまして謹んで追悼の誠を捧げます。
先の大戦からははや七十二年が経過しました。それを当事者として語る人達が、年々減りつつある今日、国の安泰と繁栄を願いつつ、国難に殉じられた方々が、現在の日本の礎となっていることを、決して忘れてはなりません。
戦争がいかに多くの命を軽視し、多大な犠牲を敵、味方の区別なく要求し、その痛手から立ち直るのに、どれほどの歳月がかかるのか、先の大戦の歴史が教えてくれたはずです。最前線で戦った兵士、理不尽な最期を強いられた若者達、原子爆弾の被害を受けた人々、歯を食いしばって家を守った年老いた両親、妻、子供達に何が残されたかを考える時、戦争のあまりにも悲惨な思いのみが残されています。
戦後、日本は、戦争への深い反省をもとに世界に誇れる平和国家として歩み続け、経済的発展を成し遂げるとともに国際社会においても後進国を援助するまでの枢要な役割を担っております。しかし、七十二年が経つ中で戦後生まれが八割を超え、先の大戦のことを知らない人が増えてきました。ひとりの人間には二度の死が訪れるという言葉があります。一度目は肉体の死、二度目はその存在や死んだことさえ忘れ去られた時ですが、戦争の史実や教訓を後世に正しく伝え、二度死なせないようにすることが残された私達遺族の使命ではないかと強く感じています。
人の生きた証は様々ですが、今なお、熱帯林の苔むす地に、また極寒の地に、あるいは南海に眠るご英霊が安らかに憩わんことを、心からお祈りいたします。
終わりに臨み、世界平和と日本の繁栄、そして私達遺族の幸せを永遠にご加護賜りますようお祈り申し上げまして追悼の言葉とします。
平成二十九年十月二十一日
木曽岬町遺族会会長
伊藤 好博
祭辞
菊の香漂う心地よい季節となってまいりました。本日ここ、三重県護国神社に於いて、御来賓の方々始め多くの、ご遺族の皆さんご参列のもと、秋季慰霊大祭が厳かに斎行されました。戦没者遺族を代表し、ここに祀られておられる六万余柱の御英霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。
月日の経つのは速いもので、戦後七十二年が過ぎました。御英霊のお父上、お母上はもとより、奥様方も既に多くは他界され、また、ご存命の方も、殆どが九十歳を超えるご高齢で、中には病院や介護施設でお過ごしの方も多くなってまいりました。今や一家の世帯主はご英霊の孫の時代となり、月日の経過とともに、あの悲惨な戦争の歴史が忘れられつつあるように感じられます。
夏には天皇・皇后両陛下をはじめ、国政に携わっておられる方々、そして全国からお集まりの遺族代表など、総勢六千二百人参列のもと、東京武道館において、全国戦没者追悼式が厳かに開催されました。また、広島と長崎でも終戦記念式典が行われ、戦争の悲惨さや原爆の恐ろしさが多くのメディアを通じて全世界に発信されました。式典には外国の要人も多く参列され、国の内外からは若い男女の参加も数多く見られました。世代が替わっても戦争の悲惨さと平和の尊さを末永く語り継がれていくことを望んで止みません。昨年アメリカのオバマ前大統領が広島を訪問されてから一年強、年間で百二十万人を数える外国人が、広島を訪問し、その数は従来に増して多くなったということです。単なる観光や買い物だけではなく、原爆ドームや記念館を見学し、当時の写真や遺品などから戦争の歴史と、その悲惨さを実感して帰って行かれたことと思います。
ご英霊の皆さんの多くは日本を遠く離れ、北は極寒のシベリアから、南は熱帯の島々まで、敵の銃弾に倒れ、中には飢えに苦しみ、志半ばで病魔に侵され尊い命をなくされました。私も父親の戦死したパプアニューギニアでの慰霊に、二度行かせていただきました。ひとたび町を離れると、今でもジャングルの島と言って過言ではないような所です。戦友とは生きて帰れずとも、再び靖国の杜で逢おうと誓い合い、祖国日本の繁栄と、家族の安泰を願いながら、ご英霊の皆さんは散華されました。その魂は永遠に靖国の杜にあり、それぞれの故郷には護国神社に祀られております。
私自身も戦争遺児の一人であり、既に七十七歳になりました。戦中は母一人子一人の生活で、周りの人々に助けられながら生きてまいりました。さつまいもの茎を食べ、米粒よりも麦や芋のほうが多いようなご飯を食べて過ごした記憶と、明野の飛行場に向かって飛んでくる艦載機の爆音、防空壕の中でサイレンの鳴り止むのを震えながら聞いていた記憶のみが残っています。終戦になっても生活は決して楽にならず、着るものは総てよそからのもらい物、いつ頃から白いご飯が食べられたか、殆ど記憶にありません。今から考えるとなんと貧しかったことか、同時に母親の苦労を考えたとき目頭の熱くなる思いです。その母親も十五年前に八十五歳で他界しました。
日本は戦後長い年月を経て、今日の平和と繁栄が築かれました。残された遺族や国民の努力もさることながら、ご英霊の国や家族を思う強い信念とご加護の賜物と信じてやみません。戦争は当事国のいずれにも利益を伴うものではありません。今のうちに親から子へ、そして子から孫へと戦争の悲惨さと無益さを伝え、この平和な日本が二度と戦禍にまみえることのないよう導いていかなければなりません。同時に、世界に向かっても同じことを訴え続けて行かなければなりません。
今、世界のどこかでは、民族や宗教の違いから国内紛争や、国境を越えての戦闘が行われており、兵士と共に多く一般の人々が犠牲となっております。
また日本を取り巻く近隣諸国にも暗雲がたなびき、一触即発の危険性が迫っているような感じが致します。もう戦争はごめんです。二度と同じような経験はしたくありません。若い人たちにもさせたくはありません。私たち遺族は、これからも、ご英霊の思いを後世に伝え、永遠に戦争のない、平和な世界と安全で暮らしやすい日本の国を守ってゆくことをここに固くお誓い致します。
終わりにあたり、謹んでご英霊のご冥福をお祈りすると共に、ご参列の皆さんのご健康とご多幸をお祈りしつつ、謹んで祭辞といたします。
平成二十九年十月二十二日
多気郡明和町遺族会
会長 森 正宏
祭文
三重県護国神社平成三十年秋季慰霊大祭
本日、此処・三重県護国神社に於いては秋季慰霊大祭を斎行され、厳粛に神事を全うして戴きますことに際し、また御来賓の諸先生方には御列席を賜り、この後玉串を奉じて頂きますことは感慨深く、心より感謝を申し上げます。
今季は、員弁地区遺族会が御奉仕担当でございますので、僭越ではございますが、遺族を代表して、戦没者総ての御霊を偲び慰霊の誠と追悼の辞を謹んで捧げます。
さて日本戦没者三百十万人という甚大な犠牲者を齎した太平洋戦争終戦から・本年は、七十三年目に当たりますが、視点を変えて言い換えられるとすれば、平和七十三間ということでもあります。
一般的に、多く方からは、「今の日本の平和と、経済社会の発展は、お国のために犠牲となられた・御英霊のお蔭です。」と、戦没者を称賛され、英雄視していただく・有り難くも深い意味の御言葉がございます。
しかし、畏れ乍ら、遺族家系にある私には、英霊と称えられる言葉を素直に感謝できない場面も時々あるのが真実でございます。
私事で恐縮ではありますが、私は父の兄、母の兄を共に終戦間際に南方戦線で失っており、遺骨は帰って来ておりません。
その叔父二人は、共に各家系の長男で跡取りの立場にありましたが、未婚のまま戦地に赴いて、戦死しましたので、生き残った夫々の弟が各家系を引継ぎました。彼等の弟や妹であった私の父母は、何か・事ある毎に、戦死した夫々の兄が如何に優秀であって、常に頼りにしていたが…と、偲んで、昔話を・よく申しておりました。
父母が其々の兄を慕う故の偶像的な優秀評価とは思ってみても、兵役に就かれた方々は、兵学校の士官、または甲種合格という通知で召集令状を受け取ったわけですから当然、優秀な人財であったに違いありませんが、特に私が感じ入った事は、鹿児島知覧の特攻隊基地記念館で、若くして先立つ覚悟を決められた方々の遺書を拝見した時、その文脈や文字の美しさに数多く触れて、素晴らしい知性と能力を汲み取れたことから、日本の其の後にとっても、実に勿体ない人物の多数を喪失してしまったのだなーと、強く思わされた時でした。
もし、戦死された人達の・優秀な知能や技能が、戦禍で失われずに・生きておられて、平和社会にと活かされていたと仮定し時、日本の発展は、現代の成果どころではなく、如何にも素晴らしい社会になっていたことであろうと想像され、地域や国の発展に大きく貢献されたであろう・実に大きな力を・同時に失ったのだということを強く思います。
彼等が犠牲となったせいで、昭和二十年以後の発展が大幅に遅延した・即ち、常に御英霊と崇められる方々の死は、この日本の発展にもマイナス、大損失であり、各家系発展の支えとも成り得たであろう惜しむべき人であり、残念無念の御霊だったのでは?と、逆に考えてしまうのも 遺族一員としての正直な気持ちでもあります。
つまり、戦争は寿命を全うできなかった戦没者ご自身の未練や無念さは無論の事、遺族にとっても、かけがえのない家族を亡くした悲しみや儚さは大きく、未亡人や遺児の苦難があり、また長男を失ったことにより、若くして苦労を強いられた後継者もありますが…、一人きりの男子を失って其の次の世代には家系が途絶えてしまった事例も数えきれない程に知っていますので、戦時に派生した負の遺産も大きくあったのでは?と考えてしまうからです。
また私が、某ボランティア国際会議で訪問したフィリピンでは、アメリカ人墓地の記念館で、両軍の進軍の経路や、双方の戦死者数が・あまりにも多くあった図などを見聞した時、軍隊攻防の議論の余地のない壮絶さや、戦争に於ける個人の考えの無力さ等を垣間見てとれ、感無量になったことを、今また鮮明に想起されます。
しかし、その場でフト街を振り向くと、激戦地の上に道路など都会が築かれている事を垣間見ましたので、その尊くも無残な屍が 埋没している土地の上に次の世を発展させてきた事を、歴史から学び、今の繁栄に対して、私達遺族としては、決して慢心してはならず…、鎮魂のための慰霊と、二度と過ちを繰り返しません・という覚悟の誓いを今、言葉通りに礎となって居られる・尊くも哀れなる御霊に 捧げなければならないと思います。
現在の日本は、終戦直後生まれの団塊世代の高齢化社会に突入しますが、年代人口の大きな塊となった起伏で、政治経済の難問となった事態も戦争の影響だとも言えます。
又、戦後の記念日行事が、国家間の政治戦略に利用されている感覚もあり、戦後というものは、長年に亘って悲劇が尾を引くものだと捉えて、私達は子孫の為にも政治の思惑の真意を慎重に見極めていなければならないと考えます。
戦後七十数年を経た今日に於いても、未だに、戦地の地下からは、遺骨が数十体、数百体という単位で発掘されているのも日本遺族会の活動の事実であり、実は未だ戦後は収束していないのだと、私は実感しております。
よって、その有様の如く、未だ遺骨すら帰還の叶わない多くの御霊に、衷心よりの遺憾の意を表しますと共に、現代文明に至っても、御帰還を叶えられない・私共の術の無さと、無力さを恥じ入り、無念の御霊に深くお詫びを申し上げますと共に、謹んで哀悼の誠を捧げる次第でございます。
さて遺族会に於いても、七十数年という経過は、年々再々と会員が減少しつつある一方、戦争を知らない若い世代が、ゲームで戦いを楽しんでいる風潮の昨今となりました。
痛みを知らない戦いの魅力に麻痺した人達が、もしかすると、将来に不幸の再燃を引き起こすかもしれないと、危惧する人は今も少なからず居られるのです。
そこで、平和への訴えの効果としては、戦争によって身内を失って、苦難と悲嘆さを実体験した戦争遺児等が、遺族として生きた同じ悲しみを、子々孫々に与えないようにと考え、その人生から得た共通の教訓を活かして、恒久平和への道に向けた、平和の誓いの輪を・若い世代へと継承しつつ、一般の方々へ拡げてゆく事が、私達・遺族会という団体の務めではないかと、地区会長職務を拝命してから特に深く思うところであり、県遺族会が推進する「新世代の会」の充実に期待したいと考えています。
結びに、毎年・慰霊事業を斎行し続けていただいている神職の方々や、行政関係様には、遺族会として、衷心よりの感謝の意を表します。
御霊に対しては、残された私達遺族として、先人の働きを忘れる事なく、今後も・日々弛まず・生活に努力し、世代を超えて力強く歩んでゆくことを、今日この三重護国神社秋季慰霊大祭に際して、あらためて固くお誓い申し上げます。
戦陣に赴いて散り、戦禍に巻き込まれて倒れられた全ての御霊に慰霊の誠を捧げ、在天の御霊が・永久に安らかならんことを、心より祈念申し上げまして、遺族会代表の辞といたします。
平成三十年十月二十一日
遺族会関係者 代表
員弁地区遺族会 会長 若松 芳弘
祭文
本日ここに、三重県護国神社秋季例大祭が斎行されるに当たり戦没者遺族を代表し、護国神社に鎮座まします御霊の御前に謹んで哀悼の誠を捧げます。
先の大戦が終結し、今年で七十三年が経過し、この大戦において祖国の安泰と、愛する家族や故郷の平和を守るために尊い命をささげられ、今日の平和と繁栄の基礎を築かれた、戦没者の方々に対し心から追悼の意を表するものであります。
また、この大戦において最愛の子や夫などの家族を失った戦没者家族の苦労は計り知れぬものがあります。その悲しみは、今日においても変わることはありません。
戦後七十三年、遺児の最低年齢も七十三歳となり、益々と高齢化になりつつあります。今日、我が国は経済的に豊かになりましたが、戦後世代が国民の八割を超える状況となり、遺族や戦争を体験された皆様も高齢になられ、先の大戦の意義がますます風化しつつあります。
さて、私たちが住む御浜町各地区遺族会の会員も高齢化の波が押し寄せ、年々、各地区における慰霊祭の開催も厳しい状況となっています。
幸い、当町にあっては、関係者のご指導、ご援助により、概ね年一回、各地区別に慰霊祭を開催させていただいております。
今後も、悲しみの歴史を風化されることのないよう、戦争の悲惨さや平和の尊さを子や孫の世代へ語り継ぎ、平和と幸せに溢れる社会の実現に寄与することが私たちの使命であると考えています。
遺族会におきましては、地区遺族会との連携を基にした組織化を図り、今後とも、戦没者各位の御霊をご加護できるよう努力して参る所存でございます。
結びに、戦没者各位の御霊がとこしえに、安らかんこと、在天の光として今後とも、我が故郷の町、そして日本国の繁栄と平和を念じ、併せて戦没者ご遺族、ご臨席の皆様方の御多幸を祈念いたしまして、祭文といたします。
平成三十年十月二十二日
御浜町遺族会
会長 山田 芳弘
祭文
菊花薫る清々しい今日この頃戦没者ご遺族並びに各界代表者のご参列のもと、令和元年度三重県護国神社秋季例大祭が執り行われるにあたり三重県遺族会を代表して謹んで慰霊と感謝の誠を捧げます。
今年で終戦七十四年が経ち去る八月十五日の終戦記念日には、令和元年の新しい天皇皇后両陛下ご臨席のもと全国戦没者追悼式が執り行われました。
日本中の国民が正午十二時の時報と共に黙祷いたしました。
ご英霊になられた方々を想う時彼らには楽しい青春時代もなく、自分の思いとはうらはらに行きたくもない戦争に行かなければならなかったあの時代に残酷な戦争に立ち向かって命を落とされたこと誠に感慨深いものがあります。
私たちはそのような状況を考えると本当に幸せなんだと改めて感謝しなければなりません。
私はニューギニア戦記を読む機会がありそのページをめくっていくたびに悲惨な戦争だったことを感じました。又私はそのような戦争を経験したこともないのにその場面が目に浮かび心を痛めました。
思い鉄兜に軍の靴着っぱなしの軍服にリュックを背負い銃剣を持ってただひたすらに歩く……どこまで歩くのかわからない兵隊さん、食糧も満足に無くマラリアにかかって亡くなっていく。今の私たちがこのような場面に遭遇したらどうすることもできないでしょう
本当にご英霊の方々には言うに言えないご苦労と忍耐そして郷土に残した父や母兄弟を想い大変悔しかったことでしょう。二度とこのような悲惨な戦争を繰り返さないよう私たち新世代は遺族会活動を通じて世界の平和を祈らなければなりません。
私たちは戦争の経験も無く育ちましたがご英霊になられた方々に見守られ、又遺族となられた父や母のお蔭で順風満帆に今まで過ごすことができましたこと誠に感謝にたえません。
ありがとうございました。
これからも私たち新世代は三重県護国神社に鎮まりますご英霊の方々を永遠にお祀りし忘れられることなく、後世に引き継ぐことをお誓い申し上げます。
自分の命に代えて我が国を護られたご英霊の皆さんどうか郷土の平和と繁栄をいつまでもお守りください。
終わりに御英霊の方々のご冥福とご遺族各位のご多幸を心よりお祈りし慰霊の言葉といたします。
令和元年十月二十一日
遺族代表
三重県遺族会 新世代の会
会長 山口 久喜
祭文
本日ここに、ご来賓の皆様のご臨席を賜り、また多くの遺族の参列のもとに、三重県護国神社の秋季慰霊大祭が斎行されるにあたり、戦没者遺族を代表しまして、ここに祭られておられるご英霊に対して、謹んで追悼の誠を捧げます。
昭和から平成、令和と戦後75年が過ぎました。国の安泰と繁栄を願いつつ犠牲になられた戦没者が英雄しされていることには深い意味が込められていることと思います。
私ごとで恐縮でありますが、子供のころの思い出は違ったものがありました。私の母は、夫を失いました。以前に母から「戦死されました」と戦友が伝えにきてくれたと聞きました。母と私とおばあちゃんの3人でどんな生活を送ったのでしょうか。収入が無い中で、どうように生活していたのでしょうか。母には2人の兄がいましたが、兄二人も戦死しました。母の在所も女二人と子供3人の家庭となりました。幸いにも母の親元は近くでしたので、私は、母の生まれた家で、従妹4人で食事をしていたことを記憶しています。このことは私の家庭の事だけではなかったと思います。最愛の子や夫など家族を失った戦没者家族の苦労は計り知れないものがあったはずです。戦争のあまりにも悲惨な思いのみが残されています。その悲しみは、今でも変わることはありません。
私の父はビルマ〔今のミャンマー〕で亡くなりました。タイとの国境近くと聞いています。外国人の立ち入りが制限されていると聞いています。遺骨の収集も行われていません。もし遺骨の収集が計画されたら、ぜひ参加したいと思っています。
遺児の年齢も75歳以上となりつつあります。年々高齢化になりつつあります。今日の日本は、経済的に豊かな国となりましたが、戦争の事を語ることができる人も少なくなってきました。戦争の事を知らない人が増えてきました。戦争の事を後世に正しく伝えていくことも私たち遺児の使命ではないかと強く感じています。
厚生労働省が「慰霊碑」や「記念碑」の修理・移転に補助をしてくれることになりました。私たちの地区では地域の方々と連携してこの事業を進めていきたいと思っています。地域の方々と連携しながら、戦没者の霊が安らかんこと、恒久平和の道へ、平和の誓いの輪を、一般の方々へも広げていくことが、私たち遺族の務めだと思っています。
終わりにあたり、毎年、慰霊事業を斎行していただいている神職の方々や行政関係の方々に衷心より感謝いたします。また、ご英霊が安らかに憩わんことをお祈りするとともに、ご参列の皆様のご健康ご多幸をお祈りしつつ、謹んで祭文とします。
令和元年十月二十二日
津市戦没者遺族会
後藤 勇
祭文
暑く長かった夏が去り、すっかり秋めいてきた今日この頃、戦没者ご遺族および各界代表参列のもと、令和五年度三重県護国神社秋季例大祭がとり行われるにあたり、三重県遺族会を代表して謹んで追悼の言葉を申し上げます。
令和二年から続いた新型コロナの拡大により、多くの行事が中止や縮小がされた中、本年度より以前のように例大祭がとり行われることを大変嬉しく思います。
多くの命が犠牲となった先の大戦から、七十八年を迎えました。国家の安泰と国民の幸せを願い、故郷に残した最愛の家族を案じつつ、戦場に赴いた数多くの命は、永遠に帰ることはありませんでした。私の祖父もその中のひとりです。隣近所にはおじいさんがいるのに、家には何故おじいさんがいないのだろうと子ども心に思ったものでした。聞いてはいけないような気がして祖母や母に聞くこともありませんでしたが、祖母の遺族会での活動を見て、祖父は先の大戦で亡くなったのだと分かりました。一度だけ祖父の遺品を母が見せてくれましたが、私たちに多くを語ることはありませんでした。祖父は大戦の早い時期に亡くなったので遺骨や遺品が戻ってきたそうです。大戦が進むと遺骨や遺品が戻らなかった方も多くあったと聞きます。数々の尊い犠牲のもとに今日の私たちが享受している平和があります。そのことを深くかみしめながらご冥福をお祈りします。
さて、戦後七十八年、戦争を知らない世代が八割以上になり、我が国が戦争をしていた時代は遠いものになりました。しかし、世界に目を向けるとロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ地区侵攻など先の大戦を思わせる出来事がたくさん起こっています。私たち戦争を知らない世代も次の世代に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えるべく、語り部など戦争を体験された方のお話を聞き、負の遺産にも触れ、次世代に記憶を継承していくことが大切だと思います。ご英霊の皆さま、どうか郷土の平和と繁栄を守るため、新世代の会の活動をお見守りください。
最後にご英霊の皆さまのご冥福とご遺族の皆さまおよび関係者の皆さまのご健勝とご多幸を心よりお祈りし、追悼の言葉といたします。
令和五年十月二十一日
遺族代表 四日市市遺族会新世代の会
副会長 堀木 厚子